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第六十三章 ゆず湯

下りの山道は、行きより、ずっと長かった。


***


赤城が、共さんを背負っていた。


***


「代わります」

三回、言った。

三回とも、断られた。


***


「兄弟子が、だ」

赤城は、前を向いたまま言った。

息は、少しだけ乱れていた。

初めて見る、赤城の乱れた息だった。


***


背中の共さんは、眠っていた。

ときどき、目を開けて、夜空を見た。

それから、また、閉じた。


***


後ろから、縛られた二十六人が、黙ってついてきた。

『ジョン』と『ホラー』が、列の前と後ろを歩いた。

誰も、逃げようとしなかった。

誰も、何も言わなかった。


***


山道の両側に、もう、影は並んでいなかった。


***


錆びたゲートの前に、軽トラックが一台、停まっていた。

運転席で、作業服の老人が、魔法瓶を抱えて待っていた。


***


夜中の、一時過ぎだった。


***


「……暗うなったら下りてこいと、言うたろうが」

老人は、窓を開けて言った。

それから、列を見た。

赤城と、その背中の共さんを見た。


***


「四人で入って」

老人は、指を折った。

「五人で、出てきよった」


***


老人の目が、俺の足元で、止まった。


***


「……いや。六人か」


***


メレオスが、俺の後ろに、半分隠れた。

老人は、それ以上何も言わずに、魔法瓶の蓋に、熱いお茶を注いだ。

一つ目を、赤城に渡した。

二つ目を、俺に。

三つ目を、誰もいないはずの、俺の足元に差し出した。


***


メレオスは、少し迷ってから、両手で受け取った。


***


「……熱いぞ」

「熱いのが、ええんじゃ」

老人は、そう言って、窓を閉めた。


***


ゲートの外には、課長が手配した車が、三台来ていた。

二十六人が、順番に乗せられていった。


***


『ジョン』は、車の陰で、電話をしていた。

さっき、出なかった電話だった。


***


英語だった。

短い言葉が、何度か、往復した。

それから、『ジョン』は、長いこと、黙って相手の話を聞いていた。


***


電話を切って、『ジョン』は、こっちに来た。

顔色が、悪かった。


***


「開いたそうだ」


***


赤城が、共さんを車の後部座席に寝かせてから、振り返った。


***


「どこが」

「うちの国じゃない」

『ジョン』は、北の空を見た。

「ノルウェーの、ずっと北だ。北極圏の、小さな町の外れ」


***


「今の時期、あそこは、日が昇らない」

『ジョン』は言った。

「一日中、夜だ。……一番、長い夜の国だ」


***


「何が、出てきた」

「分からない」

『ジョン』は、首を振った。

「町の近くの観測所が、真夜中に一度だけ、おかしな揺れを拾った。それだけだ。それきり、何も起きてない。……今のところは」


***


いろんなところで、開くんだ。

窪みの縁で、あれが、そう言っていた。


***


開いたのは、一つだけだった。

一つだけ、開いてしまった。


***


「……報告は、明日でいい」

赤城が言った。

それから、少しだけ間を置いて、付け足した。

「今夜は、よくやった。全員」


***


実家に着いたのは、朝の五時だった。


***


門の前で、宅配便の制服の『レスラー』が、段ボールに座ったまま、腕を組んで寝ていた。

俺の足音で、片目だけ開けた。


***


「……おう」

「おう」

「八人と、一人。全部、課長のとこに送った」

「ありがとうございました」

「礼を言うな」

『レスラー』は、また目を閉じた。

「腹が立つ」


***


縁側に、由紀がいた。


***


北を向いたまま、座布団の上で、横に倒れて、眠っていた。

毛布の上に、地味なコートが、かけてあった。


***


その横に、『レディー』が、座っていた。

化粧のない顔で、庭の柚子の木を見ていた。


***


「十二時過ぎに、泣き止んで」

『レディー』は、小さな声で言った。

「それから、ずっと、北を向いてた。三時くらいに、倒れるみたいに寝たわ」


***


「……ありがとうございました」

「貸しよ」

『レディー』は、立ち上がって、伸びをした。

「あんたに、つけてある。もう、数えるのも面倒なくらい」


***


由紀の肩に、手を置いた。


***


「由紀」


***


由紀が、目を開けた。

ぼんやりと、俺を見た。

それから、目が、大きくなった。


***


「……おかえり」

「ただいま」


***


由紀は、起き上がろうとして、よろけた。

十時間、冬の縁側に座っていた足だった。


***


「共さんは」

「無事だ。赤城さんが、病院に連れてった」

「……よかった」


***


由紀は、それから、少しだけ、顔をしかめた。


***


「ゆず湯、冷めた」


***


「沸かし直せ」

「それ、あたしの台詞」

「俺の台詞だ」


***


風呂場の湯船は、黄色かった。


***


柚子が、ぎっしり浮いていた。

湯は、本当に、見えなかった。


***


追い焚きのボタンを押して、しばらく待った。

湯気と一緒に、柚子の匂いが、風呂場いっぱいに広がった。


***


肩まで、浸かった。


***


熱かった。

冷え切った体の、指の先から、じんじんと感覚が戻ってきた。


***


柚子が、顔の前で、ぷかぷか揺れていた。

じいちゃんの、ゆず湯だった。


***


来年は、健司を、庭に呼ぶか。


***


来年は、なかった。

今年、俺は、庭じゃなくて、山にいた。

庭には、由紀がいた。


***


じいちゃん。

今年も、異状なしだった。

一個だけ、逃がしたけど。


***


「……健司」


***


湯船の縁に、メレオスが、しゃがんでいた。


***


「……何してる」

「神も、入る」

「狭い」

「柚子が多すぎるんじゃ」


***


メレオスは、服のまま、湯船に足を入れた。

それから、柚子をかき分けて、肩まで浸かった。

湯は、あふれなかった。

神様は、湯を押しのけないらしかった。


***


「……ええ湯じゃのぉ」


***


しばらく、二人で、黙って浸かっていた。


***


「伊左衛門も、毎年、こうしとった」

メレオスが、柚子を一つ、指でつついた。

「庭から戻って、冷えた体で、この湯に浸かって。何も言わずに」


***


「……お前も、入ってたのか。じいちゃんと」

「背中におったからのぉ」


***


柚子が、ぷかりと、メレオスの頭に乗った。

メレオスは、それを、どけなかった。


***


その日の午後。

警察病院の、個室だった。


***


共さんは、ベッドの上で、上半身を起こしていた。

窓の外の、冬の空を見ていた。


***


顔は、四十前のままだった。

病院の検査では、どこにも、異常はなかったらしい。

医者は、年齢の欄に、何を書けばいいのか分からない、という顔をしていたそうだ。


***


赤城が、ベッドの横の椅子に座っていた。

俺と由紀は、その後ろに立っていた。

メレオスは、由紀の肩に、しがみついていた。


***


赤城が、鞄から、古い綴りを一冊、取り出した。


***


表紙に、判子が一つだけ押された、中身のない綴り。

大臣の権限で開けさせた、共さんの記録。

中は、空っぽだった。


***


赤城は、万年筆のキャップを外した。

表紙の、判子の横の、空いた欄に、ゆっくりと、字を書いた。


***


几帳面な字だった。

一画ずつ、丁寧に。


***


書き終えて、赤城は、綴りを、共さんの前に差し出した。


***


『久我 共』


***


「名前は、本人に、返したいと、ずっと思っていました」

赤城は、言った。

丁寧な声だった。

少しだけ、揺れていた。


***


「久我さん。……お返しします」


***


共さんは、綴りを、両手で受け取った。

長いこと、自分の名前を見ていた。


***


「……くが、とも」


***


共さんが、小さく、声に出して読んだ。

確かめるみたいに。

一音ずつ。


***


「自分の名前を、自分の口で言うのは……いつ以来か、分かりません」


***


「伊左衛門先生は」

赤城が、言った。

「最後まで、あなたの名前を、口にしませんでした。……手帳に書いて、気で閉じていました」


***


共さんは、綴りから、顔を上げた。


***


「……山に入る前に」

しばらくして、共さんは言った。

「伊左衛門さんの手帳の端に、名前を書いたんです。一字だけ」


***


じいちゃんの手帳の、地名の脇の、几帳面な「共」の字。

メレオスが最初に見つけて、誰の字だと声を震わせた、あの一文字。


***


「忘れないでください、と言って」


***


息が、止まった。


***


忘れんように、じゃ。

じいちゃんは、毎年、冬至の夜に、そう言って庭に出た。


***


由紀の肩の上で、メレオスが、小さく鼻をすすった。


***


赤城は、何も言わなかった。

膝の上で、手を組んでいた。

その手に、少しだけ、力が入っていた。


***


「……戸籍は、戻します」

しばらくして、赤城は言った。

「時間は、かかりますが。必ず」


***


由紀の肩の上で、メレオスが、身を乗り出した。


***


「待て。わしより先に、身分ができるのか」

「かみさまは、一生無理でしょ」

「なにっ」


***


共さんが、メレオスを見た。

それから、小さく、吹き出した。


***


五十年ぶりに笑った人の、ぎこちない笑い方だった。


***


由紀が、一歩、前に出た。


***


手に、紙袋を持っていた。

中身は、羊羹だった。

病院に来る前に、駅前の和菓子屋で買ってきたものだった。


***


「……あの」

由紀は、共さんを見た。

「はじめまして、じゃないですよね。店と、戸の中で、二回、会ってるから」


***


「……はい」

共さんは、ベッドの上で、姿勢を正した。

道場で、稽古を受ける前の座り方だった。

「守って、くださって。ありがとう、ございました」


***


「守ってません」

由紀は、首を振った。

「閉めなかっただけです。……助けたいって、言ったから」


***


共さんは、何も言えずに、由紀を見ていた。

由紀は、紙袋を、ベッドの横の台に置いた。


***


「羊羹です。おいしいやつ」


***


それから、由紀は、くるりと振り返った。

赤城のほうに。


***


「赤城さん」

「何かな」

「羊羹、おいしかったですか」


***


冬至が終わったら、二回目を聞きます。

由紀は、0課の会議室で、そう言っていた。


***


赤城は、少しだけ、由紀を見た。

それから、答えた。


***


「うまかった」


***


「あたしも、です」


***


由紀は、満足そうに、メレオスを見た。


***


「これで、かみさまと、同点」

「……ぬう」


***


赤城の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。

鼻血の行を見たときと、同じ顔だった。

共さんが、それを見て、また少しだけ、笑った。


***


その日の夕方。

両親が、温泉から帰ってきた。


***


父さんは、上機嫌だった。

温泉まんじゅうを、三箱買ってきていた。


***


母さんは、玄関で、靴を脱ぐ前に、俺と由紀の顔を、順番に見た。


***


由紀の目が、まだ少し、赤かった。

俺の手には、山で擦りむいた傷があった。


***


「……で」

母さんは言った。

「何を、隠してたの」


***


由紀が、一歩、前に出た。


***


「ゆず湯、浮かべすぎた」


***


父さんが、廊下の奥から、声を上げた。

「ほら見ろ。お祖父ちゃんと、同じことをする」


***


母さんは、しばらく、由紀を見ていた。

それから、俺を見た。


***


「……まあ、いいわ」

母さんは、靴を脱いだ。

「いつか、ちゃんと、聞くから」


***


その夜。

アパートに帰ると、赤城から、グループではなく、俺に直接、電話があった。


***


「健司くん」

「はい」

「一つ、伝えておく」


***


赤城の声は、いつもどおり、丁寧だった。

丁寧すぎた。


***


「今朝、俺のスマホに、写真が一枚、届いた。知らない番号からだ」


***


「……写真」


***


「羊羹だった」


***


息が、止まった。


***


「文字は、なかった」

赤城は、静かに言った。

「神様からではない。神様の番号は、登録してある」


***


「羊羹の写真を送り合っていることを、知っている誰か、ということだ」


***


電話の向こうで、赤城が、少しだけ黙った。


***


「……俺の、すぐ近くにいる誰かだ」


***


窓の外は、もう、暗かった。

冬至を過ぎて、夜は、昨日より、ほんの少しだけ短くなっていた。


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