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第七十二章 羊羹と、戸

「平沼、義男」


***


『ホラー』は、名刺を両手で持って、読み上げた。


***


一月八日の、朝の0課だった。

小沢健司が、北極圏の雪の上で、見えない何かの窪みを見た、その数時間後だった。


***


名刺は、白かった。

真ん中に、名前が、黒い明朝体で刷ってあった。

その上に、小さく、肩書きがあった。


***


『国務大臣 随行』


***


「……本名、久しぶりに見ました」


***


『ホラー』は、名刺を、しばらく見ていた。

自分の名前を、他人の名前みたいに、見ていた。


***


「随行の方は、名刺を、たくさん配るので」

加藤さんが、にこにこ言った。

「百枚、刷っておきました」


***


「……百枚」

「賀詞交歓会は、偉い方が、たくさん、いらっしゃいますので」


***


『ホラー』は、名刺の束を見た。

百枚あった。

百人の偉い人と、目を合わせることになる枚数だった。


***


少しだけ、顔色が、悪くなった。

もともと悪い顔色が、もう一段、悪くなった。


***


赤城の洗い出しの結果は、その朝、課長のところに届いていた。


***


冬至の夜。

警察の、上のほう。

所在の、分からない者。


***


三人だった。


***


名前は、課長の机の上の、封筒の中の、紙一枚に書いてあった。

課長は、その封筒を、誰にも開けさせなかった。

自分でも、一度しか、開けなかった。


***


「うん、うん」

課長は、封筒を引き出しにしまいながら、言った。

「三人とも、賀詞交歓会には、来るそうだよ」


***


一月十三日の、夜だった。


***


北極圏の町に、見えない何かが着く予定の日と、ほとんど同じ日だった。


***


「じゃあ、練習しようか」

課長が、手を叩いた。

「名刺交換の」


***


相手役は、『レスラー』だった。


***


「……なんで、俺なんだ」

「一番、偉そうなので」

加藤さんが、言った。

「理由が、雑だ」


***


『レスラー』は、腕を組んで、立った。

偉そうだった。

確かに、偉そうだった。


***


『ホラー』が、一歩、前に出た。

名刺を、両手で、差し出した。

頭を、下げた。


***


「大臣の、随行の、平沼です」


***


『レスラー』が、名刺を、受け取った。

片手で。


***


ぐしゃ。


***


名刺が、手の中で、丸まっていた。


***


「……」

「……」

「……悪い」

「……いえ」


***


「『レスラー』さん」

加藤さんが、にこにこしたまま言った。

「名刺は、両手で、受け取ってください」

「両手で握ったら、もっと潰れる」

「握らないでください」


***


二枚目。


***


『レスラー』は、両手で、指先だけで、名刺をつまんだ。

つまんだまま、固まっていた。

爆弾を、持たされたみたいな顔だった。


***


壁の画面の中で、『ギーク』が、肉まんを片手に、口を出した。


***


「『ホラー』さん。名刺を渡すときは、相手の目を、見てください」

「……目」

「目です。社会人の、基本です」


***


引きこもりに、社会人の基本を、言われていた。


***


三枚目。


***


『ホラー』は、名刺を差し出しながら、顔を上げた。

『レスラー』を、見た。


***


見なかった。


***


『ホラー』の目は、『レスラー』の顔の、少し横を、通り過ぎていた。

『レスラー』の肩の、後ろ。

誰もいない、壁のあたり。


***


「……『ホラー』さん」

『ギーク』が、言った。

「どこ、見てます?」


***


「……後ろ、です」

「後ろ」

「人と会うとき、まず、後ろを見るので」

『ホラー』は、少しだけ、申し訳なさそうに言った。

「癖です」


***


『レスラー』が、振り返った。

壁だった。

何もなかった。


***


「……何か、いるのか」

「今は、いません」

「今は、ってなんだ」


***


課長が、湯呑みを持ったまま、頷いた。


***


「うん、うん。それで、いいんだよ」

「……いいんですか」

「後ろを見てもらうために、連れていくんだから」


***


それは、そうだった。


***


「髪は、そのままでいいって、言われたんだよね」

課長は、『ホラー』の前髪を見た。

目が、半分、隠れていた。

「うん、うん。赤城さんが、そう言ったなら、そうだね」


***


『ホラー』は、前髪を、指で、少しだけ、よけた。

それから、また、戻した。


***


その日、共は、0課で、二十三件の内職をした。


***


シュレッダー。お茶くみ。書類のホチキス留め。

ホチキスの針は、全部、同じ角度だった。

加藤さんの手帳に、『共さん、二十三件。詰まり、なし』と書かれた。


***


夕方の六時。

『レスラー』の車で、共は、官舎に帰った。


***


玄関の戸の前で、共は、立ち止まった。

戸に、手のひらを当てた。


***


冷たくは、なかった。

由紀が閉めた戸は、いつも、少しだけ、温かかった。


***


ノブを回した。

開いた。

共の形だけが、通れる戸だった。


***


共は、戸をくぐって、振り返って、頭を下げた。


***


「……本日も、恐れ入ります」


***


夜の七時。

共のスマホに、グループの通知が、来た。

小沢健司からだった。

写真が、一枚。


***


氷でできた、白鳥だった。

文字は、一行だけだった。


***


『練習中。檻のつもり』


***


『ギーク』が、一番に返した。

『檻の定義を、教えてください』


***


共は、その白鳥の写真を、しばらく見ていた。

それから、考えずに、指を動かした。


***


『お見事です。伊左衛門さんも、気の稽古で、湯呑みを狸にしたことがあります。 久我共』


***


少しして、官舎の前の車の中から、一件。


***


『……血筋か』


***


『レスラー』だった。


***


『レスラー』は、官舎の前の道に、車を停めた。

エンジンを切った。

毛布を、膝にかけた。


***


助手席に、魔法瓶と、あんパンが三つ、置いてあった。

加藤さんが、持たせてくれたものだった。


***


「……張り込み、か」


***


一人で、呟いた。

由紀の店の張り込みの担当を決めたとき、体格で、真っ先に外された男だった。


***


今夜は、外されなかった。

車の窓から、官舎の、二階の、共の部屋の窓が、よく見えた。


***


夜の、十一時。

共の部屋の明かりが、消えた。


***


十二時。

『レスラー』は、あんパンを、一つ、食べた。


***


一時。

二つ目を、食べた。


***


一時五十分。

道には、誰も、通らなかった。

猫が一匹、塀の上を歩いていった。


***


共は、眠っていなかった。


***


布団を、畳んでいた。

玄関の戸に向かって、正座していた。


***


眠れなかった、わけではなかった。

眠らない、と決めていた。


***


五十年、中にいた。

あれが、どういうものかは、知らなかった。

何を考えているのかも、知らなかった。


***


ただ、あれが、何を面白がるのかだけは、知っていた。

磨りガラスの向こうの、よその家のテレビを、五十年、見ていたから。


***


留守の家が、好きだった。

鍵の閉まった戸が、好きだった。


***


二時。


***


廊下の、どこかで、足音がした。


***


一つ。

二つ。

ゆっくり。


***


革靴の、音だった。

よく磨かれた、重たい革靴の、音だった。


***


足音が、戸の前で、止まった。


***


共は、動かなかった。

膝の上に、両手を置いていた。

道場で、稽古を受ける前の、座り方だった。


***


ドアノブが、回った。


***


ゆっくり。

半分まで。


***


止まった。


***


戻った。


***


もう一度、回った。

今度は、最後まで。


***


戸は、開かなかった。


***


ノブが、戻った。


***


戸の向こうで、誰かが、少しだけ、黙っていた。


***


それから、声がした。


***


「……ふうん」


***


低い、大人の声だった。

喋り方だけが、子供だった。


***


共は、目を閉じた。


***


知っている声では、なかった。

知っている、喋り方だった。


***


五十年、自分の喉から出ていた喋り方だった。


***


同じ時刻。


***


小沢家の、二階の、由紀の部屋。


***


由紀は、目を開けた。


***


夢を、見ていたわけではなかった。

音がしたわけでも、なかった。


***


誰かが、触っていた。


***


何に、とは、分からなかった。

でも、自分が閉めたものに、誰かが、外から、触っていた。

手帳のページでも、蔵の戸でもない。

一番新しく閉めた、あの戸に。


***


由紀は、布団の上で、体を起こした。

暗い部屋だった。

スマホの時計が、二時一分を指していた。


***


吸って。

吐いた。


***


押すな。

流せ。


***


兄の声が、頭の中で、聞こえた。

兄は、八千キロ向こうにいた。

向こうは、たぶん、まだ夕方だった。


***


由紀は、両手を、膝の上に置いた。

それから、目を閉じたまま、戸のほうへ、気を、少しだけ、流した。


***


閉め直した。

蛇口を、少しだけ開けるみたいに。


***


戸が、ぴたりと、合った。


***


それから、由紀は、思い出した。


***


閉める前に、中を見るんじゃ。

かみさまの、声だった。


***


今度は、中じゃなかった。

外だった。


***


由紀は、戸の外に、そっと、意識を向けた。


***


誰かが、立っていた。


***


背が、高かった。

肩が、広かった。

大人の、男の人の、背中だった。

ちゃんとした服を着た、偉い人の、背中だった。


***


その背中の中に、小さいものが、いた。


***


子供みたいな、何か。

大人の背中を、服みたいに、着ている、何か。


***


その何かが、こっちを、向いた気がした。


***


由紀は、息を止めなかった。

吸って、吐いた。

五時間、冬至の縁側で、そうしていたように。


***


戸の外の、何かが。

少しだけ、首を、傾げた。


***


それから、背中を、向けた。


***


気配が、遠くなっていった。


***


由紀は、長い息を、一つ、吐いた。

手が、少しだけ、震えていた。

膝の上で、ぎゅっと、握った。


***


スマホを、手に取った。

兄の名前を、画面に出した。


***


指が、止まった。


***


向こうは、夕方だった。

兄は、今夜、何かをするはずだった。

グループの白鳥の写真に、『練習中』と書いてあった。


***


「……お兄ちゃんは、向こうで、忙しいから」


***


由紀は、兄の名前を、画面から消した。


***


代わりに、0課の、課長の番号を、出した。

冬至の前に、加藤さんが、教えてくれた番号だった。


***


二時十四分だった。

課長は、三回目の呼び出しで、出た。


***


『……うん』

寝ていた声だった。

『うん、うん。……由紀さん?』


***


「夜中に、すみません」

由紀は、言った。

声が、思ったより、落ち着いていた。


***


「共さんの戸に、誰か、来ました」


***


電話の向こうで、課長が、起き上がる音がした。


***


官舎の前の車の中で、『レスラー』は、三つ目のあんパンを、手に持ったまま、固まっていた。


***


課長からの電話だった。


***


「……来た?」

『うん。由紀さんから』

「誰も、通ってません」


***


『レスラー』は、官舎の入り口を見た。

一つしかない入り口だった。

十一時から、一度も、目を離していなかった。

あんパンを食べるときも、目は、入り口に向けていた。


***


「猫、一匹だけです」


***


『レスラー』は、車を飛び出した。

階段を、二段ずつ、上がった。

二階の廊下を、走った。


***


誰も、いなかった。


***


共の部屋の戸は、閉まっていた。

戸の前の床に、何かが、置いてあった。


***


白い、皿だった。


***


皿の上に、羊羹が、一切れ。

きっちり、真ん中に。

端が、定規で切ったみたいに、まっすぐだった。


***


戸が、内側から、開いた。


***


共が、立っていた。

寝間着に、上着を羽織っていた。

顔色は、悪くなかった。


***


共は、床の皿を、見下ろした。


***


「……羊羹、ですね」


***


「……羊羹、だな」


***


二人とも、しばらく、皿を見ていた。


***


「食べるなよ」

「食べません」


***


朝の、九時。


***


官舎の、共の部屋の前の廊下に、人が集まっていた。


***


課長。

加藤さん。

『レスラー』。

『ホラー』。

共。

それから、仕事を休んだ由紀。

壁の画面の代わりに、課長のスマホの中に、『ギーク』。


***


最後に、赤城が来た。

背広だった。

ネクタイは、いつもより、少しだけ、ゆるかった。

急いで、締めたらしかった。


***


「廊下の、カメラ」

課長のスマホの中で、『ギーク』が、言った。

「二時ちょうどから、五分間、消えてます。映像が、飛んでます」

「故障か」

「故障じゃないです」

『ギーク』の声が、少しだけ、小さくなった。

「……例の、手つきです」


***


常世会の逃走車。

防衛省の資料。

若い男の、移送命令書。

跡を、残さない消し方と、跡しか残さない消し方。


***


今度は、跡を残さないほうだった。


***


赤城は、床の皿の前に、しゃがんだ。


***


羊羹を、見た。

長いこと、見ていた。


***


「……同じ店だ」


***


「同じ、って」

課長が、聞いた。


***


「冬至の翌朝、俺に届いた写真の、羊羹だ」

赤城は、言った。

「栗の入っていない、黒い、ほうの。切り口の色で、分かる」


***


赤城は、しゃがんだまま、自分のスマホを出した。

メレオスとの、文字のない、写真だけのやりとりを、遡った。

それから、知らない番号から届いた、あの一枚を、出した。


***


並べて、見た。


***


同じ羊羹だった。


***


「……俺の、羊羹の、好みまで、知っている」


***


赤城の声は、丁寧だった。

丁寧すぎた。


***


『ホラー』が、戸の前に、しゃがんだ。


***


皿は、見なかった。

戸を、見た。

それから、戸の前の、何もない空間を、見た。

髪の隙間から、長いこと、見ていた。


***


誰も、何も言わなかった。


***


「……いました」


***


『ホラー』が、言った。


***


「昨日の夜、ここに。……人の中に、入ってました」


***


「もう、いないのか」

『レスラー』が、聞いた。


***


「いません。……跡が、残ってるだけです」


***


『ホラー』は、立ち上がらなかった。

しゃがんだまま、戸の前の床を、指で、なぞった。

そこに、何かの形が、あるみたいに。


***


「この、感じ」


***


『ホラー』の声が、少しだけ、硬くなった。


***


「覚えてます」


***


「冬至の、山の。……仮面の、人です」


***


冬至の夜、祠の跡の窪地で。

白い仮面をつけて、離れたところに立っていた男。

中身はただの人です、と、『ホラー』はあのとき言った。

あそこにいる誰より、怖い顔をしてます、とも。


***


その男に、あれが、入った。

それから、二週間と少し。


***


その男が、ゆうべ、ここに立っていた。

よく磨いた革靴で。

羊羹の皿を、持って。


***


由紀が、自分の手のひらを、見ていた。


***


「……大人の、背中でした」

由紀は、言った。

「ちゃんとした服を着た、偉い人の。……その中に、子供みたいなのが、いて」


***


「由紀さん」

赤城が、振り返った。


***


「戸は」

「持ちました」

由紀は、赤城の目を、まっすぐ見た。

「閉め直しました。あたしの戸なので」


***


赤城は、しばらく、由紀を見ていた。

それから、頭を、下げた。

葬式の日と、同じ下げ方だった。


***


「……お兄さんには」

「言ってません」

由紀は、言った。

「向こうで、忙しいので」


***


少しだけ、間があった。


***


「帰ってきたら、言います。全部」


***


共が、由紀の隣で、小さく頭を下げた。

何も、言わなかった。

言えなかったのかもしれなかった。


***


赤城は、立ち上がった。


***


背広の、内ポケットから、封筒を、一つ、出した。

課長の引き出しの封筒と、同じ封筒だった。


***


赤城は、封筒を、開けなかった。

手に持ったまま、廊下の窓の外を見た。


***


冬の、晴れた、朝だった。

霞が関の方角の空が、白く光っていた。


***


「三人のうち」


***


赤城は、言った。


***


「一人は。……昨日の夜の二時に、ここにいた」


***


『レスラー』が、床の皿を見た。


***


羊羹は、まだ、そこにあった。

端が、定規で切ったみたいに、まっすぐだった。


***


几帳面な、一切れだった。


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