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第六十八章 人の形の、戸

「……開きません」


***


戸の向こうから、共さんの声がした。


***


一月四日の夜だった。

官舎の、共さんの部屋の前だった。


***


廊下には、四人いた。

由紀と、俺と、メレオスと、『レスラー』。

『レスラー』は、廊下の幅の半分を、一人で使っていた。


***


由紀が、玄関の戸に、両手を当てていた。

さっきまで。


***


気で、閉めた。

手帳のページ。実家の蔵の戸。

それに続いて、三つ目の戸だった。


***


閉まった。

それは、よかった。


***


「共さん、ノブ、回してみてください」

「回しております」

「……開きませんか」

「開きません」


***


少し、間があった。


***


「肉まんを、買いに、出られません」


***


それが、一番の心配らしかった。

向かいのコンビニの肉まんを、共さんは、気に入っていた。


***


「……閉まりすぎた」

由紀が、戸を見ながら言った。


***


「当たり前じゃ」

メレオスが、腕を組んだ。

「戸締まりは、中からも、開かん。蔵で、わしが、そうじゃったろうが」


***


そうだった。

蔵の中で、消えても消えても、中に戻っていた神様だった。


***


「じゃあ、開けるね」

由紀が、戸に、手を当て直した。


***


一分。


***


三分。


***


十分。


***


由紀の額に、汗が浮いていた。

戸は、びくともしなかった。


***


開けるほうが、難しい。

蔵の戸のときも、由紀は、三十分かかっていた。


***


「共さん、すみません、もうちょっと」

「お構いなく」

戸の向こうから、落ち着いた声がした。

「お茶を、淹れて、待っております」


***


待つのは、得意な人だった。

五十年、待っていた人だった。


***


二十分経ったところで、俺が、戸に手を当てた。


***


気を、一筋。

押さない。流す。


***


かちゃり。


***


開いた。


***


「……ずるい」

「修行の差だ」

「二十年の差でしょ」


***


手帳のときと、同じ会話だった。


***


共さんが、湯呑みを持って、戸口に立っていた。

玄関の戸に向かって、頭を下げた。


***


「……開けていただいて、恐れ入ります」


***


戸は、何も言わなかった。


***


二回目。


***


由紀は、さっきより、ずっと弱く、閉めた。

蛇口を、少しだけ開けるみたいに。

手帳のページを閉じたときの、あのくらい。


***


「共さん」

「はい」

共さんが、ノブを回した。

開いた。


***


「開きました」

「よし」


***


「じゃあ、次、『レスラー』さん」

由紀が、振り返った。

「あれの、代わりに、開けてみてください」


***


「……俺が、あれの役か」

「一番、力が強いので」

「理由が、雑だ」


***


檻の実験台になったときにも、同じことを言っていた。


***


『レスラー』は、ドアノブを、つまんだ。

指、二本で。


***


開いた。


***


「……開いたぞ」

「開いちゃだめなんですよ!」

「俺に言うな」


***


弱すぎた。

共さんが開けられる戸は、『レスラー』も、開けられた。

あれも、たぶん、開けられた。


***


由紀は、戸の前に、しゃがみこんだ。


***


「……強くすると、共さんが出られない。弱くすると、誰でも入れる」

「うむ」

「どうすればいいの」


***


メレオスが、由紀の隣に、しゃがんだ。


***


「覚えとるか」

「何を」

「蔵の前で、言うたことじゃ」


***


由紀が、顔を上げた。


***


「閉める前に」

メレオスは、言った。

「中を、見るんじゃ」


***


由紀は、しばらく、戸を見ていた。


***


それから、小さく、息を吸った。


***


「……冬至の夜と、同じだ」


***


冬至の夜。

隠り山の窪みの戸を、実家の庭から、由紀は閉めた。

戸の中に、共さんが、絡まっていた。


***


あなたごとは、閉めない。

そう言って、由紀は、共さんの形だけを残して、戸を閉めた。


***


「共さん」

由紀が、立ち上がった。

「中に、入って、立っててください。戸の、すぐ内側に」


***


「承知しました」


***


共さんが、玄関の内側に、立った。

背筋を伸ばして。

道場で、稽古を受ける前の立ち方だった。


***


由紀が、戸を閉めた。

両手を、戸に当てた。

目を、閉じた。


***


吸って。

吐いた。


***


長かった。

さっきより、ずっと、長かった。


***


俺の中に、少しだけ、由紀の息が、入ってきた。

冬至の夜と、同じだった。

縁が、まだ、つながっていた。


***


由紀の手のひらが、戸の上を、ゆっくり、なぞっていった。

人の形を、なぞるみたいに。


***


頭。

肩。

腕。

足。


***


それから、由紀は、戸を、閉めた。


***


音は、しなかった。

何かが、ぴたりと、合った気がした。


***


「……共さん。出てきてください」


***


ノブが、回った。

戸が、開いた。


***


共さんが、廊下に、出てきた。

振り返って、戸に、頭を下げた。


***


「……恐れ入ります」


***


今度は、たぶん、戸のほうも、少しだけ、頭を下げていた。


***


「『レスラー』さん」


***


『レスラー』が、ノブを、つまんだ。

指、二本で。


***


動かなかった。


***


指を、五本にした。

動かなかった。


***


両手で、握った。

足を、踏ん張った。

廊下の床が、みしりと鳴った。


***


戸は、ぴくりとも、動かなかった。


***


ノブを離した『レスラー』の手が、少しだけ、しびれていた。

檻を掴んだときと、同じだった。


***


「……それも」

『レスラー』は、手をぶらぶらさせながら言った。

「俺に、使うなよ」


***


檻。合気。戸締まり。

三回目だった。


***


「じゃあ、わしも」


***


メレオスが、戸の前に立った。

消えた。

戸の向こうに、現れる、はずだった。


***


ぼよん、という音がした。

しなかったかもしれない。

メレオスが、廊下に、尻もちをついていた。


***


「……わしも、通さんのか!」


***


「かみさまは、共さんの形じゃ、ないから」

由紀が、言った。

それから、ちょっとだけ、得意そうな顔をした。


***


「共さんの形だけ、通れる戸」


***


「……それ」

俺は、言った。

「すごいぞ」

「知ってる」


***


由紀は、それから、部屋に入って、窓も閉めた。

小さな窓が、二つあった。

同じように、共さんに窓の前に立ってもらって、形をなぞった。


***


「換気は」

俺が、聞いた。


***


由紀が、止まった。


***


「……どうしよう」


***


「寒いので」

共さんが、言った。

「開けません」


***


解決した。


***


帰りぎわ。

共さんが、玄関の戸に、手のひらを当てていた。


***


「由紀さん」

「はい」

「この手触り」


***


共さんは、戸を撫でた。

ゆっくり。


***


「伊左衛門さんの、戸締まりと、同じです」


***


由紀が、目を丸くした。


***


「……分かるんですか」

「毎年、冬至の夜に」

共さんは、少しだけ、笑った。

「中から、触っていましたので」


***


五十五年。

庭から、北に向かって、戸を閉め続けた祖父がいた。

閉められた戸の、向こう側で。

その手触りを、毎年、内側から、受け取っていた人がいた。


***


由紀は、何も言えずに、戸を見ていた。

それから、鼻を、一回すすった。


***


「……おじいちゃんの、真似しただけです」

「はい」

共さんは、頷いた。

「よく、似ています」


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