第六十一章 檻と、庭
最初に動いたのは、黒い服の集団だった。
***
武器は、持っていなかった。
構えも、しなかった。
全員が、同じ速さで、斜面を下りはじめた。
***
窪みに、向かって。
***
「……来ますか」
『ジョン』が、身を低くした。
***
「違います」
『ホラー』の声が、硬くなった。
「こっちに来るんじゃない。窪みに、入ろうとしてます」
***
窪みの底で、影が、ゆらりと持ち上がった。
輪になって回りはじめた。
メレオスが座っていた日と、同じ回り方だった。
***
生贄。
埼玉の山で、『ジョン』が言っていた言葉が、頭に浮かんだ。
アメリカの扉は、三回とも、開きかけて閉じた。
***
この人たちは、生贄になりに来たんだ。
***
「操られてるんですか」
「いいえ」
『ホラー』は、首を振った。
「中には、何も入ってません。……自分で、決めて、歩いてます」
***
それが、一番、怖かった。
***
「健司くん」
赤城の声は、静かだった。
「一人も、死なせるな」
***
「……あの人たちも、ですか」
「あの人たちも、だ」
***
しゃがんで、地面に、手のひらを当てた。
***
体の中で、由紀の息が回っていた。
吸う。吐く。
重い水が、下り坂を流れていく。
***
土を、呼んだ。
***
窪地の斜面の土が、先頭の男の足首を、そっと掴んだ。
次の一人。
その次の一人。
***
二十六人。
全員の足が、窪みの縁の、三歩手前で止まった。
***
誰も、叫ばなかった。
誰も、もがかなかった。
止められた場所に、ただ、立っていた。
***
「……一気に、全部か」
『ジョン』が、小さく言った。
***
「一人ぶんを、二十六回やっただけです」
***
『ジョン』は、黙ってザックを開けた。
中から、結束バンドの束が出てきた。
***
「……それも、入れてたのか」
「言わなかっただけだ」
***
『ジョン』と赤城と『ホラー』が、手分けして、二十六人の手首を縛っていった。
抵抗する者は、一人もいなかった。
***
窪みの縁で、男が、それを見ていた。
膝を抱えたまま。
首を、傾げたまま。
***
「ふうん」
男が言った。
「そっちも、止めるんだ。そっちは、敵なのに」
***
「……敵でも、止める」
「どうして」
「死なせないって、決めてるからだ」
***
男は、少しだけ、俺を見ていた。
それから、つまらなそうに、窪みの底に目を戻した。
***
離れたところで、白い仮面の男が、初めて口を開いた。
***
「予定と、違う」
***
低い、よく通る声だった。
命令することに慣れた声だった。
***
「予定は、きみたちのでしょう」
窪みの縁の男は、振り返りもせずに言った。
「こっちのじゃない」
***
仮面の男は、それきり、何も言わなかった。
***
「じゃあ、待とうか」
***
男は、窪みの縁に、座り直した。
***
「一番、暗くなるまで。戸が、一番、ゆるむまで」
男は、南の空を見た。
「それまで、あっちの戸締まりが、もつかどうか」
***
あっちの戸締まり。
由紀のことだった。
***
それから、長い時間が過ぎた。
***
『ジョン』が、窪地の縁に、小さな照明を二つ置いた。
加藤さんの役割表どおりに、一時間ごとに、無線で0課に状況を送った。
課長の声が、そのたびに、「うん、うん」と返ってきた。
***
寒かった。
カイロを、四つ使った。
***
縛られた二十六人は、斜面に座らされたまま、誰も喋らなかった。
仮面の男は、一度も、座らなかった。
***
窪みの縁の男だけが、ときどき、話しかけてきた。
***
「伊左衛門はね」
九時を過ぎた頃だった。
男は、窪みの底を眺めながら、世間話みたいに言った。
***
「毎年、閉めに来たんだ。この夜に。庭から」
***
メレオスが、俺の袖を、ぎゅっと握った。
***
「うるさかったなあ。五十何回。一回も、休まなかった」
男は、楽しそうだった。
「今年は、静かだと思ったのに」
***
「……思ったのに?」
***
「もっと、うるさいのが、来た」
***
男は、南の空に向かって、首を傾げた。
***
「あの子、寒いだろうね」
***
答えなかった。
答えたら、何かが崩れる気がした。
***
体の中で、由紀の息は、まだ回っていた。
少しだけ、浅くなっていた。
***
十二月の縁側で、五時間。
***
同じ夜。
同じ頃。
***
小沢家の門の前に、男が一人、立っていた。
***
スーツの若い男だった。
二十代の後半くらい。
会社帰りの顔をしていた。
***
その後ろに、黒い服が、八人。
***
門の内側で、段ボールに腰かけていた宅配便の制服が、ゆっくり立ち上がった。
***
「お届け物は、ありません」
***
『レスラー』は、門を開けなかった。
門を、跨いだ。
大きな体が、門灯の下に出た。
***
「こんばんは」
若い男は、丁寧に頭を下げた。
「ゆず湯の、お邪魔に来ました」
***
「帰れ」
「帰れません。仕事なので」
***
黒い服が、三人、同時に来た。
***
『レスラー』は、一人目の腕を取って、投げた。
二人目を、肩で受け止めて、塀に押しつけた。
三人目の首に、太い腕を回した。
***
五秒で、三人が、地面に寝ていた。
***
「……宅配業者じゃ、ないですよね」
若い男が、感心したように言った。
「知ってます。岩尾さん、でしたっけ」
***
『レスラー』の眉が、動いた。
***
その隙に、残りの黒い服が、左右の塀に散った。
塀を、越えようとした。
***
右の塀の上で、一人が、声もなく落ちた。
左の塀の上で、もう一人が。
***
塀の内側の暗がりに、地味なコートの女が立っていた。
***
化粧のない顔だった。
表情も、なかった。
***
『レディー』は、落ちてきた男の手首を、踏んだ。
折らなかった。
折れる手前で、止めた。
***
「一人も、死なせるな」
誰に言うでもなく、『レディー』は言った。
「……面倒な上司を持ったわね、お互い」
***
縁側では、由紀が、座っていた。
***
北を向いて。
毛布を肩からかけて。
目を、閉じて。
***
門の外の音は、聞こえていた。
塀の上の音も。
何かが落ちる音も。
***
止めなかった。
吸って。
吐いた。
***
庭の土を踏む音が、近づいてきた。
***
柚子の木の横を、誰かが通った。
縁側の、三歩手前で、足音が止まった。
***
「こんばんは」
***
若い男の声だった。
店で聞いたのと、同じ声だった。
***
由紀は、目を開けなかった。
***
「寒いでしょう。もう、五時間ですよ」
男の声は、優しかった。
「お兄さんは、戻ってきませんよ。あの山から、戻った人は、ほとんどいないんです」
***
吸って。
吐いた。
***
少しだけ、震えた。
***
遠い山の上で、兄の中の息が、一つ、途切れかけた。
***
「それに」
男は、一歩、近づいた。
***
「ゆず湯が、冷めますよ」
***
由紀の肩が、跳ねた。
***
ゆず湯が、冷めるぞ。
何を忘れんようにするのかと聞いたとき、祖父は、そう言ってはぐらかした。
***
由紀は、目を閉じたまま、言った。
***
「冷めたら、沸かし直すから」
***
兄が、門の前で言った言葉だった。
***
息が、戻った。
さっきより、深く。
***
男が、手を伸ばした。
由紀の肩に。
触れれば、止まる。
そう知っている手つきだった。
***
その手首を、後ろから、細い指が掴んだ。
***
「その子に、触らないで」
***
『レディー』だった。
いつ、そこに立ったのか、男にも分からなかったらしい。
***
男は、振り返った。
化粧のない顔を見た。
少しだけ、目を細めた。
***
「……九条さん」
***
『レディー』の指に、力が入った。
***
「素顔だと、分かりませんでした。資料の写真は、いつもの顔だったので」
***
次の瞬間、男は、庭の土の上に、うつ伏せになっていた。
腕が、背中で極まっていた。
『レディー』の膝が、その上に乗っていた。
***
「資料」
『レディー』が、静かに言った。
「どこの資料」
***
男は、答えなかった。
土に頬をつけたまま、少しだけ、笑った。
***
「……いい匂いですね。柚子の」
***
門のほうから、『レスラー』が歩いてきた。
両肩に、黒い服を一人ずつ担いでいた。
***
「八人。全員、寝てる。生きてる」
「こっちも」
「そいつは」
「生きてる。……喋らないけど」
***
『レディー』は、男の手首を結束バンドで縛ると、立ち上がった。
それから、縁側の横に行って、由紀と同じ方向を向いて立った。
北を。
***
由紀は、ずっと、目を閉じたままだった。
息は、途切れていなかった。
***
「……ありがとう、ございます」
目を閉じたまま、由紀が、小さく言った。
***
「貸しよ」
『レディー』は、前を向いたまま言った。
「お兄さんに、つけとくわ」
***
山の上で、途切れかけた息が、戻ってきた。
***
さっきより、深く。
さっきより、強く。
***
「……戻りました」
『ホラー』が、南の空を見て言った。
「一回、揺れましたけど。今、前より、はっきりしてます」
***
窪みの縁の男が、つまらなそうに、鼻を鳴らした。
***
「……しぶといなあ。伊左衛門と、同じだ」
***
十時過ぎ。
『ジョン』のスマホが、ポケットの中で震えた。
***
無線じゃなかった。
私用のほうだった。
***
『ジョン』は、画面を見た。
顔が、少しだけ変わった。
本国の番号だ、ということだけは、分かった。
***
『ジョン』は、電話に出なかった。
スマホを、ポケットに戻した。
***
「……あとだ」
自分に言い聞かせるように、言った。
「今は、こっちだ」
***
十一時半。
***
窪みの縁の男が、立ち上がった。
***
「そろそろ、だね」
***
山が、静かになった。
風が止まった。
虫の声も、木の軋みも、全部。
***
一年で一番長い夜の、一番暗い時間だった。
***
男は、窪みの底へ、下りていった。
一歩ずつ。
遊び場に入っていく子供みたいに。
***
影が、男の周りに集まった。
輪になった。
回りはじめた。
さっきより、ずっと速く。
***
窪みの底が、暗くなった。
***
夜の暗さじゃなかった。
底が、抜けていくような暗さだった。
その向こうに、何かが、あった。
***
「……開きよる」
メレオスの声が、かすれた。
「戸が、開きはじめとる」
***
体の中で、由紀の息が、急に重くなった。
***
押されていた。
山の向こうから。
開こうとする戸を、庭から、由紀が一人で押し返していた。
***
吸う。
吐く。
歯を、食いしばっている息だった。
***
「健司くん」
赤城が、言った。
もう、登山靴に泥がついていた。
「準備は、できているな」
***
「……はい」
***
待っている間に、仕込んでおいた。
窪みの底の土の下に、格子の根を。
課長の手帳の数字どおりの、本数と、太さで。
***
罠は、先に仕掛けておくものだ。
それを言ったのは、赤城だった。
九時を過ぎた頃、男が伊左衛門の話をしていた、そのすぐあとに。
***
ただ、男は、根の真上には立っていなかった。
三歩、ずれていた。
***
赤城が、窪みの縁から、飛び降りた。
***
止める間も、なかった。
新品の登山靴が、影の輪の中に、踏み込んだ。
***
影が、赤城に群がった。
コートの袖が、見えない何かに裂かれた。
赤城は、見えていないはずの影の中を、止まらずに、まっすぐ歩いた。
***
男が、振り返った。
首を、傾げた。
***
「伊左衛門の、弟子」
***
「……共さん」
赤城は、男の手首を取った。
丁寧に。
道場で、師匠に稽古をつけてもらうときみたいに。
***
「失礼します」
***
男の体が、宙で、きれいに一回転した。
***
伊左衛門の、合気道だった。
師匠の技で、師匠の弟弟子を、投げていた。
***
男の背中が、窪みの底に落ちた。
三歩ずれた、根の、真上に。
***
「健司くん!」
***
気を、流した。
***
土の下から、格子が、立ち上がった。
八本。十六本。三十二本。
男を囲んで、窪みの底に、檻が立った。
***
格子の表面を、気が走った。
一人ぶんじゃなかった。
俺の気と、その内側に重なる、もう一つの呼吸。
***
二人ぶんの、檻だった。
***
男が、格子を掴んだ。
***
「……へえ」
***
格子が、鳴った。
倉庫の夜と、同じ音だった。
でも、倉庫の夜ほど、腕に来なかった。
***
半分だった。
重さが、半分になっていた。
***
庭で、由紀が、戸を押し返しながら、同じ重さを、半分、持っていた。
***
「二人で、持ってるんだ」
男が、面白そうに言った。
「ずるいなあ」
***
「ずるくない」
俺は、言った。
「家族だ」
***
男は、格子を、両手で揺さぶった。
みしり、と音がした。
一本目に、ひびが入った。
***
「……健司」
メレオスが、俺の隣で言った。
「今じゃ。締めい。檻で、締めつけい」
***
「中の男が、起きる」
***
格子に流す気を、強くした。
由紀の息が、それに合わせて、深くなった。
庭で、もっと歯を食いしばったのが、分かった。
***
檻が、男を締めつけた。
***
男の手が、格子を掴んだまま、止まった。
***
首が、傾いたまま、動かなくなった。
***
それから、ゆっくりと、まっすぐになった。
***
目が、変わっていた。
***
疲れた、大人の目だった。
***
その目が、まず、自分の手を見た。
格子を掴んでいる、自分の手を。
それから、檻の外を見た。
***
赤城を、見た。
***
知らない顔を見る目だった。
当然だった。
赤城が入門したのは、この人がいなくなったあとだ。
***
「……どなた、ですか」
***
かすれた、丁寧な声だった。
***
赤城は、檻の前に、膝をついた。
道場で、目上の人に挨拶するときの、膝のつき方だった。
***
「伊左衛門先生の、弟子です」
赤城の声が、少しだけ、揺れた。
「赤城と、申します。……あなたが、いなくなったあとの」
***
共さんは、しばらく、赤城を見ていた。
***
「……そうですか」
小さく、頷いた。
「伊左衛門さんに、また、弟子が、できたんですね」
***
それから、その目が、俺を見た。
***
倉庫の夜は、俺を、じいちゃんと間違えた。
今夜は、間違えなかった。
***
「……お孫さん、ですね」
共さんは、言った。
「伊左衛門さんの。……目が、そっくりだ」
***
「健司です」
声が、思ったより、ちゃんと出た。
「小沢、健司です」
***
「伊左衛門さんは」
***
一番、聞かれたくない質問だった。
一番、答えなければいけない質問だった。
***
「今年、亡くなりました」
***
共さんは、目を閉じた。
***
長い、長い、沈黙だった。
***
窪みの底の暗さが、檻の外で、じわじわと広がっていた。
影の輪が、速くなっていた。
庭の由紀の息が、また、重くなった。
***
時間が、なかった。
***
「共さん」
俺は、檻の格子に、手をかけた。
「今から、あなたの中のものを、引きはがします」
***
共さんが、目を開けた。
***
「引きはがして、あの底に、閉じ込めます」
窪みの底の暗さを、目で示した。
「戸を閉めるのは、妹です。今、実家の庭で、じいちゃんの代わりに、北を向いてます」
***
共さんの目が、大きくなった。
***
「……伊左衛門さんの、家族が」
声が、震えていた。
「二人とも、ここに、いるんですか」
***
「います」
***
共さんは、何かを言いかけた。
唇が、動いた。
言葉には、ならなかった。
***
代わりに、共さんは、格子から手を離した。
両手を、膝の上に置いた。
背筋を、伸ばした。
***
道場で、稽古を受ける前の座り方だった。
***
「……お願い、します」
***
右腕を、格子の隙間から、差し入れた。
共さんの胸の真ん中に、手のひらを当てた。
***
冷たかった。
五十年分の冬みたいに、冷たかった。
***
「……少し、痛いかもしれません」
「構いません」
共さんは、少しだけ、笑った。
「五十年、ずっと、痛かったので」
***
息を、吸った。
***
遠い庭で、由紀が、同じ息を吸った。
***
押すな。
流せ。
***
気を、一筋だけ、流し込んだ。
***
窪みの底で、暗さが、口を開けた。




