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第六十七章 オーロラに、穴

一月三日の0課は、まだ、正月の匂いがした。


***


給湯室の右の棚に、羊羹が一本、出ていた。

加藤さんの予告どおりだった。

その横に、鏡餅が、小さく一つ、載っていた。

上のみかんは、もう、なかった。


***


犯人は、分かっていた。

俺の後ろで、口の端を、黄色くしていた。


***


「……神様」

「わしではない」

「口に、白い筋がついてる」

「……神の、筋じゃ」


***


扉が開いた。


***


「明けまして、おめでとうございます」


***


共さんが、四十五度で頭を下げていた。

紺色のコートだった。

0課の扉を開けるのに、毎回、道場の入り口のお辞儀をする人だった。


***


「うん、うん。おめでとう」

課長が、湯呑みを持ったまま、手を振った。

「日曜なのに、ごめんね」


***


日曜だった。

仕事始めは、本当は、明日だった。

一日早めようか、と課長が言ったのは、元日の夜だった。


***


『レスラー』が、正月太りの気配もない腹を叩きながら、座った。

『レディー』が、爪を塗りながら、座った。

『ホラー』は、いつの間にか、座っていた。

『ジョン』は、目の下に、隈を作っていた。

三晩、本国と電話をしていたらしかった。


***


壁の画面の中に、『ギーク』がいた。


***


ジャージだった。

後ろに、鏡餅が見えた。

部屋の鏡餅の上には、みかんが載っていた。

自宅のは、無事らしかった。


***


「じゃあ」

課長が、湯呑みを置いた。

「『ギーク』くん。忘年会の、続きを」


***


「はい」

『ギーク』が、キーボードを叩いた。

「見ちゃったやつの、続きです」


***


壁の画面が、切り替わった。


***


折れ線だった。

横に長い、細い線が、ずっと平らに続いていた。

ところどころで、ぎざぎざに跳ねていた。


***


「向こうの観測所の、地震計です」

『ギーク』が言った。

「データ、公開されてます」

「公開されてるのか」

「……半分は」


***


もう半分のことは、誰も聞かなかった。


***


「ぎざぎざが、冬至の夜に、一回。それから、しばらく静かで」

『ギーク』が、画面を指でなぞった。

「十二月三十日。三十一日。一月一日。三晩、続けて、同じ時刻です」


***


「ここまでは、『ジョン』さんが言ってたやつです」


***


『ギーク』は、画面を、もう一枚、切り替えた。


***


地図だった。

白い海岸線と、細長い入り江と、小さな町の印。

その外れの、何もない山のほうに、赤い点が、四つ打ってあった。


***


「揺れの、震源です。四回分」


***


赤い点は、並んでいた。

一列に。

山のほうから、町のほうへ。


***


「一晩ごとに、だいたい、四百メートル」

『ギーク』の声が、少しだけ、小さくなった。

「町に、近づいてます」


***


会議室が、静かになった。


***


「……歩いてる、ってことか」

『レスラー』が言った。


***


「分かりません。地震計は、揺れしか、拾わないので」

『ギーク』は、もう一回、キーボードを叩いた。

「で、ここからが、見ちゃったやつです」


***


画面が、真っ黒になった。


***


違った。

黒い、丸い写真だった。

丸い写真の、まわりに、緑色の光が、ゆらゆらと、帯になって流れていた。


***


「オーロラです」

「……きれいだな」

思わず、言った。


***


「向こうの観測所に、空全体を写すカメラがあって。魚眼レンズで、真上を、一晩中、撮ってます」

『ギーク』は、写真の、ある一点に、印をつけた。

「ここ。震源の、真上です」


***


緑色の帯が、流れていた。

流れていって、その一点のところで、途切れていた。

途切れて、ぐるりと、よけていた。


***


帯の真ん中に、黒い穴が、空いていた。


***


「オーロラに」

『ギーク』が言った。

「穴が、空いてるんです」


***


「三晩とも、同じです。震源の真上だけ、オーロラが、出ない」

「それ、なんで分かったんだ」

「毎晩、四百メートルずつ、穴も、町のほうにずれてるので」


***


黒い穴を、全員が、見ていた。


***


俺の隣で、メレオスが、羊羹を持った手を、止めていた。


***


止まったまま、動かなかった。

羊羹の端が、少しだけ、崩れて落ちた。

拾わなかった。


***


「……神様?」


***


「……戸が、開いとる」


***


メレオスは、画面を見たまま、言った。

小さい声だった。


***


「隠り山の戸と、同じ、ですか」

共さんが、聞いた。


***


メレオスは、首を振った。


***


「こっちの戸では、ない」

それから、少しだけ、間を置いた。

「……向こう側の、戸じゃ」


***


「向こう側、って」


***


メレオスは、答えなかった。

羊羹を、皿に戻した。

食べかけのまま。


***


羊羹を食べかけで置くメレオスを、俺は、初めて見た。


***


「……本国は」

課長が、『ジョン』を見た。


***


「動かない」

『ジョン』は、短く言った。

「三晩、電話した。答えは、三回とも、同じだ。管轄外。ノルウェーの国内の問題。地震だ」


***


「本当に、そう思ってるのか」

「思ってない人間もいる。俺の電話に出たやつは、たぶん、思ってない」

『ジョン』は、目の下の隈を、指で押さえた。

「でも、上のほうが、そう決めた」


***


上のほうに、向こうの席がある。

そういう国の、上のほうだった。


***


「ノルウェー政府は」

「地震として、処理してる。小さな群発地震。住民には、念のため、夜の外出を控えるように、と」

「夜の外出」

『ジョン』は、少しだけ、笑った。

笑っていない笑い方だった。


***


「今、あそこは、一日中、夜だ」


***


「日は、いつ戻るんですか」

共さんが、聞いた。


***


「一月の、二十日過ぎだ」


***


『ジョン』は、画面の地図を見た。

赤い点の列と、町の印とのあいだを、指で測った。


***


「震源が、町に着くのと」

「……」

「日が昇るのと。どっちが先か、だ」


***


誰も、答えなかった。


***


「……うん、うん」

課長が、言った。

いつもより、一拍、遅かった。

「それと、もう一つ。こっちの話も、しておくね」


***


課長は、机の上から、紙を一枚、取った。


***


「冬至の夜に、実家に来た若い男の子。覚えてるよね」


***


覚えていた。

由紀の店に来て、ゆず湯の話をした男だった。

実家の庭で、由紀の肩に手を伸ばして、『レディー』に組み伏せられた男だった。

あれから、一言も、喋っていないはずだった。


***


「ゆうべ、移されたんだ」


***


「移された?」

『レディー』が、爪から、顔を上げた。


***


「別の施設にね。上からの、移送命令で」

課長は、紙を、机の真ん中に置いた。

「これが、その命令書の写し」


***


全員が、覗き込んだ。


***


判子が、押してあった。

それだけだった。


***


命令した人間の名前の欄が、空いていた。

役職の欄も、空いていた。

移送先の欄には、施設の番号だけが、書いてあった。

その番号の施設は、どこにも、なかったらしい。


***


「……これ」

『ギーク』が、画面の中で、身を乗り出した。

「免許の氏名欄と、同じ消し方です」


***


共さんの、昭和四十五年の免許だった。

氏名の欄だけが、役所の手続きで、きれいに消されていた。

跡を残さないんじゃない。

跡しか、残らない消し方。


***


共さんが、紙を、じっと見ていた。

五十年前、自分の名前を消したのと、同じ判子の押し方を。


***


「上の許可が、ないと、できない消し方だね」

課長が、言った。

共さんの免許のときにも、同じことを言っていた。


***


扉が、開いた。


***


赤城だった。

日曜なのに、背広だった。

ネクタイを、いつもより、きつく締めていた。


***


「話は、聞いた」

赤城は、座らなかった。

机の上の紙を、立ったまま、見下ろした。


***


「命令は、警察の中を、通っている」


***


「警察の、中」

「どこを通ったかまでは、辿れなかった。辿れないように、通してある」

赤城は、紙の、空いた欄を、指で叩いた。

「辿れないように通せる人間は、多くない」


***


「……上のほう、ですか」


***


赤城は、答えなかった。

それが、答えだった。


***


羊羹の写真。

知らない番号から、赤城のスマホに届いた一枚。

俺の、すぐ近くにいる誰かだ。

ゆず湯の夜に、赤城はそう言っていた。


***


「冬至の夜」

赤城は、言った。

「あの山には、仮面の男がいた。中身は、ただの人だった。……あのときは」


***


『ホラー』が、小さく頷いた。


***


「ただの人なら、冬至の夜に、どこにいたかが、残る」

赤城は、課長を見た。

「警察の上のほうで、あの夜、所在の分からない者を、洗い出す」


***


「うん、うん。静かに、だね」

「静かに、だ」


***


「洗い出して、それから」

『レスラー』が、腕を組んだ。

「どうやって、確かめる。中に入ってるかどうか」


***


赤城は、『ホラー』を見た。


***


「写真では、中身は、写らないそうだな」


***


「……写らないです」

『ホラー』は、言った。

「会えば、見えます」


***


「一月の、半ばに」

赤城は、言った。

「賀詞交歓会がある。警察と、役所の、上のほうが、一つの部屋に集まる」


***


「『ホラー』くんを、随行として、連れていく」


***


『ホラー』が、固まった。


***


「……俺が、ですか」

「君しか、いない」

「偉い人が、たくさん、いるところに」

「偉い人しか、いないところだ」


***


『ホラー』は、しばらく、黙っていた。

それから、自分の前髪を、指でつまんだ。


***


「……髪、切らないと、だめですか」

「切らなくていい」


***


『ホラー』は、少しだけ、ほっとした顔をした。

それが、一番の心配らしかった。


***


「だから、『ホラー』くんは、日本に残る」

赤城は、全員を見回した。


***


「班を、分ける」


***


赤城は、壁の画面の、オーロラの穴を見た。


***


「向こうには、健司くん。神様」

メレオスが、小さく頷いた。

「『ジョン』くん。窓口と、言葉が要る」

『ジョン』が、頷いた。

「それから、『レディー』くん」


***


『レディー』の爪を塗る手が、止まった。


***


「……寒いところ、嫌いなんだけど」

「知っている」

「知ってて、言うのね」

「海外の現場を、一番、知っているのは、君だ」


***


『レディー』は、少しだけ、赤城を見ていた。

それから、爪に、戻った。


***


「……ふーん」


***


引き受ける方の、ふーんだった。


***


「残りは、日本だ」

赤城は、続けた。

「『レスラー』くんは、久我さんと、由紀さんの、そばに」


***


『レスラー』が、頷いた。

それから、共さんを見た。


***


「……腕相撲は、なしだぞ」

「承知しております」


***


「あれは、健司くんと、由紀さんには、入れない」

赤城は、言った。

「久我さんには、入れる」


***


共さんが、背筋を伸ばした。


***


「五十年、住んでいた体だ。戻りたがらないとは、言い切れない」


***


「……はい」

共さんは、静かに言った。

「私も、そう思います」


***


健司が、日本にいない。

あれが、日本にいる。

一番、嫌な組み合わせだった。


***


「向こうが、こっちを留守にさせたいのかもしれない」

『レディー』が、爪を見たまま、言った。

「私が向こうなら、そうするわ」


***


「そうかもしれない」

赤城は、否定しなかった。

「だが、町に、人がいる」


***


それで、決まった。


***


「うん、うん」

課長が、手帳を開いた。

「じゃあ、出張、だね」


***


「名目は」

「オーロラ観測の、学術視察」

赤城が、言った。

「日本の研究機関から、視察団を出す。手配は、こちらでする」


***


「……学術」

俺は、言った。

「俺が、ですか」


***


「君が、学術だ」


***


『レスラー』が、横を向いて、肩を震わせていた。


***


「小沢さん」

加藤さんが、手帳から、顔を上げた。

「パスポートは」


***


「……」


***


「小沢さん?」


***


「……ないです」


***


会議室が、静かになった。

さっきの、オーロラの穴のときより、静かだった。


***


「ない」

「作ったこと、ないです」

「海外は」

「行ったこと、ないです」


***


生まれてから、ずっと、この国にいた。

修学旅行は、京都だった。

卒業旅行は、じいちゃんの稽古で、行けなかった。

魔法を覚えた山は、先祖の山だった。


***


国境を越えたことが、一回も、なかった。


***


「……『オザケン』」

『ジョン』が、ゆっくり言った。

「お前、CIAの人間と、ずっと組んでるんだぞ」

「知ってます」

「一回も、海の外に、出たことがないのか」

「ないです」


***


「……ふーん」

『レディー』が言った。

さっきとは、違うふーんだった。


***


「パスポートの発給は」

加藤さんが、手帳をめくった。

「申請してから、一週間くらいです」


***


「明日、出る」


***


赤城だった。


***


「……明日」

「明日だ」

「一週間くらい、かかるって」

「そんなことは」

赤城は、ネクタイを直した。


***


「些細な問題だ」


***


外務省にも、米国大使館にも、言っていた台詞だった。

俺のパスポートにも、使われた。


***


「待て」


***


メレオスが、椅子の上に、立っていた。


***


「わしは、身分がないぞ」

「知ってる」

「板の契約も、健司の名前じゃった。ぱすぽーとも、ないぞ」

「知ってる」


***


「……じゃが」

メレオスは、腕を組んだ。

「見えんのじゃから、いらん」


***


「うん、うん」

課長が、にこにこ言った。

「密入国だね」


***


「……聞かなかったことにする」


***


国務大臣が、目を閉じていた。


***


「……あの」


***


共さんが、控えめに、手を挙げていた。


***


「私も、戸籍が」

「ないですね」

「ないので」

「日本に、残ってください」

「……はい」


***


共さんは、手を下ろした。

それから、壁の画面の、緑色の帯を見た。


***


「オーロラ、というのは」

「はい」

「一度、見てみたかったんです」


***


共さんは、少しだけ、笑った。


***


「……また、行きそびれました」


***


三回目だった。

万博。大阪の万博。オーロラ。

この人は、五十年分、何かに行きそびれていた。


***


「写真、撮ってきます」

「……ありがとう、ございます」


***


「小沢さん」

加藤さんが、電卓を叩いていた。

「航空券と、宿と、防寒具の手配をしますね」


***


「あ、はい。……経費は」


***


聞いてから、しまったと思った。

慰労会も、歓迎会も、慰安旅行の露天風呂も、落ちなかった。

一ミリも、譲らない人だった。


***


「落ちます」


***


「……え」


***


「出張は、経費で、落ちます」

加藤さんは、にこにこ言った。

「規程ですので」


***


0課に来て、初めてだった。

経費が、落ちた。


***


「……落ちるんですか」

「落ちます」

「本当に」

「本当に」


***


俺は、少しだけ、泣きそうになっていた。

ノルウェーの、北極圏の、オーロラに穴の空いた町に行く話をしているのに。

経費が落ちることで、泣きそうになっていた。


***


「……健司」

メレオスが、俺の袖を引いた。

「わしの、肉まん代は」

「落ちない」

「なぜじゃ」

「お前は、密入国だからだ」


***


会議が終わると、『レディー』が、机の横に来た。


***


「荷物、多いから」

「……はい」

「持ってね」

「……貸しですか」

「貸しよ」


***


北極圏まで、紙袋を持つことになった。


***


その夜。

アパートで、由紀に電話をした。


***


「ノルウェー?」


***


声が、裏返っていた。


***


「ノルウェーって、あの、ノルウェー?」

「あのノルウェーだ」

「オーロラの?」

「オーロラの」

「え、ずるい」


***


「仕事だ」

「仕事で、オーロラ?」

「……仕事で、オーロラだ」


***


少し、黙った。

穴のことは、言わなかった。


***


「お土産、オーロラね」

「持って帰れない」

「じゃあ、写真」

「共さんにも、頼まれてる」

「……共さんも、行けないんだ」

「戸籍が、ないからな」


***


「かみさまは?」

「行く」

「かみさまこそ、戸籍ないじゃん」

「見えないから、いらないらしい」

「ずるい」


***


電話の向こうで、由紀が、笑った。

それから、急に、声が低くなった。


***


「……お兄ちゃんが、いないあいだ」

「ああ」

「共さん、一人になるよね」


***


赤城の言葉を、少しだけ、話した。

五十年住んでいた体。

あれが、戻りたがるかもしれない。


***


由紀は、しばらく、何も言わなかった。


***


「あたし、戸締まりなら、できるよ」


***


「……由紀」

「手帳のページ、閉じられたじゃん。蔵の戸も」

「人の家の戸は、やったことないだろ」

「やったことないことは、やってみないと、できるようにならないでしょ」


***


じいちゃんが、言いそうなことだった。

たぶん、言っていた。

俺が、受け身で、鼻血を出したときに。


***


「出発、いつ」

「たぶん、五日」

「じゃあ、四日の夜。共さんの官舎、連れてって」


***


止めようとした。

止まらない声だった。


***


「……分かった」

「うん」

「『レスラー』さんも、呼ぶ」

「うん。あ、あと」

「なんだ」

「かみさまに、言っといて。飛行機、窓側にしなよって」


***


「……見えないから、席はない」

「じゃあ、お兄ちゃんの膝の上で、窓側」


***


電話を切った。


***


ソファの上で、メレオスが、スマホで何かを調べていた。

人差し指一本で。

画面を覗くと、『のるうぇい にくまん』と打ってあった。


***


検索結果は、出ていなかった。


***


夜の、十一時過ぎだった。


***


スマホが、鳴った。


***


共さんだった。

電話だった。

メッセージではなかった。


***


「健司さん」


***


声が、いつもより、低かった。

酔ったときの、丁寧さではなかった。


***


「夜分に、申し訳ありません」

「いえ。どうしました」

「……今、テレビで」


***


共さんは、言葉を探していた。


***


「ニュースを、見ていました。警察庁の、年頭の挨拶の、映像です」

「はい」

「長官が、話していて。後ろに、幹部の方が、並んでいました」


***


「十人くらい。並んで、最後に、一緒に、頭を下げて」


***


共さんは、少しだけ、黙った。


***


「頭を上げたときに」

「……」

「一人だけ」


***


「首を、傾げた方が、いました」


***


背中が、冷たくなった。


***


首を、傾げる。

倉庫の奥で。

由紀の店の外で。

隠り山の窪みの縁で。

面白いものを見つけた子供みたいに。


***


あれの、仕草だった。


***


「ほんの、少しです。一秒も、なかった」

共さんの声は、揺れていなかった。

揺れないように、していた。

「たぶん、ほかの誰が見ても、分からないと思います」


***


「でも、私には、分かりました」


***


「五十年、中から、見ていた、傾げ方です」


***


磨りガラスの向こうの、よその家のテレビ。

何を映しているのかは、分からなかった。

でも、自分の首が、どう傾くのかだけは、五十年、ずっと、内側から見ていた。


***


「……誰ですか」


***


「分かりません」

共さんは、言った。

「映ったのは、一瞬で。後ろの列で。顔は、小さくて」


***


「ただ」


***


「この中に、います」


***


電話の向こうで、テレビの音が、していた。

もう、別のニュースに変わっていた。

天気予報だった。

明日は、晴れるらしかった。


***


ソファの上で、メレオスが、スマホを置いていた。

俺の顔を、見ていた。


***


「……共さん」

「はい」

「戸締まり、してますか」

「はい。鍵は、二つとも」


***


鍵では、足りなかった。

分かっていた。

共さんも、たぶん、分かっていた。


***


「明日の夜、由紀が、そっちに行きます」

「由紀さんが」

「もう一つ、鍵を、かけに」


***


電話の向こうで、共さんが、少しだけ、息を吐いた。

笑ったのかもしれなかった。


***


「……伊左衛門さんの、家族は」

共さんは、言った。

「本当に、戸締まりが、お好きですね」


***


電話を切った。


***


窓の外は、晴れていた。

星が、少しだけ、見えた。


***


北の、ずっと北のほうの空には、今夜も、穴が空いているはずだった。

四百メートル、町に近づいて。


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