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第七十三章 白鳥、七羽

「……健司。わしの滑り台に、行列ができとる」


***


メレオスが、窓に張りついていた。


***


一月九日の、朝の十時だった。

もちろん、真っ暗だった。


***


腕が、重かった。

ゆうべの檻のせいだった。

布団から出した右手を、握って、開いた。

指は、ちゃんと、動いた。


***


「行列って、なんだよ」

「行列は、行列じゃ。見てみい」


***


窓の下は、ホテルの裏の空き地だった。

きのう、俺が、白鳥と滑り台と檻を作った場所だった。


***


ホテルの裏口の明かりが、空き地を照らしていた。

その明かりの中に、子供が、並んでいた。


***


十人。

十五人。

もっと、いた。


***


全員、滑り台の階段の下から、行儀よく、一列に並んでいた。

一人ずつ、上って。

一人ずつ、滑って。

下で、雪に転がって、笑っていた。


***


白鳥には、小さい子が三人、しがみついていた。

氷の檻の中では、二人が、鬼ごっこをしていた。


***


檻の中で。

鬼ごっこを。


***


「……アイス・プリズンが、遊具になってる」

「お主、今、その名で呼んだな」

「呼んでない」

「呼んだぞ」


***


子供たちは、みんな、同じ帽子をかぶっていた。

赤い、毛糸の帽子だった。


***


朝食の食堂に下りると、ソルヴェイさんが、窓際で、手を叩いていた。


***


にこにこしていた。

いつもより、もっと、にこにこしていた。

目のところが、少しだけ、赤かった。


***


ソルヴェイさんは、『レディー』に、早口で、何か言った。

『レディー』が、パンに茶色いチーズを載せながら、訳した。


***


「冬至から、この町の子供は、外に出してもらえなかったんだって」

「……夜は外に出るな、って、あれですか」

「ここは、一日中、夜だもの」


***


一日中が、夜なら。

一日中、外に出られない。


***


「三週間ぶりに、外で、子供の笑い声を聞いたって」

『レディー』は、少しだけ、間を置いた。

「誰が作ったのか知らないけど、ありがとう、だって」


***


俺は、コーヒーを、飲んだ。

熱かった。


***


ソルヴェイさんは、窓の外の子供たちを見ていた。

それから、厨房に入って、大きな鍋を抱えて出てきた。

甘い匂いがした。

ココアだった。


***


裏口から、鍋ごと、子供たちのところへ持っていった。

子供たちが、わっと、集まった。

赤い帽子が、ソルヴェイさんの周りに、輪になった。


***


「……いい人ですね」


***


言ってから、気づいた。

この町に来てから、三回目だった。


***


『レディー』は、何も言わなかった。

窓の外を、見ていた。

唇が、少しだけ、動いていた。


***


数を、数えていた。

たぶん、帽子の。


***


メレオスは、テーブルの端で、茶色いチーズを削っていた。


***


一枚。

一枚だけ、削って。

口に入れて。

それきり、手が止まった。


***


おかしかった。

きのうのメレオスなら、三枚目で皿が山になっていた。


***


「……メレオス」

小声で、呼んだ。

「ゆうべの、あれ。名前って」


***


メレオスは、チーズの塊を、見たまま、言った。


***


「朝飯の席で、する話では、ない」


***


それから、猛然と、削りはじめた。


***


二枚。三枚。四枚。

皿が、茶色いリボンで、みるみる山になった。


***


「……する話じゃないのは、分かった」

「分かれば、よい」

「削りすぎだろ」

「裏切られた分を、取り返しとるんじゃ」


***


裏切られたのは、きのうの話だった。

今日は、何に、裏切られたのかは、言わなかった。


***


「ケンジさん!」


***


食堂の入り口に、イングリッドさんが、立っていた。

また、呼んでいなかった。


***


目の下に、隈があった。

でも、目は、きらきらしていた。

両手で、ノートを一冊、抱えていた。


***


「寝てないんですか」

「寝てません!」

いい返事だった。

「これを、作っていたので!」


***


イングリッドさんは、テーブルの上に、ノートを開いた。


***


一ページ目に、大きく、カタカナで、書いてあった。


***


『ケンジさんの わざ いちらん(あん)』


***


「……一覧」

「技には、名前が、必要です! きのう、言いました!」


***


二ページ目。


***


『アイス・プリズン(かくてい)』


***


「確定してません」

「確定、です!」


***


三ページ目。


***


『スノー・スワン』

『アイス・スライダー』


***


「白鳥と、滑り台にまで」

「全部、技です!」


***


テーブルの端で、メレオスが、チーズを喉に詰まらせていた。

笑いを、こらえすぎていた。


***


「ケンジさん」

イングリッドさんは、ペンを構えた。

「ほかにも、技、ありますよね。アニメの人は、だいたい、属性が、四つあります」


***


あった。

火と、風と、土と、雷。

四つ、ちょうど。


***


「……ないです」

「あります。顔に、書いてあります」

「書いてないです」


***


「風は」

イングリッドさんは、ペンの先で、俺の顔を指した。

「風の技は、何て、呼んでますか」


***


「呼んでません」


***


「ウィンドカッターじゃ」


***


メレオスだった。

見えないまま、言った。

もちろん、イングリッドさんには、聞こえていない。


***


聞こえていないのに。


***


「……ウィンドカッター、です」


***


つられた。

口が、勝手に、言っていた。


***


イングリッドさんが、ペンを置いた。

ゆっくりと、顔を上げた。

眼鏡が、光っていた。


***


「……名前、あるじゃないですか」


***


「……」

「自分で、つけてるじゃないですか!」

「……それは、その、昔から、そう呼ばれてて」

「誰に、ですか」


***


神様に、とは、言えなかった。

CIAの人にも、とは、もっと、言えなかった。


***


『ジョン』が、コーヒーを、吹いていた。


***


「ウィンドカッターは、いいのに」

イングリッドさんは、ノートを、ぱたんと、閉じた。

「アイス・プリズンは、だめなんですか」


***


正論だった。

アニメで覚えた日本語の、正論だった。


***


「……アイス・プリズンで、いいです」

「やった!」


***


負けた。

北極圏で、技の名前の、交渉に、負けた。


***


メレオスは、テーブルの下で、床を叩いていた。

ぶわっはは、と、声にならない声で、笑っていた。


***


ちゃんと、笑っていた。

少しだけ、ほっとした。


***


裏口のほうで、声がした。


***


子供の声だった。

一人じゃなかった。


***


食堂の入り口から、赤い帽子が、三つ、覗いていた。

一番前の子が、何か、言った。

ノルウェー語だった。

指で、俺を、差していた。


***


「……なんて?」


***


『レディー』が、訳した。


***


「白鳥のお兄さんですか、って」


***


「……違います」

「イエス、って言っといたわ」

「違いますって」

「嘘をつくと、子供は、すぐ分かるのよ」


***


一番前の子が、また、何か言った。

後ろの二人が、うんうん、と、頷いていた。


***


「もう一羽、作って。……だって」


***


「……学術視察なんですけど」

「知ってるわよ」


***


『レディー』は、茶色いチーズを、もう一枚、パンに載せた。


***


「断るなら、自分で、言いなさい」


***


赤い帽子が、三つ、俺を、見上げていた。


***


断れなかった。


***


「……作れ」


***


裏口を出るとき、メレオスが、言った。

いつもの、宿題を出すときの、声だった。


***


「一人で、作って、一人で、持たせい。何個でもじゃ」

「……遊具を?」

「遊具でも、檻でも、同じことじゃ。ゆうべ、お主の檻は、三本、割れた」


***


それは、そうだった。

由紀と、息を揃えられない。

八千キロは、遠すぎた。


***


「一人で、長う持たせる稽古じゃ」

「……分かった」

「それに」


***


メレオスは、空き地の子供たちを、見ていた。


***


「わしも、滑りたい」


***


そっちが、本音だった。


***


空き地に、しゃがんだ。

手袋を、外した。

雪に、手を当てた。


***


赤い帽子が、ぐるりと、俺を囲んでいた。

二十人くらい、いた。

みんな、息を止めて、俺の手を見ていた。


***


ここで、白鳥を作っては、いけなかった。

滑り台だ。

子供が、並べる、滑り台。

もう一台。


***


気を、流した。


***


雪が、持ち上がった。

きらきらと、光りながら。

透き通って、固まって。


***


白鳥だった。


***


「……」


***


子供たちが、歓声を上げた。

二十人分の、歓声だった。


***


「……滑り台の、つもりだった」

「知っとる」

メレオスが、言った。

「顔が、白鳥になっとった」


***


二回目。


***


白鳥だった。


***


三回目。


***


少しだけ、首の短い、白鳥だった。


***


「……健司」

「言うな」

「わざとか」

「わざとじゃない」


***


分からなかった。

子供の顔を見ると、白鳥が出た。

慰安旅行の宿の、ロビーの、氷の白鳥。

たぶん、あれが、頭の、どこか、取れないところに、刺さっていた。


***


四回目で、やっと、滑り台が出た。

五回目は、また、白鳥だった。


***


イングリッドさんが、ノートに、正の字を書いていた。

二本の列だった。

『スノー・スワン』の列と、『アイス・スライダー』の列。


***


スワンの列だけが、どんどん、伸びていった。


***


昼の、十一時。

一番明るい時間。

空が、群青色になった。


***


空き地に、白鳥が、七羽、並んでいた。

滑り台は、三台だった。


***


「……スワン、七羽」

イングリッドさんが、数えた。

「スライダー、三台。……ケンジさん、白鳥の、才能です」

「いらない才能です」


***


子供たちは、白鳥に、名前をつけていた。

一羽ずつ。

ノルウェー語で。

『レディー』によれば、七羽目は、「首が短いやつ」という意味らしかった。


***


三回目の、白鳥だった。


***


メレオスは、一台目の滑り台の、行列に並んでいた。


***


並んでいた。

ちゃんと。

子供と子供のあいだに。


***


見えないはずだった。

なのに、前の子が、振り返って、何か言った。

メレオスが、何か、言い返した。

前の子が、笑った。


***


「……『レディー』さん」

「なに」

「今、あの子、誰と、喋ってました」


***


『レディー』は、行列を見た。

少しだけ、眉を上げた。


***


「金色のボタンの子、ずるい。三回目でしょ。……って、言ってたわよ」


***


見せていた。

子供にだけ。

わざわざ。


***


「……メレオス」

近づいて、小声で言った。

「見せてるだろ」

「子供には、見せても、よい」

「よくない」

「子供は、大人に言うても、信じてもらえん。神の、知恵じゃ」


***


ずるい知恵だった。


***


メレオスの番が、来た。

階段を上った。

てっぺんで、振り返って、下の子供たちに、何か叫んだ。

日本語だった。

たぶん、「見ておれ」だった。


***


滑った。


***


子供たちが、どっと、笑った。

大人の俺たちには、雪煙しか、見えなかった。

イングリッドさんは、首を傾げていた。

「……子供たち、誰と、遊んでますか」

「……さあ」

「ケンジさん」

「はい」

「顔に、書いてあります」


***


書いてあったらしい。


***


そこへ、坂の上から、車が一台、下りてきた。


***


観測所の、車だった。


***


空き地の端で、止まった。

ドアが、ばたんと、開いた。

いつもの、ばたん、だった。


***


所長のベルグさんが、降りてきた。

腕を、組んでいた。

眉間の皺が、三本あった。

きのうより、一本、多い気がした。

四本かもしれなかった。


***


ベルグさんは、雪を踏んで、まっすぐ、俺のところに来た。

英語で、何か言った。

短かった。


***


『ジョン』が、訳した。


***


「学術視察は、昼の二時間だけだと、言ったはずだ」


***


「……これは、視察じゃなくて」

「分かってる、とさ」

『ジョン』は、白鳥の列を見た。

「視察に、見えないから、来たんだろう」


***


ベルグさんは、白鳥を、一羽ずつ、見ていった。

七羽。

それから、滑り台を、見た。

三台。

それから、檻を見た。

中で、子供が二人、まだ、鬼ごっこをしていた。


***


眉間の皺が、もう一本、増えた。


***


ベルグさんが、口を開きかけた。


***


その袖を、誰かが、引いた。


***


子供だった。

一番小さい子だった。

赤い帽子の下から、ベルグさんを、見上げていた。

ノルウェー語で、何か言った。


***


「……一緒に、滑ろう、だって」

『レディー』が、訳した。

少しだけ、楽しそうだった。


***


ベルグさんは、子供を見下ろした。


***


長いこと、見下ろしていた。


***


それから、腕を、組んだまま、滑り台の、行列に、並んだ。


***


並んだ。


***


一番、背の高い人が、子供と子供のあいだに、腕を組んで、並んでいた。

順番が、来た。

階段を、上った。

腕は、組んだままだった。


***


てっぺんに、座った。

皺は、三本、いや、四本のままだった。


***


滑った。


***


腕を、組んだまま。

表情一つ、変えずに。

まっすぐ。

するする。

雪の上に、すとん、と、着いた。


***


子供たちが、大喜びで、拍手した。


***


ベルグさんは、立ち上がった。

コートの雪を、払った。

俺のほうを、振り向いた。

英語で、一言だけ、言った。


***


「……『悪くない』、だとさ」

『ジョン』が、訳した。


***


それから、ベルグさんは、車に戻っていった。

ドアを、ばたんと、閉めた。

車は、坂の上の観測所へ、帰っていった。


***


「……ふーん」

『レディー』が、言った。

面白がるほうの、ふーんだった。


***


「怪しすぎるのは、だいたい、外れだ」

『ジョン』が、言った。

「……今日で、確信した」


***


昼の十二時。


***


白鳥の写真を、グループに送った。

七羽、並んだところを。

文字は、一行だけにした。


***


『学術視察中』


***


日本は、夜の八時のはずだった。


***


『ギーク』が、一番に、返してきた。

『白鳥、増えてません?』

『練習の、成果です』

『檻の練習ですよね?』

『……檻の練習です』


***


課長。

『うん、うん』


***


加藤さん。

『冷えますので、カイロを、お使いください。経費で、落ちます』


***


『レスラー』。

『……血筋か』


***


きのうの白鳥のときと、一字一句、同じだった。


***


それから、共さん。


***


『お見事です。こちらは、本日も、戸は、閉まっております。 久我共』


***


いつもの、報告だった。

毎日、同じ文だった。

今日も、閉まっている。

よかった、と思った。


***


少しして、由紀から、個別に、一件、来た。


***


『白鳥、かわいいじゃん』

『お兄ちゃん、白鳥しか作れないの?』


***


『滑り台も、作った』

『何台?』

『三台』

『白鳥は?』

『七羽』

『白鳥の人じゃん』


***


笑った。

北極圏の、空き地で、一人で、笑った。


***


『そっちは、何もないか』


***


打ってから、少しだけ、待った。


***


既読が、ついた。


***


返事は、すぐには、来なかった。


***


一分くらい、来なかった。


***


それから、来た。


***


『なにもないよ』

『お土産、オーロラね』


***


いつもの、由紀だった。

よかった、と思った。


***


スマホを、ポケットに、しまった。

手袋を、はめ直した。


***


白鳥の、八羽目を作るために、しゃがんだ。


***


夜の、十一時。


***


子供たちは、とっくに、帰っていた。

空き地は、静かだった。

裏口の明かりの中に、白鳥が、七羽と、一羽。

滑り台が、三台。

檻が、一つ。


***


八羽目の、白鳥は、結局、作ってしまった。

夕方、最後の一人の子が、泣きそうな顔で、頼んできたからだった。


***


今夜も、零時十二分に、外に出る。

イングリッドさんの計算では、ゆうべ下がった分を、取り返しに来るらしかった。

一晩だけ、延びた。

一晩だけ、だった。


***


その前に、空き地に、出た。


***


滑り台の上に、小さな影が、座っていた。


***


メレオスだった。

誰もいない空き地で。

一人で。

てっぺんに、膝を抱えて、座っていた。


***


「……まだ、滑るのか」

「最後の、一回じゃ」

「何回目の、最後だよ」

「数えとらん」


***


俺は、滑り台の下に、立った。

見上げた。

金色のボタンが、裏口の明かりを、跳ね返していた。


***


「……メレオス」

「なんじゃ」

「朝飯の席じゃ、ないぞ」


***


メレオスは、少しだけ、黙った。

膝を抱えたまま、山のほうを、見た。

オーロラの穴の、真下の、暗いほうを。


***


「……子供らが、な」

「うん」

「わしを、見て、笑うた」

「うん」

「ずるい、と、言われた。三回目じゃ、と」

「言われてたな」


***


「……悪うない、気分じゃった」


***


ベルグさんと、同じことを、言っていた。


***


「あれは、な」


***


メレオスの声が、少しだけ、低くなった。


***


「わしの名を、呼んだ。……今の名では、ない、ほうの」


***


「……今の、名」


***


「メレオス、というのはな」

メレオスは、山を、見たまま、言った。

「伊左衛門が、呼びやすいように、つけた名じゃ」


***


知らなかった。

五十年以上、じいちゃんの横にいた神様の名前を。

じいちゃんが、つけていたなんて。


***


「じゃあ、前の、名前は」


***


メレオスは、答えなかった。


***


代わりに、滑り台の、てっぺんで、座り直した。


***


「……今夜も、帰れと、言うてくる」

「うん」

「何べんでも、言うてくる」

「うん」

「じゃから、健司」


***


「なんだ」


***


「今は、その名で、呼んでくれ。……伊左衛門の、つけたほうで」


***


「……メレオス」


***


「うむ」


***


それだけ言って、メレオスは、滑った。


***


誰もいない空き地を。

透き通った、氷の上を。

雪煙だけが、しゅーっと、滑り降りていった。


***


下で、雪に、転がった。

小さな、笑い声がした。


***


遠くで、町の犬が、一匹だけ、吠えはじめた。


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