第六十八章 人の形の、戸
「……開きません」
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戸の向こうから、共さんの声がした。
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一月四日の夜だった。
官舎の、共さんの部屋の前だった。
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廊下には、四人いた。
由紀と、俺と、メレオスと、『レスラー』。
『レスラー』は、廊下の幅の半分を、一人で使っていた。
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由紀が、玄関の戸に、両手を当てていた。
さっきまで。
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気で、閉めた。
手帳のページ。実家の蔵の戸。
それに続いて、三つ目の戸だった。
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閉まった。
それは、よかった。
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「共さん、ノブ、回してみてください」
「回しております」
「……開きませんか」
「開きません」
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少し、間があった。
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「肉まんを、買いに、出られません」
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それが、一番の心配らしかった。
向かいのコンビニの肉まんを、共さんは、気に入っていた。
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「……閉まりすぎた」
由紀が、戸を見ながら言った。
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「当たり前じゃ」
メレオスが、腕を組んだ。
「戸締まりは、中からも、開かん。蔵で、わしが、そうじゃったろうが」
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そうだった。
蔵の中で、消えても消えても、中に戻っていた神様だった。
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「じゃあ、開けるね」
由紀が、戸に、手を当て直した。
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一分。
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三分。
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十分。
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由紀の額に、汗が浮いていた。
戸は、びくともしなかった。
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開けるほうが、難しい。
蔵の戸のときも、由紀は、三十分かかっていた。
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「共さん、すみません、もうちょっと」
「お構いなく」
戸の向こうから、落ち着いた声がした。
「お茶を、淹れて、待っております」
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待つのは、得意な人だった。
五十年、待っていた人だった。
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二十分経ったところで、俺が、戸に手を当てた。
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気を、一筋。
押さない。流す。
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かちゃり。
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開いた。
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「……ずるい」
「修行の差だ」
「二十年の差でしょ」
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手帳のときと、同じ会話だった。
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共さんが、湯呑みを持って、戸口に立っていた。
玄関の戸に向かって、頭を下げた。
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「……開けていただいて、恐れ入ります」
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戸は、何も言わなかった。
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二回目。
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由紀は、さっきより、ずっと弱く、閉めた。
蛇口を、少しだけ開けるみたいに。
手帳のページを閉じたときの、あのくらい。
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「共さん」
「はい」
共さんが、ノブを回した。
開いた。
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「開きました」
「よし」
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「じゃあ、次、『レスラー』さん」
由紀が、振り返った。
「あれの、代わりに、開けてみてください」
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「……俺が、あれの役か」
「一番、力が強いので」
「理由が、雑だ」
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檻の実験台になったときにも、同じことを言っていた。
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『レスラー』は、ドアノブを、つまんだ。
指、二本で。
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開いた。
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「……開いたぞ」
「開いちゃだめなんですよ!」
「俺に言うな」
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弱すぎた。
共さんが開けられる戸は、『レスラー』も、開けられた。
あれも、たぶん、開けられた。
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由紀は、戸の前に、しゃがみこんだ。
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「……強くすると、共さんが出られない。弱くすると、誰でも入れる」
「うむ」
「どうすればいいの」
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メレオスが、由紀の隣に、しゃがんだ。
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「覚えとるか」
「何を」
「蔵の前で、言うたことじゃ」
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由紀が、顔を上げた。
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「閉める前に」
メレオスは、言った。
「中を、見るんじゃ」
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由紀は、しばらく、戸を見ていた。
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それから、小さく、息を吸った。
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「……冬至の夜と、同じだ」
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冬至の夜。
隠り山の窪みの戸を、実家の庭から、由紀は閉めた。
戸の中に、共さんが、絡まっていた。
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あなたごとは、閉めない。
そう言って、由紀は、共さんの形だけを残して、戸を閉めた。
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「共さん」
由紀が、立ち上がった。
「中に、入って、立っててください。戸の、すぐ内側に」
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「承知しました」
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共さんが、玄関の内側に、立った。
背筋を伸ばして。
道場で、稽古を受ける前の立ち方だった。
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由紀が、戸を閉めた。
両手を、戸に当てた。
目を、閉じた。
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吸って。
吐いた。
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長かった。
さっきより、ずっと、長かった。
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俺の中に、少しだけ、由紀の息が、入ってきた。
冬至の夜と、同じだった。
縁が、まだ、つながっていた。
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由紀の手のひらが、戸の上を、ゆっくり、なぞっていった。
人の形を、なぞるみたいに。
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頭。
肩。
腕。
足。
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それから、由紀は、戸を、閉めた。
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音は、しなかった。
何かが、ぴたりと、合った気がした。
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「……共さん。出てきてください」
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ノブが、回った。
戸が、開いた。
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共さんが、廊下に、出てきた。
振り返って、戸に、頭を下げた。
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「……恐れ入ります」
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今度は、たぶん、戸のほうも、少しだけ、頭を下げていた。
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「『レスラー』さん」
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『レスラー』が、ノブを、つまんだ。
指、二本で。
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動かなかった。
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指を、五本にした。
動かなかった。
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両手で、握った。
足を、踏ん張った。
廊下の床が、みしりと鳴った。
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戸は、ぴくりとも、動かなかった。
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ノブを離した『レスラー』の手が、少しだけ、しびれていた。
檻を掴んだときと、同じだった。
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「……それも」
『レスラー』は、手をぶらぶらさせながら言った。
「俺に、使うなよ」
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檻。合気。戸締まり。
三回目だった。
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「じゃあ、わしも」
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メレオスが、戸の前に立った。
消えた。
戸の向こうに、現れる、はずだった。
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ぼよん、という音がした。
しなかったかもしれない。
メレオスが、廊下に、尻もちをついていた。
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「……わしも、通さんのか!」
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「かみさまは、共さんの形じゃ、ないから」
由紀が、言った。
それから、ちょっとだけ、得意そうな顔をした。
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「共さんの形だけ、通れる戸」
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「……それ」
俺は、言った。
「すごいぞ」
「知ってる」
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由紀は、それから、部屋に入って、窓も閉めた。
小さな窓が、二つあった。
同じように、共さんに窓の前に立ってもらって、形をなぞった。
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「換気は」
俺が、聞いた。
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由紀が、止まった。
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「……どうしよう」
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「寒いので」
共さんが、言った。
「開けません」
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解決した。
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帰りぎわ。
共さんが、玄関の戸に、手のひらを当てていた。
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「由紀さん」
「はい」
「この手触り」
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共さんは、戸を撫でた。
ゆっくり。
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「伊左衛門さんの、戸締まりと、同じです」
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由紀が、目を丸くした。
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「……分かるんですか」
「毎年、冬至の夜に」
共さんは、少しだけ、笑った。
「中から、触っていましたので」
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五十五年。
庭から、北に向かって、戸を閉め続けた祖父がいた。
閉められた戸の、向こう側で。
その手触りを、毎年、内側から、受け取っていた人がいた。
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由紀は、何も言えずに、戸を見ていた。
それから、鼻を、一回すすった。
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「……おじいちゃんの、真似しただけです」
「はい」
共さんは、頷いた。
「よく、似ています」




