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第七十一章 氷の、檻

「……罠を、仕掛けられる」


***


『ジョン』が、言った。


***


一月八日の朝だった。

朝といっても、窓の外は、真っ暗だった。


***


ホテルの、俺の部屋に、四人と一柱が集まっていた。

『ジョン』。『レディー』。俺。メレオス。

それから、ノートパソコンを抱えた、イングリッドさん。


***


イングリッドさんは、朝の七時に、ホテルの前に立っていた。

呼んでいなかった。

「作戦会議、ですよね!」

来る気しか、ない顔だった。


***


ベッドの上に、地図が広げてあった。

赤い点が、十、並んでいた。

ゆうべの分が、一つ増えていた。


***


「毎晩、零時十二分」

『ジョン』が、赤い点の列を、指でなぞった。

「毎晩、四百メートル。毎晩、まっすぐ、町のほうへ」


***


「一度も、ずれていない」

「一分も、一メートルも、です」

イングリッドさんが、付け足した。


***


「几帳面なやつだ」

『ジョン』が、言った。

「几帳面なやつは、読める。読めるやつには、罠が効く」


***


罠は、先に仕掛けておくものだ。

冬至の山で、赤城が、そう言っていた。

格子の根を、窪みの底に、先に仕込ませたときに。


***


「今夜の零時十二分に、あれが来る場所は、分かってる」

『ジョン』は、地図の、赤い点の列の先に、鉛筆で、小さな丸を描いた。

「そこに、先に、檻を立てておく」


***


「……檻に、入りますかね」

「入らなかったら、そのときだ」

『ジョン』は、鉛筆を置いた。

「何もしないで、十三日を待つよりは、ましだ」


***


俺は、窓の外を見た。

暗い山があった。

その上の空に、今は、オーロラは出ていなかった。


***


あの娘を、見とる。

ゆうべ、メレオスは、そう言った。


***


イングリッドさんは、ベッドの端に座って、地図に、赤い点を、一つずつ、数えていた。

ソルヴェイさんの、赤い帽子をかぶって。


***


「……イングリッドさん」

「はい!」

「今夜は、来ないでください」


***


イングリッドさんの手が、止まった。


***


「……なぜ、ですか」

「危ないので」

「ゆうべも、危なかったです」

「だから、です」


***


あれが、あなたを見ている。

とは、言えなかった。

神様が見た、とも、言えなかった。


***


イングリッドさんは、眼鏡を押し上げた。


***


「ケンジさん」

「はい」

「今夜の、零時十二分の、場所」

イングリッドさんは、地図の、鉛筆の丸を指さした。

「その丸、二十メートル、ずれてます」


***


『ジョン』が、身を乗り出した。


***


「……ずれてる?」

「まっすぐ、じゃないんです。ほんの少しだけ、毎晩、右に曲がってます。三晩で、一度くらい。地図で見ても、分かりません。地震計のデータを、三角測量しないと」


***


イングリッドさんは、ノートパソコンを開いた。

数字が、ずらりと並んでいた。


***


「今夜の、正確な場所は」

イングリッドさんは、にっこり笑った。

「私にしか、計算できません」


***


止めても、無駄な顔だった。

二回目だった。


***


「……車の中に、いてください」

「はい!」

「外に、出ないでください」

「はい!」

「絶対ですよ」

「はい!」


***


返事だけは、良かった。

由紀の返事と、同じくらい、良かった。


***


「私が、付いてる」

『レディー』が、壁にもたれたまま、言った。

「車の中で。この子の、隣で」


***


イングリッドさんが、『レディー』を見た。

『レディー』は、イングリッドさんを見なかった。

爪を、見ていた。


***


それで、決まった。


***


問題は、檻だった。


***


昼の、十一時。

一番明るい時間に、ホテルの裏の、雪の積もった空き地に出た。

群青色の空の下で、しゃがんで、地面に、手を当てた。


***


土を、呼んだ。


***


土は、来なかった。


***


「……あれ」


***


もう一回、呼んだ。

気を、流した。

押すな。流せ。


***


雪の下で、何かが、ぎしりと鳴った。

それだけだった。


***


「……健司」

メレオスが、俺の横に、しゃがんだ。

「凍っとる」

「知ってる」

「土が、凍っとる。一メートル下まで、かちかちじゃ」


***


雪の下の土は、石みたいになっていた。

気を流しても、固まったまま、動かなかった。

実家の蔵の前の土とも、隠り山の窪みの土とも、違った。


***


「土が、凍ってて、言うことを聞かない」


***


「……では」

メレオスは、雪を、一掴み、すくった。

「こっちで、作れ」


***


「雪で?」

「氷じゃ」

メレオスは、雪を、俺の手のひらに乗せた。

「お主、凍らせるのは、得意じゃろうが」


***


得意だった。

得意というか、前科があった。


***


慰安旅行の、露天風呂。

煮立った湯を、冷まそうとして。

冷ましすぎて。

露天風呂を、丸ごと、凍らせた。

課長ごと。


***


弁償は、まだ、分割で払っていた。


***


「……あれは、事故だ」

「事故でも、できたことに、変わりはない」

メレオスは、腕を組んだ。

「あのときは、加減を知らなんだ。今は、知っとる」


***


知っている、はずだった。

こけしの首を、取ったこともあったけど。


***


雪の上に、手を当てた。

冷ます。

火の、逆。

露天風呂のときの、あの感じ。

ただし、小さく。


***


格子を、思い浮かべた。

鳥かごくらいの、小さな檻。

こけしのときと、同じくらい。


***


雪が、動いた。


***


きらきらと、光りながら、持ち上がった。

透き通って、固まって。

形に、なっていった。


***


形に、なった。


***


白鳥だった。


***


首の長い、羽を広げた、透き通った、白鳥だった。

一メートルくらいあった。

羽の一枚一枚まで、細かかった。


***


「……健司」

「……」

「これは、檻か」

「……白鳥だ」


***


なぜかは、分からなかった。

檻を思い浮かべたはずだった。

たぶん、途中で、慰安旅行の宿の、ロビーの氷の置物を、思い出していた。


***


「わあああ!」


***


後ろで、歓声が上がった。


***


イングリッドさんだった。

いつの間にか、空き地の端に立っていた。

両手で、口を押さえていた。

目が、きらきらしていた。


***


「今の、何ですか!」

「……」

「雪が、白鳥に! 手を、当てただけで!」


***


見られた。


***


『ジョン』が、空き地の反対側で、額を押さえていた。

『レディー』は、ホテルの壁にもたれて、爪を見ていた。

止める気は、なかったらしい。


***


「……えっと」

俺は、立ち上がった。

「気功、です」


***


「きこう」

イングリッドさんは、繰り返した。

それから、首を、ぶんぶん振った。

「違います! これは、アニメの技です!」


***


気功で、押し通せなかった。

0課の誰よりも、早く見抜かれた。


***


「……もう一回、やります」


***


もう一回、やった。

今度は、白鳥を思い出さないように、した。

格子。格子。格子。


***


雪が、持ち上がった。

透き通って、固まって。

長く、伸びていった。


***


滑り台だった。


***


ゆるやかに曲がった、透き通った、氷の滑り台だった。

三メートルくらいあった。

てっぺんに、ちゃんと、階段までついていた。


***


メレオスが、階段を、のぼった。

滑った。

「……おお」

もう一回、のぼった。


***


「遊ぶな」

「検分じゃ」

「滑ってるだろ」

「滑らんと、強さが分からん」


***


イングリッドさんには、何もない滑り台の上を、雪煙だけが、しゅーっと滑り降りていくように見えていたはずだった。

イングリッドさんは、首を傾げていた。

普通の、首の傾げ方だった。


***


観測所の、二階の窓に、人影があった。

所長のベルグさんだった。

腕を組んで、こっちを見ていた。

眉間の皺が、遠目にも、一本、増えていた。


***


「……で?」


***


『レディー』が、壁から背中を離していた。


***


「白鳥と、滑り台。……で?」

「……もう一回、やります」


***


三回目。


***


目を、閉じた。

思い出したのは、倉庫の夜だった。

共さんを入れた、あの檻。

格子の、一本一本の、硬さ。


***


気を、流した。


***


目を開けると、雪の上に、檻が立っていた。


***


透き通った、氷の格子だった。

太い縦の棒が、ぐるりと円く並んで。

上で、編み目のように、閉じていた。

群青色の空の光が、格子の中で、青く、屈折していた。


***


きれいだった。

自分で作ったのに、きれいだと思った。


***


イングリッドさんが、ゆっくり、近づいてきた。

格子に、そっと、手袋の指で触れた。

冷たさに、少しだけ、手を引いた。


***


「……アイス」


***


イングリッドさんは、呟いた。

それから、目を輝かせて、叫んだ。


***


「アイス・プリズン!」


***


「……は?」

「技の、名前です! 技には、名前が、必要です!」

「いや、これは、ただの」

「アイス・プリズン、です!」


***


後ろで、メレオスが、滑り台の上から転げ落ちていた。

笑いすぎて、落ちていた。


***


「……アイス、ぷりずん」

メレオスが、雪に埋まったまま、言った。

「……よい、名じゃ」

「言うな」

「アイス、ぷりずん」

「言うな!」


***


『ジョン』が、真面目な顔で、頷いていた。

「英語としては、正しい」

「そういう問題じゃないです」


***


俺は、その名前では、呼ばないことにした。

絶対に。


***


午後。

教会に、行った。


***


町の、坂の途中にある、小さな白い教会だった。

とがった屋根の上に、十字架が、立っていた。

屋根に、雪が、分厚く積もっていた。


***


冬至の夜に、山で遭難した、二人のことを聞くためだった。

名前も、年も、まだ知らなかった。


***


扉を開けると、中は、暗かった。

蝋燭が、何本か、揺れていた。


***


一番前の長椅子に、男が一人、座っていた。


***


痩せた、老人だった。

黒い服を着て、白い襟を、首に巻いていた。

頭には、何も、かぶっていなかった。

白い髪が、少ししか、残っていなかった。


***


牧師の、ヨハネスさんだった。


***


『レディー』が、ノルウェー語で、話しかけた。

ヨハネスさんは、ゆっくりと、振り返った。

俺たちを、一人ずつ、見た。

それから、何も言わずに、立ち上がった。


***


祭壇の横の、小さな棚から、分厚い帳面を、一冊、出してきた。


***


教会の、記録簿だった。

洗礼と、結婚と、葬式の。


***


ヨハネスさんは、最後のほうのページを開いて、指を置いた。


***


二人の名前が、並んで書いてあった。

同じ日付で。

冬至の日だった。

その横に、一言だけ、書き添えてあった。


***


「……『行方不明』」

『レディー』が、訳した。

「葬式は、まだ、してない。遺体が、ないから」


***


二人とも、二十代だった。

若い夫婦だった。

結婚の記録も、同じ帳面の、少し前のページにあった。

去年の夏だった。


***


「二人は」

『レディー』が、ヨハネスさんの言葉を、訳していった。

「冬至の夜、自分で、山に向かって、歩いていった。誰かに、呼ばれたみたいに。止めようとした隣の人に、大丈夫、って、笑って」


***


自分で決めて。

笑って。


***


隠り山の、二十六人と、同じだった。


***


ヨハネスさんは、記録簿を閉じた。

それから、俺たちの頭を、見た。


***


赤い、帽子を。


***


ヨハネスさんが、何か、言った。

短く。

低い声で。


***


『レディー』が、少しだけ、黙った。

それから、訳した。


***


「……私は、あの人の帽子は、かぶらない」


***


「あの人、って」

「言わなかったわ」


***


ヨハネスさんは、それ以上、何も言わなかった。

記録簿を、棚に戻した。

長椅子に、戻った。

蝋燭の前で、背中を、丸めた。


***


教会を出ると、外は、もう、夜の色になっていた。

午後の、二時だった。


***


「……怪しいな」

『ジョン』が、言った。

「怪しいけど、所長とは、違う怪しさだ」


***


『レディー』は、教会の扉を、振り返っていた。

少しだけ、目を細めていた。


***


何を見ていたのかは、分からなかった。

聞いても、たぶん、答えなかった。


***


俺は、自分の頭の、赤い帽子に、手をやった。

やわらかかった。

あたたかかった。


***


「……いい人、ですよね」

誰にともなく、言った。

誰も、答えなかった。


***


夜の、十一時四十分。


***


雪原に、立っていた。


***


イングリッドさんの計算した場所は、鉛筆の丸から、右に、二十二メートル、ずれていた。

二十、じゃなかった。

二十二、だった。

ゆうべの分のずれを、足してあった。


***


車は、百メートル後ろに停めてあった。

中に、イングリッドさんと、『レディー』がいた。

ヘッドライトは、消してあった。

ときどき、窓の内側で、ノートパソコンの画面が、青く光った。


***


『ジョン』は、俺の少し後ろに立っていた。

無線を、握っていた。


***


空に、オーロラが出ていた。

緑色の帯が、ゆっくり流れて。

ちょうど、俺たちの真上の、少し先で、ぐるりと、よけていた。


***


穴が、近づいてきていた。


***


雪の上に、しゃがんだ。

手袋を、外した。

指が、すぐに、痛くなった。


***


雪に、手を当てた。

倉庫の夜の、あの檻。


***


氷の格子が、立ち上がった。


***


昼より、大きかった。

人が、一人、すっぽり入るくらい。

透き通った格子の中に、オーロラの緑が、映り込んでいた。


***


「……よう、できとる」

メレオスが、格子を見上げて、言った。

それから、俺のコートの裾を、掴んだ。


***


零時、五分。


***


町のほうから、犬の声が、上がった。


***


一匹。

二匹。

町中の犬。


***


「……来るぞ」


***


メレオスの声が、低くなっていた。


***


俺には、何も、見えなかった。

雪と、氷の格子と、オーロラと。

それだけだった。


***


零時、十一分。


***


「健司」

「ああ」

「右じゃ。半歩」


***


気を、流した。

格子を、右に、半歩分、ずらした。

氷が、ぎしぎしと、鳴った。


***


「……そこじゃ」


***


零時、十二分。


***


足の下で、地面が、揺れた。


***


雪の上に、窪みが、一つ、できた。

ぽすん。


***


格子の、手前だった。


***


ぽすん。


***


もう一つ。

格子の、すぐ手前。


***


ぽすん。


***


格子の、中だった。


***


「今じゃ!」


***


気を、流し込んだ。

格子の上を、閉じた。

編み目を、締めた。


***


氷の格子が、内側から、白く、曇った。


***


格子に、何かが、ぶつかった。


***


見えなかった。

でも、分かった。

格子に流した気が、押し返されていた。

倉庫の夜と、同じ手応えだった。

隠り山の窪みの底と、同じ手応えだった。


***


ただ、違った。


***


倉庫の夜は、格子の向こうに、人がいた。

共さんの体が、あった。

重くて、あたたかくて、五十年分の何かが、詰まっていた。


***


今夜は、軽かった。

冷たかった。

中身だけの、何かだった。

器のない、何かだった。


***


格子が、軋んだ。


***


一本目に、ひびが、入った。


***


二本目。


***


「……健司。持たせい」

「持たせてる!」

「あと、少しじゃ」


***


腕が、しびれてきた。

冬至の夜は、由紀と、息を揃えていた。

今夜は、一人だった。

由紀は、八千キロ向こうで、たぶん、出勤前だった。


***


三本目に、ひびが、入った。


***


メレオスが、俺のコートの裾を、離した。


***


前に、出た。


***


格子の前に、立った。

小さな背中だった。

変な服の、金色のボタンが、オーロラの光を、跳ね返していた。


***


メレオスは、格子の中を、見上げた。


***


それから、口を、開いた。


***


聞いたことのない、言葉だった。


***


英語でも、ノルウェー語でもなかった。

日本語の、どんな方言でもなかった。

短かった。

低かった。

雪の上に、石を一つ、置くみたいな、音だった。


***


格子を押す力が、止まった。


***


止まった、というより。

迷った、ような。


***


雪の上の、窪みが。


***


一つだけ、後ろに、下がった。


***


格子の外に、新しい窪みが、一つ、できた。

山のほうに。


***


もう一つ。

山のほうに。


***


ぽすん。

ぽすん。

ぽすん。


***


窪みは、山のほうへ、遠ざかっていった。

町とは、反対の、ほうへ。


***


犬の声が、止んだ。


***


静かになった。


***


氷の格子が、ぴしり、と鳴って、三本、崩れた。

雪の上に、きらきらした破片が、散らばった。


***


俺は、雪の上に、尻もちをついた。

腕が、動かなかった。

指の感覚も、なかった。


***


「……『オザケン』」

『ジョン』が、無線を握ったまま、近づいてきた。

「どうなった」


***


「……帰った、みたいです」

「帰った?」

「山の、ほうに」


***


『ジョン』は、しばらく、山を見ていた。

それから、無線に、何か、英語で言った。


***


車の中から、返事が来た。

イングリッドさんの声だった。

日本語だった。


***


『……地震計。今夜の揺れ、一回だけ、です。震源、動いて、ません』


***


少し、間があった。


***


『……町に、近づいて、ません』


***


初めてだった。

冬至から、初めて。

あれが、町に近づかなかった夜だった。


***


一晩、延びた。

十三日が、十四日になった。


***


一晩だけ、だった。


***


帰り道。

車までの、百メートル。


***


メレオスは、俺の隣を、黙って歩いていた。

裾は、掴んでいなかった。


***


「……メレオス」

「なんじゃ」

「お前、今、何て言ったんだ」


***


メレオスは、少しだけ、歩く速さを落とした。


***


「……帰れ、と言うた」


***


「何語で」


***


雪を、踏む音がした。

きゅっ。

きゅっ。


***


「……昔の、言葉じゃ」


***


それ以上は、言わなかった。


***


車のヘッドライトが、ついた。

『レディー』が、中から、ドアを開けた。

イングリッドさんが、助手席から、身を乗り出して、手を振っていた。

赤い帽子が、ライトの中で、揺れていた。


***


車の手前で、メレオスが、立ち止まった。


***


振り返った。

山のほうを。

オーロラの穴の、真下の、暗いほうを。


***


「……健司」


***


「なんだ」


***


メレオスは、山を見たまま、言った。

小さな声だった。

冬至の山でも、聞いたことのない声だった。


***


「……あれは、わしの名を、呼びよった」


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