第六十九章 鉄の塊が、飛ぶわけない
一月五日の朝。
空港の出発ロビーだった。
***
赤城の秘書が、ゆうべ、パスポートを届けてくれていた。
本当に、一日で出た。
些細な問題だった。
***
赤い表紙を、開いた。
***
写真の中の俺は、目が据わっていた。
眉間に、皺が寄っていた。
口が、への字だった。
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撮られるときに、緊張しすぎた結果だった。
***
ぴろん。
***
グループに、由紀から。
ゆうべ、見送りのついでに撮っていったらしい。
俺のパスポートの、写真のページの、写真だった。
***
『指名手配』
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『ギーク』から、すぐに返事が来た。
『懸賞金、いくらですか』
***
『レスラー』から、力こぶのスタンプ。
課長から、『うん、うん』。
何に対しての、うん、うん、なのかは、分からなかった。
***
もう一件。
共さんからだった。
***
『本日も、戸は、閉まっております。 久我共』
***
写真が一枚、ついていた。
官舎の玄関の戸だった。
内側から、きっちり、真正面から撮ってあった。
***
保安検査の列に、並んだ。
***
メレオスの金色のスマホは、俺が持っていた。
姿は隠せても、持ち物は、隠れない。
神様が一人で検査を通ると、スマホだけが宙に浮いて、ゲートをくぐることになる。
***
俺が、先にゲートをくぐった。
鳴らなかった。
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後ろから、メレオスが、くぐった。
見えないまま。
***
ぴー。
***
鳴った。
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係の人が、顔を上げた。
ゲートを見た。
ゲートの向こうを見た。
誰も、いなかった。
***
「……今、どなたか、通られました?」
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俺の足元で、メレオスが、自分の胸元を見ていた。
変な服の、金色のボタンだった。
***
「……神の、ボタンじゃ」
「黙ってろ」
***
係の人は、もう一度ゲートを見て、首を傾げて、次の人を通した。
首の傾げ方は、普通だった。
普通の人の、傾げ方だった。
***
搭乗口の前は、ガラス張りだった。
***
ガラスの向こうに、飛行機が、停まっていた。
***
でかかった。
***
白くて、長くて、翼が、左右に、ずっと伸びていた。
エンジンが、翼の下に、ぶら下がっていた。
俺の実家が、たぶん、三軒くらい入った。
映画やドラマでは、飛行機の搭乗シーンは見てるが、自分が乗るのは怖い。
めっちゃ、怖い!
とてつもなく、怖い!
***
「……あれに」
「乗る」
『ジョン』が、言った。
「十三時間くらいだ」
***
「……あれに、乗るんですか」
***
「乗る」
***
俺は、ガラスに、手をついた。
飛行機を、見た。
もう一度、見た。
***
鉄だった。
どう見ても、鉄の塊だった。
***
「……こんな」
***
声が、勝手に、大きくなっていた。
***
「こんな、鉄の塊が、飛ぶわけない!」
***
搭乗口の前が、静かになった。
***
ベンチに座っていたサラリーマンが、顔を上げた。
スマホを見ていた若い人が、イヤホンを外した。
修学旅行らしい中学生の一団が、こっちを見て、ひそひそ言い始めた。
***
「……『オザケン』」
『ジョン』が、小さい声で言った。
「声を」
「だって、鉄ですよ! 鉄! 何トンあると思ってるんですか!」
「三百トンくらいだ」
「三百トン!」
***
子供が、母親の袖を引いていた。
「ねえ、あのおじさん、なんで怒ってるの」
「見ちゃいけません」
***
見ちゃいけないほうになった。
***
「……お前」
『ジョン』が、額を押さえた。
「CIAの人間と、ずっと組んでるんだぞ」
***
「CIAは、関係ない!」
俺は、ガラスを指さした。
「物理の、問題です!」
***
物理の問題だった。
三百トンの鉄が、空に浮く。
そんな話は、どこにも、書いていなかった。
俺が読んできた、どのラノベにも。
***
「異世界の、飛竜はですね」
「おい」
「羽ばたくんですよ。羽ばたくから、飛べるんです。あれは、羽ばたかないでしょう! 翼、ぴくりとも、動いてないでしょう!」
***
中学生の一団が、爆笑していた。
***
俺の足元で、メレオスも、腹を抱えて転げ回っていた。
見えないのをいいことに、床を、叩いていた。
***
「……健司」
笑いすぎて、涙が出ていた。
「お主。竜巻を、起こす男が。鉄が飛ぶのを、信じんのか」
***
「竜巻は、俺が起こしてるから、信じられるんだ!」
***
周りから見れば、俺は、誰もいない床に向かって、竜巻の話をしていた。
***
白い目が、増えた。
たぶん、一番白いのは、『ジョン』の目だった。
***
『レディー』は、少し離れたベンチで、サングラスをかけて、座っていた。
他人の、ふりをしていた。
完璧な、他人のふりだった。
昔の仕事の、腕だった。
***
「……ご搭乗の、お客様に、お知らせいたします」
***
アナウンスが、流れた。
列が、動き出した。
***
俺は、動かなかった。
***
『ジョン』に、右腕を掴まれた。
『レディー』に、左腕を掴まれた。
いつの間にか、隣に来ていた。
サングラスのまま。
***
引きずられた。
***
飛行機の中は、思ったより、狭かった。
***
席は、窓側だった。
由紀が、言っていた。
窓側にしなよ、と。
かみさまは、お兄ちゃんの膝の上で、窓側。
***
メレオスは、俺の膝の上で、窓に、額をくっつけていた。
俺は、窓を、見ないようにしていた。
***
隣が、『レディー』だった。
通路側が、『ジョン』だった。
逃げ道は、なかった。
***
飛行機が、動き出した。
***
「……動いた」
「動くわよ」
「動いた!」
「だから、動くのよ」
***
滑走路の端で、止まった。
エンジンの音が、大きくなった。
もっと、大きくなった。
***
背中が、座席に、押しつけられた。
***
「揺れた!」
「揺れるわよ」
「今、揺れました!」
「知ってる」
***
窓の外の地面が、斜めになった。
斜めになって、遠くなった。
***
浮いていた。
三百トンの鉄が、浮いていた。
***
「……浮いた」
「浮いたわね」
「浮いちゃだめでしょう!」
***
前の席の人が、振り返った。
後ろの席の人が、咳払いをした。
***
客室乗務員の人が、来た。
「お客様、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです! 今、翼が、しなりました!」
「……しなるように、できておりますので」
***
にこやかに、戻っていった。
***
十分後、また、来た。
今度は、少し、にこやかさが減っていた。
***
「落ちたら、どうするんですか!」
「……落ちないように、できておりますので」
「絶対ですか!」
「……」
***
客室乗務員の人が、『レディー』を見た。
連れの人ですよね、という目だった。
***
『レディー』が、アイマスクを、外した。
***
溜め息を、一つ、ついた。
***
それから、右手を、すっと上げた。
***
首筋に、何かが、当たった。
***
とん。
***
軽い音だった。
軽い、と思った。
そこまでしか、思えなかった。
***
目が覚めたのは、乗り継ぎの空港だった。
***
首が、痛かった。
右側だけ、痛かった。
***
十三時間分の記憶が、なかった。
飛行機に乗ったところまでは、覚えていた。
翼がしなったところまでは。
***
「……もう、着いたんですか」
「まだよ」
***
『レディー』は、乗り継ぎのロビーのベンチで、爪を見ていた。
何事も、なかったような顔だった。
***
「……俺、何か、されました?」
「寝てたわよ。ぐっすり」
「首が、痛いんですけど」
「寝違えたんでしょ」
***
『ジョン』が、横で、目をそらしていた。
***
「……『ジョン』さん」
「何も、見ていない」
『ジョン』は、言った。
「見なかったことに、した」
***
国務大臣の、聞かなかったことにする、と、同じ種類の台詞だった。
***
メレオスが、ロビーの椅子の上で、満足そうに、腹をさすっていた。
***
「……健司。機内食は、うまかったぞ」
「俺の分は」
「わしが、食うた」
「両方?」
「お主は、よう寝とったからのぉ」
***
二食分だった。
神様は、二食分、食べていた。
俺は、ゼロ食だった。
***
次の便に、乗り継いだ。
さっきより、小さかった。
俺は、黙っていた。
首が、痛かったからだ。
***
最後の空港で、外に出た。
小さな空港だった。
風が、冷たかった。
***
滑走路に、飛行機が、停まっていた。
***
小さかった。
翼の上に、エンジンがあった。
エンジンの前に、羽根が、ついていた。
***
プロペラだった。
***
「……プロペラ」
「プロペラだ」
『ジョン』が、言った。
「最後の、一時間だ」
***
「プロペラ!?」
***
声が、また、勝手に、大きくなった。
***
「もっと、信じられない! 扇風機ですよ、これ! 扇風機で、人を、運ぶんですか!」
***
『レディー』が、黙って、右手を、上げた。
***
手のひらを、立てて。
さっきと、同じ角度で。
***
「……乗ります」
***
即答だった。
***
『レディー』は、右手を、下ろした。
それだけだった。
***
三回目は、来なかった。
0課に来た初日、組手で二回投げられた『レスラー』も、三回目は、来なかった。
人は、二回で、学ぶ。
***
プロペラ機の中は、もっと、狭かった。
揺れた。
さっきの飛行機より、ずっと、揺れた。
***
俺は、震えながら、黙っていた。
窓の外を、見なかった。
膝の上で、メレオスが、窓に張りついて、「おお」とか「ほお」とか言っていた。
***
『レディー』が、窓の外を見ていた。
俺の頭越しに。
暗い海と、白い山と、その上の、青黒い空を。
***
「……北は」
ぽつりと、言った。
「昔、一回だけ、仕事で来たわ」
***
それ以上は、言わなかった。
俺も、聞かなかった。
***
首筋が、痛かった。
右側だけ。
的確な、角度だった。
的確すぎる、角度だった。
***
どんな仕事で来たのかは、少しだけ、分かる気がした。
分かりたくは、なかった。
***
「……貸しよ」
***
『レディー』が、窓の外を見たまま、言った。
***
「……気絶させたのが、ですか」
「静かにさせたのが、よ」
***
プロペラが、唸っていた。
機体が、また、揺れた。
***
「……『レディー』さん」
「なに」
「帰りも、あるんですよね」
***
『レディー』は、答えなかった。
右手を、膝の上で、軽く、握ったり、開いたりしていた。
***
同じ頃。
***
東京の、霞が関の、ある建物の、ある部屋だった。
***
窓のない、部屋だった。
重たい机が、一つ。
机の木目は、よく磨かれていた。
***
男が一人、座っていた。
背広だった。
ネクタイを、きちんと締めていた。
***
男は、一枚の紙を、読んでいた。
***
『小沢健司 本日出国』
***
紙の下に、名前が、もう三つ、並んでいた。
その下に、もう一行。
行き先の、国の名前。
***
男は、しばらく、その紙を見ていた。
***
机の端に、白い封筒が、立てかけてあった。
金色の文字で、『賀詞交歓会のご案内』と、書いてあった。
***
男は、封筒を、ちらりと見た。
それから、紙に、目を戻した。
***
首が、傾いた。
***
ほんの、少しだけ。
面白いものを見つけた、子供みたいに。
***
「……遊べるね」
***
男は、呟いた。
低い、大人の声だった。
喋り方だけが、子供だった。
***
プロペラ機が、降りたのは、昼の十二時だった。
***
タラップを降りた瞬間、息が、白くなった。
白くなったまま、凍った気がした。
***
マイナス、十二度だった。
***
空が、青かった。
***
青い、と言っていいのか、分からなかった。
濃い、濃い、群青だった。
夜の一歩手前の、色だった。
それが、昼の十二時の、空だった。
***
南の、山の稜線の向こうが、ほんの少しだけ、明るかった。
太陽は、その向こうにいるはずだった。
出てこなかった。
出てこない季節だった。
***
「……昼、ですよね」
「昼だ」
『ジョン』が、言った。
「今日は、これで、一番明るい」
***
空港の小さな建物に、町の名前が、書いてあった。
***
『Mørkvik』
***
「……モ」
俺は、読もうとした。
「モ、ル……」
***
Oに、斜めの線が、入っていた。
見たことのない字だった。
***
「モルクヴィーク」
『ジョン』が、言った。
***
「モルク……ビーク」
「ヴィーク」
「ビ……ヴィ……」
「唇を、噛め」
「噛んでます」
***
「……暗い、入り江、って意味よ」
『レディー』が、コートの襟を立てながら、言った。
「このへんの言葉で」
***
暗い、入り江。
一日中、夜の町の、名前だった。
***
宿は、町の真ん中の、小さなホテルだった。
木の壁と、赤い屋根。
ロビーに、暖炉があった。
***
夕方、というより、夜。
時計の上では、午後の四時だった。
空は、とっくに、真っ暗になっていた。
***
ホテルの裏の、雪の積もった坂を、少しだけ登った。
メレオスが、行くと言った。
俺と、メレオスだけで。
***
坂の上から、町が、見えた。
小さかった。
家の窓の明かりが、黄色く、ぽつぽつと、並んでいた。
その先に、黒い入り江があった。
***
町の外れに、山があった。
黒い、なだらかな山だった。
***
空に、緑色の帯が、流れていた。
***
オーロラだった。
***
写真とは、全然、違った。
動いていた。
ゆっくり、うねって、揺れて、形を変えていた。
空全体が、息をしているみたいだった。
***
きれいだった。
怖いくらい、きれいだった。
***
共さんに、写真を撮ると、約束していた。
スマホを、構えた。
***
構えたまま、止まった。
***
山の上だった。
***
緑色の帯が、流れてきて。
山の上に来たところで、ぐるりと、よけていた。
よけて、また、流れていった。
***
帯の真ん中に、黒い穴が、空いていた。
***
写真で見たのと、同じだった。
でも、写真では、分からなかったことがあった。
***
穴は、動いていなかった。
帯だけが、動いていた。
穴だけが、そこに、じっとしていた。
***
こっちを、見ているみたいに。
***
メレオスが、俺の隣で、空を見上げていた。
***
笑っていなかった。
震えても、いなかった。
ただ、じっと、穴を見ていた。
***
冷たい風が、吹いた。
山のほうから。
***
メレオスの小さな鼻が、ひくりと、動いた。
***
「……健司」
「ああ」
***
「……あれと、同じ匂いじゃ」
***
山のほうから、また、風が吹いた。
雪の匂いと、海の匂いと。
それから、俺には分からない、何かの匂い。
***
メレオスは、それ以上、何も言わなかった。
何かを言いかけて、口を閉じた。
***
俺は、スマホのシャッターを、押した。
オーロラと、黒い穴が、一緒に写った。
***
共さんには、送らなかった。
穴のところだけ、切り取れないか、あとで考えることにした。




