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第七十四章 赤い、帽子

『今夜は、右に、三十一メートル、です』


無線から、イングリッドさんの声がした。


***


一月九日の、夜の、十一時四十分。

ゆうべと同じ雪原に、俺は、しゃがんでいた。


***


「……三十一」

『ゆうべ、下がった分と、右に曲がった分と、足しました』

「了解です」

『アイス・プリズン、お願いします!』


***


無線の向こうで、『レディー』が、小さく、何か言った。

たぶん、「うるさい」だった。


***


イングリッドさんと『レディー』は、百メートル後ろの車の中にいた。

ヘッドライトは、消してあった。

ノートパソコンの画面だけが、窓の内側で、青く光っていた。


***


『ジョン』は、俺の少し後ろに立っていた。

無線を握って。

ソルヴェイさんの、赤い帽子をかぶって。


俺も、かぶっていた。

あったかかった。


***


雪に、手を当てた。

昼間、白鳥を八羽作った手だった。


氷の格子が、立ち上がった。

白鳥では、なかった。ちゃんと、檻だった。


***


「……よう、できとる」

メレオスが、格子を見上げた。

「白鳥の稽古が、効いたのぉ」

「白鳥の稽古は、してない」

「八羽も、作ったじゃろうが」


***


昼間の空き地を、思い出した。

行列と、笑い声と、雪に転がる赤い帽子。二十人くらいの。


あの子たちの町に、あれを、入れるわけにはいかなかった。


***


零時、五分。


町のほうで、犬が、吠えた。

一匹。二匹。町中の、犬。


メレオスが、俺のコートの裾を、掴んだ。


***


零時、十一分。


「……健司」

「ああ」

「……来ん」


「来ない?」


***


メレオスは、格子のほうを、見ていなかった。

山のほうも、見ていなかった。

左を、見ていた。


左の、ずっと後ろ。

百メートル後ろの、車のほうを。


***


零時、十二分。


足の下で、地面が、揺れた。


ぽすん。


雪の上に、窪みが、一つ、できた。


檻の中では、なかった。

檻の、手前でもなかった。

檻の、ずっと左だった。


***


ぽすん。

ぽすん。


窪みは、町のほうへは、向かっていなかった。

斜めに、まっすぐに、雪原を横切って。


車のほうへ、向かっていた。


***


「……『オザケン』」

『ジョン』の声が、硬くなった。

「進路が、変わった」


無線に、呼びかけた。


「イングリッドさん。今夜の揺れ、どこですか」


***


返事は、すぐに、来た。


『……震源、は』


数字を、読み上げはじめた。

いつもの、きびきびした声だった。


途中で、止まった。


『……あ』


それきりだった。


***


車の、ドアが、開く音がした。

百メートル向こうから、雪原を渡って、はっきり、聞こえた。


***


車の中の、青い光を背にして、背の高い人影が、雪の上に、降りた。

三つ編みが、揺れていた。

赤い帽子を、かぶっていた。


***


イングリッドさんは、歩き出した。


山のほうへ。

窪みの、来るほうへ。

まっすぐ。ゆっくり。


***


走り出したかった。

足が、止まった。


檻を、置いていけなかった。

今、ここを離れたら、格子が、崩れる。

崩れたら、二度と、あれを入れる場所がない。


***


それより、先に。


俺の横を、誰かが、通り過ぎた。

『ジョン』だった。


***


無線を、雪の上に、落としていた。

両手を、だらりと、下げていた。

山のほうへ。イングリッドさんと、同じ方向へ。同じ、速さで。


***


「『ジョン』!」


腕を、掴んだ。

『ジョン』が、振り返った。


笑っていた。


***


「……大丈夫だ」


穏やかな、声だった。

三年前の話をしたときより、ずっと、穏やかだった。

『ジョン』の声では、なかった。


***


大丈夫、って、笑って。


教会の、記録簿の、ページを思い出した。

去年の夏に結婚した、二人。

冬至の夜、止めようとした隣の人に、そう言って、山へ歩いていった二人。


***


「……健司!」


メレオスが、叫んだ。

こんな声は、冬至の山でも、聞かなかった。


「帽子じゃ!」


***


「……帽子?」


「糸が、見える! 帽子から、糸が、伸びとる! あれのほうへ!」


***


俺には、見えなかった。

見えなかったけど、分かった。


『ジョン』の頭から、赤い帽子を、むしり取った。


『ジョン』の足が、止まった。


***


笑っていた顔が、ほどけた。

それから、ゆっくりと、ただの、疲れた顔に、戻った。


***


「……俺は」

『ジョン』が、自分の手を見た。

「今、何を、してた」


「歩いてました」

「どこへ」

「山へ」


***


『ジョン』は、雪の上の、自分の足跡を見た。

山のほうへ、七歩。

それから、俺の手の中の、赤い帽子を見た。


顔色が、変わった。


「……イングリッド」


振り向いた。


***


イングリッドさんは、まだ、歩いていた。

車から、五十メートル。

窪みの列は、まっすぐ、イングリッドさんのほうへ、伸びていた。


距離が、縮まっていた。


***


その後ろに、もう一つ、人影があった。

『レディー』だった。


***


『レディー』も、歩いていた。

イングリッドさんの、二十メートル後ろを。

同じ、ゆっくりした足取りで。山のほうへ。


***


「……『レディー』さん」


声が、届く距離じゃなかった。


『レディー』が、止まった。

自分で、止まった。


***


雪の上で、一度、立ち止まって、自分の足を、見下ろした。

それから、自分の頭に、手をやった。


赤い帽子を、自分で、脱いだ。

脱いで、雪の上に、投げ捨てた。


***


一秒も、なかった。


次の瞬間には、走っていた。


***


雪を、蹴って。

二十メートルを、あっという間に、詰めて。

イングリッドさんの背中に、飛びついた。


二人とも、雪の上に、倒れた。


***


『レディー』の手が、イングリッドさんの頭から、赤い帽子を、はぎ取った。

遠くに、放った。


赤い帽子が、ヘッドライトの届かない暗がりに、落ちた。


***


ぽすん。


窪みが、一つ、できた。

イングリッドさんの、十メートル手前だった。


それきり、次の窪みは、できなかった。


***


「……止まった」


メレオスの手が、俺の裾から、離れた。


「糸が、切れた。……あれは、今、迷うとる」


「迷う?」

「呼んだ相手が、来んからじゃ」


走った。


***


檻は、置いていった。

格子が、後ろで、ぴしりと鳴った。

崩れたのかもしれなかった。振り向かなかった。


***


『ジョン』が、横を走っていた。

帽子のない頭から、湯気が、出ていた。


***


最後の窪みと、イングリッドさんのあいだに、滑り込んだ。

雪に、手を、叩きつけた。


氷が、立ち上がった。


***


檻では、なかった。壁だった。

俺の背より、高い、透き通った、氷の壁。


白鳥じゃなくて、よかった。


***


壁の向こうで、何かが、止まっていた。


見えなかった。でも、いた。

ゆうべ、格子に、ぶつかってきたもの。

軽くて、冷たくて、中身だけの、何か。


***


メレオスが、壁の前に、出た。


小さな背中だった。

金色のボタンが、車のライトを、跳ね返していた。


***


メレオスが、口を開いた。

昔の言葉だった。

ゆうべと、同じ、短い音だった。


帰れ。


***


壁の向こうの何かは、しばらく、動かなかった。


それから。


ぽすん。


窪みが、一つ、できた。


***


山のほうでは、なかった。

町のほうだった。


ぽすん。

ぽすん。


壁を、よけて。斜めに。

いつもの、町への道に、戻っていく。


***


帰れ、とは、言われた。

でも、帰らなかった。

帰るかわりに、いつもどおり、四百メートル、町に近づいて。


止まった。


犬の声が、止んだ。


***


メレオスは、壁の前に立ったまま、振り返らなかった。


「……二度目は、聞かん、か」


小さな、声だった。


***


イングリッドさんは、雪の上に、座り込んでいた。

『レディー』が、後ろから、肩を抱えていた。

眼鏡が、片方、ずれていた。


***


「……ケンジ、さん」


イングリッドさんは、俺を見た。

それから、自分の手を見た。

それから、山のほうを見た。


***


ノルウェー語で、何か、言った。

震えていた。

それから、日本語で、言い直した。


***


「……呼ばれ、ました」


「誰に」


「分かりません。……名前を。私の、名前を。あったかい、声で」


***


イングリッドさんは、自分の頭に、手をやった。

何も、なかった。

三つ編みが、ほどけかけていた。


***


「行かなきゃ、って、思いました。怖くなかった。ぜんぜん。……大丈夫、って」


大丈夫、って。


***


『レディー』は、何も言わなかった。

イングリッドさんの肩を、抱えたまま、暗がりに落ちた、赤い帽子のほうを、見ていた。


***


「……『レディー』さんは」

俺は、聞いた。

「なんで、止まれたんですか」


『レディー』は、少しだけ、黙った。


***


「……呼ばれたのよ。私も」


「……」


「あったかい声で。大丈夫、って。いい気分だったわ。歩きたくて、しょうがなかった」


***


『レディー』は、自分の、帽子のない頭に、手をやった。

髪が、雪で、濡れていた。


「……昔ね。そういう声で、呼ばれてたのよ。子供のころ」


***


それ以上は、言わなかった。


「だから、分かった。……こういう声は、だいたい、ろくでもない」


***


夜中の、二時。

ホテルの、俺の部屋。


ベッドの上に、赤い帽子が、四つ、並んでいた。


俺のと。『ジョン』のと。『レディー』のと。イングリッドさんのと。


***


イングリッドさんの帽子は、『ジョン』が、暗がりから、懐中電灯で探して、拾ってきた。

素手では、触らなかった。

手袋を、二枚、重ねていた。


***


イングリッドさんは、ホテルの、空いている部屋で、眠っていた。

ソルヴェイさんを、起こさないように、裏口から入れた。

鍵は、『レディー』が、開けた。

どうやって開けたのかは、聞かなかった。


***


「……俺のは、なんで、何ともなかったんですか」


俺は、自分の帽子を、手に取った。

あったかかった。

ほかの三つと、何も、変わらなかった。


***


「お主には、入れんからじゃ」

メレオスが、言った。

「糸は、お主の帽子からも、伸びとった。じゃが、お主の中まで、届いとらなんだ。……戸締まりじゃ。伊左衛門の」


***


じいちゃんの戸締まりが、北極圏で、俺を、止めていた。


***


『レディー』が、イングリッドさんの帽子を、取り上げた。

裏返した。


帽子の、内側。

頭に当たるほうの、編み目。


外からは、ただの、赤い、ゴム編みだった。

内側は、違った。


***


赤い毛糸の中に、一本だけ、黒い糸が、混ざっていた。

細い、黒い糸が、編み目に沿って、ぐるりと、頭を一周して。

ところどころで、折れ曲がって、線を、描いていた。


***


「……『オザケン』」

『ジョン』が、スマホのライトを、当てた。


見覚えが、あった。


***


『常世会』の、紋章。

湾岸の倉庫の、手の甲。

隠り山の、祠の跡の、石。

何度も、何度も、見てきた形。


その、線の、数だけが、違った。


***


「……数えたわ」

『レディー』が、言った。


「何をですか」


「帽子。昼間、空き地で」


***


『レディー』は、帽子を、ベッドの上に、置いた。

裏返したまま。

黒い線が、上を向いていた。


「二十三人。町の子供。……全員、かぶってた」


***


誰も、何も、言わなかった。


ベッドの上の、四つの帽子を、見ていた。


冬至の夜に、山へ歩いていった二人も、たぶん、かぶっていた。

赤い、帽子を。あったかい、帽子を。


***


町の人に、みんな、編んでくれるんです。

やさしい人です。


イングリッドさんの声が、頭の中で、聞こえた。


***


「……ソルヴェイ、さん」


言ったのは、俺だった。


いい人ですね、と、三回、言った口だった。


***


『レディー』は、何も言わなかった。

言わなかったのは、この町に来てから、四回目だった。

でも、今夜のは、答えなかった、のでは、なかった。


「……決めつけないで」


***


『レディー』は、窓の外を、見た。

ホテルの、裏の、空き地のほうを。


***


「編んだのは、あの人。それは、確か。でも、図案を、誰が渡したのかは、まだ、分からない」


「……でも」

「でも、よ」


***


『レディー』の声が、低くなった。


***


「今、あの人に、帽子のことを聞いたら。一晩で、この町の、赤い帽子が、全部、消えるわ」

「……それなら」

「それで、子供が助かると思う?」


***


分からなかった。

帽子が消えても、あれは、来る。

十四日の、零時十二分に。町に。


***


「帽子を、取り上げるのは、簡単よ」

『レディー』は、言った。

「二十三人ぶん、全部。夜中に。私なら、一晩でできる」

「……」

「でも、そうしたら、あの人は、次の手を打つ。今度は、私たちの、知らない手を」


***


『ジョン』が、ベッドの端に、腰を下ろした。

帽子を脱いだ頭を、両手で、抱えた。


***


「……俺は、七歩、歩いた」

『ジョン』は、言った。

「自分で、決めたつもりだった。大丈夫だ、って。本気で、思ってた」


***


「隠り山の、二十六人も」

俺は、言った。

「自分で、決めた、って」


「ああ」

『ジョン』は、顔を上げなかった。

「……自分で決めたと思わせるのが、一番、たちが悪い」


***


メレオスは、ベッドの端で、膝を抱えていた。


「あれは、呼ぶのが、得意じゃ」


小さな、声だった。


***


「昔から、そうじゃった。……向こうでも」


向こう。


聞き返そうとした。

メレオスは、もう、膝に、顔を埋めていた。


***


朝の、九時。


眠れなかった。


窓の外は、真っ暗だった。

ホテルの裏口の明かりだけが、空き地を照らしていた。


カーテンを、少しだけ、開けた。


***


行列が、できていた。


滑り台の、階段の下から。

行儀よく、一列に。

白鳥の、八羽の、あいだを縫って。


赤い帽子が、並んでいた。


一つ。二つ。

数えるのを、やめた。


***


裏口が、開いた。


ソルヴェイさんが、出てきた。

大きな鍋を、抱えて。

甘い、ココアの匂いが、窓ガラスの隙間から、入ってきた気がした。


***


赤い帽子が、わっと、ソルヴェイさんの周りに、集まった。


***


ソルヴェイさんは、にこにこしていた。

一人ずつ、カップを渡して。

一人ずつ、頭を、撫でていた。帽子の、上から。


***


それから、ふと、顔を上げた。


俺の、部屋の、窓を。


目が、合った。


***


ソルヴェイさんは、にっこり笑った。

丸い眼鏡の奥で、目を細めて。

ココアのお玉を持ったまま、手を、振った。


***


いつもの、ソルヴェイさんだった。

やさしい人の、笑い方だった。


***


俺は、手を、振り返した。


笑えていたかどうかは、分からなかった。


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