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第六十四章 昭和百一年

共さんは、自動ドアに、お辞儀をした。


***


警察病院の、正面玄関だった。

退院の朝だった。


***


ガラスの戸が、すうっと開いた。

共さんは、立ち止まった。

背筋を伸ばして、戸に向かって、頭を下げた。


***


「……恐れ入ります」


***


頭を上げたときには、戸は閉まっていた。


***


もう一歩、出た。

戸が、また開いた。

共さんは、また、頭を下げた。


***


三回目で、受付の看護師さんが、口元を押さえて横を向いた。


***


「共さん」

「はい」

「それ、勝手に開くやつです」

「存じております」

共さんは、真面目な顔で言った。

「開けていただいたので」


***


俺の足元で、メレオスが、腹を抱えて笑っていた。

看護師さんには、見えていなかった。


***


冬至から、二日が経っていた。


***


検査は、どこにも異常がなかった。

体は、四十前のままだった。

中身は、昭和八年生まれの、九十三歳だった。


***


医者は、退院の書類の年齢の欄を、空けたままにしていた。


***


タクシーに乗った。


***


走り出して、すぐだった。


***


「三百メートル先、左方向です」


***


女の人の声がした。

共さんが、座席の上で、ぴんと背筋を伸ばした。

後ろを見た。

助手席を見た。

それから、俺の膝の上のメレオスを見た。


***


「わしではないぞ」


***


「……どなたか、乗っていらっしゃいますか」

「機械です」

「機械が、道を、ご存じなんですか」

「ご存じなんです」


***


共さんは、カーナビの画面に、小さく会釈した。


***


運転手さんが、ミラー越しに、俺を見た。

俺は、何も言わなかった。


***


行き先は、0課が用意した官舎だった。


***


庁舎から歩いて十分の、古い建物だった。

六畳一間と、小さな台所。

課長が、「狭いけど、目は届くからね」と言って、鍵を渡してくれた部屋だった。


***


あれは、まだ、どこかにいる。

仮面の男の中で。

「また、遊ぼう」と言って、消えたまま。


***


目の届くところに、というのは、そういう意味だった。


***


共さんは、何もない六畳の真ん中に、正座した。

部屋を、ぐるりと見回した。


***


「……広いですね」

「六畳ですよ」

「五十年、自分の部屋が、なかったので」


***


冗談なのか、本気なのか、分からなかった。

共さんは、少しだけ笑っていた。

たぶん、冗談だった。


***


共さんは、上着の内ポケットから、封筒を一つ出した。


***


表に、几帳面な字で、書いてあった。

『当座の立替。返済不要。 赤城』


***


「赤城さんが、病院に、置いていかれました」

「返済不要って、書いてありますね」

「書いてありますね」

共さんは、封筒の裏を、俺に見せた。


***


裏には、もっと几帳面な字で、書いてあった。

『借用 一金 拾萬圓也 久我共』


***


「……返すんですか」

「返します」

「返済不要なのに」

「私は、兄弟子ですので」


***


弟弟子に、金を借りたままにはできない。

そういうことらしかった。


***


赤城が入門したのは、共さんがいなくなったあとだ。

つまり、共さんのほうが、先輩だった。


***


あの赤城の、兄弟子。

考えると、頭が、少し痛くなった。


***


夕方、三人で、官舎の向かいのコンビニに行った。

冷蔵庫が、空っぽだったからだ。


***


自動ドアが開いた。

共さんが、頭を下げかけた。

途中で、止まった。


***


学習していた。


***


「……いらっしゃいませー」

店員さんの声がした。


***


共さんは、店員さんのほうに、深々と頭を下げた。


***


そっちは、合っていた。


***


棚の前で、共さんは、しばらく動かなかった。


***


おにぎり。弁当。パン。菓子。雑誌。電池。靴下。

全部が、明るい光の中に、ぎっしり並んでいた。


***


「ここは、何屋さんですか」

「……全部屋さん、です」


***


「夜は、何時に閉まるんですか」

「閉まりません」

「……閉まらない」

「二十四時間、開いてます。元日も」


***


共さんは、レジの奥の店員さんを見た。


***


「いつ、お休みになるんですか」

「交代で、休んでます」

「……ご苦労さまです」


***


店員さんに、もう一度、頭を下げた。

店員さんが、戸惑いながら、頭を下げ返した。


***


「肉まんはな」

メレオスが、胸を張った。

店員さんにも見えるようにしてきたらしい。

金髪の子供が、腕を組んで、レジの前に立っていた。


***


「ここで、指を差して、これ、と言えばよいのじゃ」


***


先輩風だった。

ひと月ちょっと前に、初めて一人で肉まんを買えた神様だった。


***


「これ」

共さんが、指を差した。

「……を、二つ、いただけますか」


***


店員さんが、肉まんを二つ、紙に包んだ。


***


「袋、ご利用ですか」


***


「……はい。お願いします」

「三円です」


***


共さんが、止まった。


***


「袋を」

「はい」

「……買うんですか」

「買うんです」


***


共さんは、封筒から、千円札を一枚出した。

出して、また、止まった。


***


千円札を、裏返した。

表に戻した。

蛍光灯に、透かした。


***


「健司さん」

「はい」

「この方は、どなたですか」


***


「北里柴三郎です」

「伊藤博文では、ないんですか」


***


「……三回、変わりました」

「三回」


***


伊藤博文。夏目漱石。野口英世。北里柴三郎。

指を折って説明すると、共さんは、千円札に向かって、小さく頭を下げた。


***


「はじめまして」


***


後ろに、客が二人、並んでいた。


***


レジの横に、機械があった。

店員さんが、「お支払いは、こちらでお願いします」と言った。


***


共さんは、機械の前で、両手をそろえた。


***


「……よろしく、お願いします」


***


機械は、何も言わなかった。

千円札を、入れる口が、光っていた。


***


帰り道。

共さんは、歩きながら、封筒の裏に、何か書いていた。

街灯の下で、覗き込んだ。


***


『千円札 北里柴三郎(伊藤博文より三代あと)』

『袋 三円 買う』

『夜も開いている店 休まない 交代で休む』

『道を知っている機械 女の人の声』

『支払いの機械 返事はしない』


***


「……全部、書くんですか」

「忘れないように」


***


封筒の裏は、もう、半分埋まっていた。

表の『返済不要』の字が、少しだけ、気の毒に見えた。


***


次の日。

共さんを、0課に連れていった。


***


扉を開けた瞬間、共さんは、腰を折った。

四十五度だった。

道場の、入り口のお辞儀だった。


***


「久我、共と、申します」

「このたびは、皆様に、大変なご迷惑を」


***


「うん、うん。いらっしゃい」

課長が、湯呑みを持ったまま、手を振った。

「迷惑は、お互い様だからね」


***


加藤さんが、お茶を出しながら聞いた。

「共さん。アレルギーは、ありますか」


***


神様にも、同じことを聞いていた人だった。


***


『レスラー』が、腕を組んで、共さんを上から下まで見た。


***


「……若いな」

「九十三です」

「……若いな」


***


二回言った。

それ以上、言うことがなかったらしい。


***


『レディー』は、爪から目を上げて、共さんの服を見た。

病院の売店で買った、灰色のスウェットだった。


***


「その服、誰が選んだの」

「私です。売店で」

「……ふーん」


***


良くない方の、ふーんだった。


***


『ホラー』は、共さんの後ろを、じっと見ていた。

しばらく、見ていた。


***


「……後ろにも、誰もいません」

「恐れ入ります」

「いえ。一応です」


***


壁の画面の中から、『ギーク』が身を乗り出していた。

肉まんを、片手に持っていた。


***


「本物の、昭和の人だ……」

「はい。昭和の人です」

「ワープロって、知ってます?」

「わーぷろ」

「……ですよね。その前ですよね」


***


『ギーク』は、なぜか、嬉しそうだった。


***


課長が、机の引き出しから、スマホを一台出した。

黒い、飾り気のないやつだった。


***


「身分証が、まだないからね。契約は、できないんだ」

課長は、スマホを共さんの前に置いた。

「だから、0課の備品。業務用ね」


***


メレオスが、椅子の上で、跳ねた。


***


「待て」

「なに」

「備品じゃと? ただか?」

「業務用だからね」

「わしのは、健司の名義で、月千円じゃぞ!」


***


「上限を使い切ったのは、お前だろ」

「それとこれとは、話が別じゃ!」


***


別ではなかった。


***


共さんは、黒いスマホを、両手で持ち上げた。

しばらく、黙って、見ていた。


***


「……これは」

「電話です。今の」

「見たことは、あります」


***


少し、間があった。


***


「……中から」


***


部屋が、静かになった。


***


共さんは、スマホを見たまま、言葉を探していた。


***


「磨りガラスの向こうで、よその家のテレビが、ずっとついているような」

共さんは、ゆっくり言った。

「そんな感じでした。何かが映っているのは、分かるんです。でも、何を映しているのかは、分かりませんでした」


***


「五十年、ずっと、ですか」

「ずっと、です」

共さんは、少しだけ笑った。

「音だけ、いつも、少し遅れて聞こえて」


***


「うん、うん」

課長が、言った。

「無理に、思い出さなくていいからね」


***


「はい」

共さんは、頷いた。

それから、手元のスマホに、目を落とした。


***


指が、動いた。


***


画面をつけた。

上になぞって、ロックを外した。

アプリを開いた。

閉じた。

設定の画面を出して、文字の大きさを、一段、大きくした。


***


三秒だった。


***


全員が、共さんの指を見ていた。

共さんも、自分の指を見ていた。


***


「……今、私は、何をしたんでしょう」


***


「文字を、大きくしました」

『ギーク』が言った。

「老眼の人の、一番いい設定です」


***


共さんは、もう一度、やろうとした。

今度は、画面を見て、考えながら。


***


指が、止まった。

画面を、三回つついた。

何も起きなかった。

四回目で、なぜか、懐中電灯がついた。


***


「……考えると、できません」

「考えないと、できるんですか」

「そのようです」


***


体だけが、覚えていた。

五十年、あれが使っていた体だった。


***


メレオスが、ぷるぷる震えていた。


***


「わしは」

「なんだ」

「わしは、この板を、一か月、指一本で押しとるんじゃぞ」

「知ってる」

「なぜ、新入りのほうが、速いんじゃ!」


***


加藤さんが、自分のスマホを操作していた。


***


ぴろん。


***


グループの名前が、変わっていた。

『0課(九名)+1』


***


「共さんは、0課じゃないので」

加藤さんが、にこにこ言った。

「プラス、一です」


***


共さんは、画面の『+1』を見た。

それから、スマホに向かって、頭を下げた。


***


「……よろしく、お願いします」


***


画面の中の『既読9』が、一つずつ、増えていった。


***


昼前には、共さんも、内職をしていた。


***


本人が、言い出したのだった。

「何もせずに、ここにいるのは、落ち着きませんので」


***


「一件、十円です」

加藤さんが、手帳を開いた。

「私のお財布からです。経費では、落ちませんので」


***


「お代は、結構です」

「ルールですので」

「……では、頂戴します」


***


一件目。お茶くみ。


***


共さんは、急須を温めた。

湯を、少し冷ました。

茶葉は、スプーン一杯だった。

きっちり、すり切り一杯だった。


***


課長が、一口飲んだ。


***


「……うん、うん、うん」


***


三回だった。

0課に来てから、課長の「うん」は、二回までしか聞いたことがなかった。


***


メレオスが、湯呑みを睨んでいた。


***


二件目。シュレッダー。


***


共さんは、紙を一枚ずつ入れた。

一枚入れるたびに、刃が止まるのを待った。

待ってから、次を入れた。

ホチキスは、全部、先に外してあった。


***


詰まらなかった。

一度も、詰まらなかった。


***


三件目。年賀状の宛名書き。


***


「0課って、年賀状、出すんですか」

「出しますよ」

加藤さんが、葉書の束を、共さんの前に置いた。

「取引先に」


***


「取引先、あるんですか」

「営林署のおじいさんと、温泉の女将さんと、駅前の肉まん屋さんです」


***


三件だった。

表に出せない課の、取引先だった。


***


「営林署の方の、お名前は」

共さんが、筆ペンを構えて聞いた。


***


加藤さんが、止まった。

手帳をめくった。

もう一度、めくった。


***


「……『営林署 御中』で、お願いします」


***


共さんが、筆ペンを走らせた。


***


几帳面な字だった。

一画ずつ、止めて、はねて、払った。


***


『ホラー』が、髪の隙間から、その字を見ていた。


***


「……あの字ですね」


***


手帳の、地名の脇の、一文字。

メレオスが最初に見つけて、誰の字だと震えた、あの字だった。


***


「伊左衛門さんには、字だけは、褒められました」

共さんが、筆ペンにキャップをしながら言った。


***


「字だけ、ですか」

「字だけ、です」

共さんは、真顔だった。

「受け身は、ずっと、叱られていました」


***


どこかで聞いた話だった。


***


夕方までに、共さんは、二十件の仕事をした。

メレオスは、十八件だった。


***


加藤さんが、手帳を読み上げた。


***


「共さん、二十件。詰まり、なし。二百円です」

「メレオスさん、十八件。詰まり、一回。百七十五円です」


***


「……ぬう」


***


メレオスが、机に、突っ伏した。


***


「新入りに、負けた」

「神様」

共さんが、メレオスの前に、膝をついた。

「神様は、先輩ですので」


***


メレオスが、顔を上げた。


***


「……先輩」

「はい。私は、今日からですので」

「……うむ」

メレオスは、座り直した。

「先輩じゃ」


***


一秒で、機嫌が直っていた。

安い神様だった。


***


「あのー」

壁の画面から、『ギーク』が手を挙げた。

「共さんの、五十年分。まとめときました」


***


壁の画面が、切り替わった。

世界地図だった。


***


「全部で、三十二ページあります」

「……恐れ入ります」


***


共さんは、画面に向かって、頭を下げた。


***


「画面に、お辞儀されたの、初めてです」


***


共さんは、画面の前に立った。

地図を、端から順番に見ていった。


***


指が、止まった。


***


「……ソ連が、ない」


***


「なくなった」

『ジョン』が、言った。

「千九百九十一年だ」


***


「戦争で、ですか」

「いや」

『ジョン』は、少し考えた。

「……いろいろあって、だ。長い話になる。酒がいる」


***


CIAの人間が、それで済ませていいのかは、分からなかった。


***


「ドイツが、一つですね」

「一つになった。そっちは、壁を、みんなで壊した」

「……壁を」

「ハンマーで」


***


共さんは、しばらく、地図の真ん中を見ていた。

それから、上を見た。

天井のほうを。


***


「月には」

共さんは、言った。

「あれから、何回、行ったんですか」


***


昭和四十五年。

月に人が立ったのは、その前の年だった。


***


「四回、降りた」

『ジョン』が、答えた。

「それから」

「……それきりだ」


***


「行かなく、なったんですか」

「行かなくなった」

「あんなに、遠くまで、行ったのに」


***


『ジョン』は、目をそらした。


***


「……予算が、な」


***


アメリカの人が、少しだけ、小さく見えた。


***


「あ、そうだ」

課長が、湯呑みを置いた。

「万博は、知ってるかい。大阪の」


***


「存じております」

共さんの目が、少しだけ明るくなった。

「あの年でした。……行きそびれたんです。伊左衛門さんが、稽古を休ませてくれなくて」


***


「去年ね」

課長が、にこにこ言った。

「また、大阪で、やったよ」


***


共さんが、止まった。


***


「……もう、終わりましたか」

「十月にね」


***


共さんは、長いこと、黙っていた。


***


「……また、行きそびれました」


***


『レディー』が、横を向いて、肩を震わせていた。

珍しかった。


***


共さんは、また、地図に戻った。

指で、国境の線を、なぞっていった。

ヨーロッパを、上へ。

北へ。


***


指が、止まった。


***


地図の、一番上のほう。

細長い国の、さらに北の端だった。


***


「……ここは」

共さんは、言った。

「寒いところですね」


***


『ジョン』が、顔を上げた。


***


共さんは、自分の指を、見ていた。

スマホのときと、同じ顔だった。


***


「……なぜでしょう」

共さんは、首を、ほんの少しだけ傾げた。

「行ったことは、ないはずなんですが」


***


『ジョン』と、目が合った。

『ジョン』は、何も言わなかった。

俺も、何も言わなかった。


***


「お昼」

加藤さんが、ぱん、と手を叩いた。

「羊羹に、しましょうか」


***


「昼ご飯が、羊羹なんですか」

「一本、ありますので」


***


羊羹 次回から一本。

加藤さんの手帳に、そう書いてあったのを、俺は知っていた。


***


午後。

由紀と、駅前で待ち合わせた。


***


由紀は、半休を取っていた。

年末の携帯ショップは、忙しい。

それでも、取ってきた。


***


「共さん、こんにちは」

「由紀さん」

共さんは、四十五度で頭を下げた。

由紀も、つられて、四十五度で頭を下げた。

接客の、お辞儀だった。


***


二人とも、なかなか、頭を上げなかった。


***


「……いつまでやるんだ」


***


じいちゃんの墓は、実家から少し離れた、坂の上の寺にあった。


***


由紀が、墓石に水をかけた。

俺が、線香に火をつけた。

ライターで。

魔法ではなく。


***


「……今、指で、つけようとしたでしょ」

「してない」

「した。指が、こうなってた」


***


してなかった。

たぶん。


***


共さんは、墓の前に立った。


***


『小沢家之墓』


***


共さんは、頭を下げた。

自動ドアのときとは、違うお辞儀だった。

長い、長い、お辞儀だった。


***


頭を上げて、共さんは、墓石に、小さな声で話しかけた。


***


「伊左衛門さん。……名前が、戻りました」


***


「赤城さん、という、お弟子さんが、返してくれました。……伊左衛門さんに、また、弟子ができていたんですね」


***


線香の煙が、まっすぐ、上に昇っていた。


***


「撃たなくて、よかったんですよ」


***


共さんは、言った。


***


「撃ってくださいと、言いましたけど。……撃たなくて、よかったんです。おかげで、今日、ここに、来られました」


***


由紀が、鼻をすすった。

メレオスが、由紀の肩の上で、同じ音を立てた。


***


しばらく、誰も、何も言わなかった。


***


「……おじいちゃんね」

由紀が、先に口を開いた。

「冬至のゆず湯のとき、柚子、浮かべすぎるの。毎年。湯が、見えなくなるくらい」


***


共さんが、振り返った。


***


「……今も、ですか」

「亡くなる前の年まで」


***


共さんは、少し考えて、言った。


***


「昔から、そうでした」

「え」

「稽古の加減は、誰よりも、上手な人でした」

共さんは、墓石を見た。

「それ以外は、全部、山盛りでした」


***


「全部」

「全部、です」

共さんは、指を折った。

「ご飯も、味噌汁の味噌も。茶葉も」


***


メレオスが、由紀の肩の上で、固まった。


***


「……茶葉も、か」

「はい。お茶が、黒かったです」


***


「わしのは」

メレオスが、呟いた。

「伊左衛門、譲りか……」


***


俺も、固まっていた。


***


加減が、できない。

魔法を覚えてから、ずっと、それで叱られてきた。

ハリセンで、何百回も。


***


「……遺伝か」

「遺伝だね」

由紀が、嬉しそうに言った。

「由紀ノートに、書いとこ」


***


「健司さんは、受け身は」

共さんが、俺を見た。

「上手に、なりましたか」


***


由紀が、俺より先に、答えた。


***


「鼻血、出してました」

「……伊左衛門さんの手帳に、書いてあったとか」

「書いてありました。『健司、受け身、また鼻血』」


***


共さんが、吹き出した。


***


墓の前で。

五十年ぶりに笑った人が、今度は、声を出して笑っていた。


***


じいちゃんの墓の前で、弟弟子が、孫の鼻血で笑っていた。

じいちゃんが見たら、たぶん、仏頂面で、腕を組んでいた。

でも、たぶん、怒らなかった。


***


夜。

官舎まで、共さんを送った。


***


別れ際に、由紀が、紙袋を一つ、差し出した。


***


「これ。退院祝い」


***


中身は、手帳だった。

紺色の、表紙の固いやつだった。


***


「封筒の裏じゃ、もう足りないでしょ」


***


封筒の裏は、今日一日で、全部埋まっていた。

『ソ連 ない』『ドイツ 一つ』『月 行かなくなった(予算)』『万博 また行きそびれた』。

表の『返済不要』の上にまで、はみ出していた。


***


共さんは、手帳を、両手で受け取った。

それから、玄関の上がり口に正座して、最初のページを開いた。


***


筆ペンで、日付を書いた。


***


『昭和百一年十二月二十五日』


***


「共さん」

「はい」

「令和です」


***


「……れいわ」


***


「昭和の次が、平成で。平成の次が、令和です」

「平成は」

「終わりました。三十年で」


***


共さんは、しばらく、黙っていた。


***


「……もう一つ、終わっていたんですか」


***


『昭和百一年』に、きっちり二本線を引いた。

横に、『令和八年』と書いた。

その下に、小さく、『平成 終わった(三十年)』と書き足した。


***


それから、一行空けて、共さんは、ゆっくりと筆を下ろした。


***


『久我 共』


***


一画ずつ。

止めて、はねて、払った。


***


「忘れないように」


***


共さんは、言った。

誰に言ったのかは、分からなかった。

たぶん、自分に、だった。


***


「……共」

由紀の肩の上から、メレオスが言った。

「わしの名も、書いておけ」


***


「神様の、ですか」

「わしには、身分がない。板の書類も、健司の名前じゃ」

メレオスは、腕を組んだ。

「せめて、紙の上に、おりたい」


***


紙の上にいないのに、確かにいる。

由紀の店で、一度、そう思ったことがあった。


***


共さんは、頷いた。

自分の名前の下に、同じくらい丁寧に、書いた。


***


『メレオス様』


***


メレオスは、それを、長いこと見ていた。


***


「……様、か」

「神様ですので」

「……うむ」


***


神様は、紙の上にいた。

少しだけ、嬉しそうだった。


***


「あたしも」

由紀が、手帳を覗き込んだ。

「あたしと、お兄ちゃんも、書いてください」


***


共さんは、『小沢由紀様』と書いた。

続けて、『小沢健司様』と書いた。


***


「あ、共さん」

由紀が、俺の名前を指差した。

「お兄ちゃんの横に、鼻血って、書いといてください」


***


「……承知しました」


***


止める間は、なかった。


***


『小沢健司様(受け身、鼻血)』


***


几帳面な、きれいな字だった。

じいちゃんが、字だけは褒めた字だった。


***


五十年ぶりに開いた手帳の、最初のページに。

俺の鼻血が、きれいな字で、残った。


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