第六十二章 閉める前に
気が、共さんの中に、入っていった。
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一筋だけ。
こけしの日と、同じ細さで。
胸の真ん中から、下へ。足の先まで下りて、そこから、ゆっくり上へ。
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冷たかった。
体の中が、どこまでも冷たかった。
五十年分の冬が、骨の中に溜まっているみたいだった。
***
その冷たさの奥に、何かが、いた。
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気の筋が、それに触れた瞬間、共さんの体が跳ねた。
***
「……っ」
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共さんは、声を噛み殺した。
膝の上の両手を、握りしめていた。
背筋は、伸ばしたままだった。
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「痛いなあ」
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同じ口から、違う声が出た。
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子供みたいな声だった。
首が、少しだけ傾いた。
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「出ていかないよ。ここ、五十年、住んでるんだから」
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共さんの首が、まっすぐに戻った。
疲れた大人の目が、俺を見た。
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「……構わず」
かすれた声だった。
「続けて、ください」
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気を、上へ流した。
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足の先から、膝へ。
腰へ。
押すんじゃない。
下から水を満たしていくみたいに、居場所を、埋めていく。
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それが、上へ、逃げていった。
***
「出てきます」
『ホラー』が言った。
声が、震えていた。
「背中から。……首の、後ろから」
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俺には、見えなかった。
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見えなかったけど、分かった。
共さんの首の後ろのあたりで、空気が、歪んでいた。
夏の道路の、陽炎みたいに。
それが、ゆっくりと、共さんの体から、にじみ出ていた。
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窪みの底の暗さが、それを、呼んだ。
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開いた戸の向こうから、吸い込む力が来た。
風じゃなかった。
底が、息を吸っているみたいだった。
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にじみ出たものが、そっちへ、引っ張られた。
***
「……いい」
メレオスが、俺の隣で、低く言った。
「そのままじゃ。戸の口へ、流し込め」
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気を、流し続けた。
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体の中で、由紀の息が、重かった。
戸を押し返しながら、檻を半分持ちながら。
庭の冷たい板の上で、歯を食いしばっている。
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にじみ出たものが、止まった。
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半分、出たところで。
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「……止まりました」
『ホラー』が言った。
「まだ、繋がってます。細いのが、何本も」
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「何本も?」
「根、みたいなのが」
『ホラー』は、共さんの胸のあたりを、じっと見ていた。
「共さんの中に、根を張ってます。……五十年分の」
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共さんの体の中に、気を流していた指先が、それを感じた。
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細い糸が、何百本も。
冷たいものと、冷たくないものが、絡まり合っていた。
どこまでがあれで、どこからが共さんなのか。
俺には、分からなかった。
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「ねえ」
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にじみ出たものが、喋った。
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口じゃなかった。
共さんの首の後ろの、陽炎のあたりから、声がした。
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「このまま閉めたら、どうなると思う」
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楽しそうな声だった。
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「根っこごと、持っていくよ。こっちが、底に落ちるなら」
陽炎が、揺れた。
「この人も、一緒に」
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息が、止まった。
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「伊左衛門は、撃てなかった」
声は、歌うみたいだった。
「きみは、閉められる?」
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同じ時。
小沢家の縁側で、由紀は、戸を見ていた。
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目は、閉じていた。
閉じたまま、見ていた。
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北の、ずっと遠くに、戸があった。
重くて、冷たくて、古い戸だった。
五時間前から、ずっと、それを押さえていた。
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その戸の隙間から、何かが、入ってこようとしていた。
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違う。
入ってくるんじゃない。
兄が、押し込んでいる。
向こうの暗がりへ、何かを、押し込もうとしている。
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閉めるのは、今だ。
由紀は、それが分かった。
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手のひらに、力を込めかけた。
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戸を閉めるのは、簡単じゃ。
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蔵の前で、かみさまが言った。
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閉める前に、中を見るのが、難しい。
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由紀は、手を止めた。
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息を、吸った。
吐いた。
縁側の朝みたいに。
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戸の、中を、見た。
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冷たいものが、いた。
大きくて、暗くて、笑っていた。
子供みたいに、笑っていた。
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その冷たいものに、絡まるようにして。
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もう一人、いた。
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疲れた人だった。
静かな人だった。
何十年も、どこか遠くから、ずっと何かを見ていた人の気配だった。
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店に来た人だった。
あのとき、同じ匂いがする、と言った人だった。
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「……あなたが」
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戸の中の、静かな人が、由紀のほうを向いた気がした。
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声がした。
耳じゃないところに、届いた。
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「……伊左衛門さんの、お孫さん、ですね」
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丁寧な声だった。
かすれていた。
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「店で、怖がらせて、すみませんでした」
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由紀は、首を振った。
目を閉じたまま。
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「閉めてください」
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静かな人は、言った。
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「構わず。……一緒で、いいので」
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由紀の息が、揺れた。
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構わず、撃ってください。
兄から聞いた、五十年前の言葉だった。
この人は、五十年前と、同じことを言っていた。
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「あのとき」
静かな人の声が、続いた。
「伊左衛門さんに、言えなかったことが、あるんです。途中で、声が、届かなくなって」
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「伊左衛門さんの、家族を」
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「守ってください、と」
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声が、少しだけ、笑った。
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「伊左衛門さんには、家族が、いたので。これに、入られたら、次は、そっちに行くと思ったので。だから、構わず、撃ってください、と」
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「今度は、ちゃんと、言えました」
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「だから、閉めてください。あなたの家族を、守るために」
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由紀の頬を、何かが伝った。
冷たい夜気の中で、それだけが、温かかった。
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縁側の横で、『レディー』が、由紀の顔を見た。
何も言わなかった。
ただ、一歩だけ、近くに立った。
***
おじいちゃんは、撃てなかった。
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撃てなかったから、そのあと五十五年、毎年、庭に出た。
一回も休まずに、北を向いて、戸を閉め続けた。
撃てなかったことを、なかったことにしないで。
由紀は、それで、よかったんだと思った。
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「……やだ」
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由紀は、言った。
目を閉じたまま。
涙を流したまま。
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「あなたごとは、閉めない」
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「あたし、言ったの。お兄ちゃんに。あなたのこと、助けたいって」
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静かな人は、何も言わなかった。
***
由紀は、戸に、手を当てた。
***
閉め始めた。
上から。
右から。
左から。
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ゆっくりと。
戸の中の、冷たいものと静かな人が、絡まっている場所を、感じながら。
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静かな人が、いる場所だけ。
一人ぶんの形だけ。
閉めずに、残した。
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山の上で、それを、感じた。
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戸が、閉まっていく。
由紀の息と一緒に、戸が、四方から、閉じていく。
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一か所だけを、残して。
***
人の形をした、隙間だった。
***
「……由紀」
声が、出た。
届くはずもないのに。
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気を流していた指先で、分かった。
絡まっていた糸が、ほどけはじめていた。
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戸が閉じていく力に押されて、冷たい糸が、底へ引かれていく。
残された隙間の形に沿って、冷たくない糸だけが、こっちへ戻ってくる。
***
共さんの体の中に。
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「……あ」
陽炎の声が、初めて、焦った。
***
「待って。そっちは、こっちの――」
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最後の糸が、ほどけた。
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共さんの体が、檻の中で、崩れた。
膝の上の両手が、ほどけて、落ちた。
***
陽炎が、共さんから、完全に離れた。
***
戸が、それを吸い込もうとした。
***
陽炎は、吸い込まれなかった。
***
戸の、閉じかけた口の前で、陽炎は、くるりと向きを変えた。
残された隙間。
人の形をした、閉じていない場所。
そこを、すり抜けた。
***
戸の外へ。
***
「逃げます!」
『ホラー』が、叫んだ。
初めて聞く、大きな声だった。
「上に! 窪みの、縁に――」
***
陽炎は、まず、俺の腕に取りついた。
檻の隙間から差し入れていた、右腕に。
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冷たいものが、腕を這い上がってきた。
***
弾かれた。
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肩のあたりで、見えない何かにぶつかって、陽炎は、跳ね返った。
***
「……入れない」
陽炎の声が、笑った。
「伊左衛門と、同じだ。つまんないなあ」
***
陽炎は、宙で、ぐるりと回った。
***
赤城がいた。
『ジョン』がいた。
斜面には、縛られた二十六人がいた。
***
戸締まりのない体が、いくらでもあった。
***
陽炎は、そのどれにも、行かなかった。
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窪みの縁に立っていた、白い仮面の男のほうへ、まっすぐ飛んだ。
***
仮面の男は、逃げなかった。
***
逃げずに、両腕を、少しだけ広げた。
迎え入れるみたいに。
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陽炎が、仮面の男の胸に、吸い込まれた。
***
仮面の男の体が、びくりと震えた。
一度。
二度。
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それから、止まった。
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首が、ゆっくりと、傾いた。
***
「……うん」
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仮面の下から、声がした。
***
さっきまでの、低い、よく通る声だった。
命令することに慣れた声だった。
それなのに、喋り方だけが、子供だった。
***
「いい体だね。偉い人の、体だ」
***
『ジョン』が、飛びかかった。
***
仮面の男の手が、軽く、『ジョン』の胸に触れた。
それだけで、『ジョン』の大きな体が、斜面を転がり落ちた。
***
仮面の男は、自分の顔に、手を当てた。
白い仮面を、指で、こつんと叩いた。
***
「これは、このままでいいや」
楽しそうだった。
「顔、隠しといたほうが、面白いから」
***
それから、窪みの底を、見下ろした。
閉じた戸を。
檻の中で崩れている、共さんを。
俺を。
***
最後に、南の空を見た。
***
「伊左衛門の家族は、ほんとに、うるさいね」
***
仮面の男は、首を傾げたまま、笑った。
***
「また、遊ぼう」
***
姿が、ふっと、消えた。
***
今度は、どこにも、戻ってこなかった。
***
戸が、閉じた。
***
人の形の隙間まで、全部。
由紀の息が、最後の一枚を、そっと下ろした。
***
窪みの底の暗さが、ただの夜に戻った。
影の輪が、ほどけて、消えた。
山の音が、戻ってきた。
風の音。
木の軋み。
遠くで、鳥が一羽、鳴いた。
***
気を、止めた。
***
檻が、ただの土に戻って、崩れた。
***
赤城が、窪みの底に、膝をついていた。
崩れた土の中から、共さんの体を、抱き起こしていた。
***
「……共さん」
***
共さんの目は、閉じていた。
胸が、上下していた。
顔は、四十前の、そのままだった。
一晩で五十年分の年を取る、なんてことは、起きなかった。
***
「抜けた」
メレオスが、共さんの額に、小さな手を当てた。
「……全部、抜けとる。根の一本も、残っとらん」
***
「中、一人だけです」
『ホラー』が、髪の隙間から、共さんを見ていた。
「共さんだけです」
***
斜面の下から、『ジョン』が、胸を押さえて上がってきた。
「……逃がしたか」
「逃がしました」
俺は言った。
「逃がしたけど、……取り返しました」
***
同じ時。
小沢家の縁側で、由紀が、目を開けた。
***
北の空は、真っ暗だった。
夜明けは、まだ、ずっと先だった。
***
体が、冷え切っていた。
手のひらだけが、熱かった。
***
「……閉めました」
由紀は、隣に立つ『レディー』に言った。
声が、震えていた。
「でも、一個だけ、閉めなかった。……わざと」
***
『レディー』は、少しのあいだ、由紀を見ていた。
化粧のない顔で。
***
「ふーん」
***
いつもの「ふーん」とは、少し、音が違った。
***
『レディー』は、自分のコートを脱いで、由紀の毛布の上から、かけた。
***
「選んだのね」
『レディー』は言った。
「自分で」
***
由紀は、頷いた。
それから、声を上げて、泣いた。
***
山の上で、共さんの目が、ゆっくり開いた。
***
赤城の腕の中で。
焦点の合わない目で、冬の夜空を見上げていた。
しばらく、そうしていた。
***
唇が、動いた。
***
「……静か、ですね」
***
五十年ぶりに、一人きりになった人の声だった。




