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第六十章 一番長い夜

冬至の朝は、よく晴れていた。


***


「健ちゃん、本当に大丈夫? 仕事、休めないの」

玄関で、母さんが、三回目の同じことを言った。


***


「大丈夫。夜勤なだけ」

「冬至に夜勤って」

「警察関係だから」


***


いつもの答えだった。

母さんは、いつもの顔で、それ以上は聞かなかった。


***


父さんは、門の前で、車のトランクに旅行鞄を積んでいた。

鼻歌だった。

一等の、金色の玉の効き目は、まだ続いていた。


***


「由紀。ゆず湯、頼んだぞ」

「うん」

「浮かべすぎるなよ」

「分かってるってば」


***


母さんが、助手席の窓を開けた。

由紀を見た。

それから、俺を見た。


***


「……あんたたち、何か、隠してない?」


***


由紀の笑顔が、一瞬だけ、固まった。

俺も、固まった。


***


「まあ、いいわ」

母さんは、窓を閉めかけて、止めた。

「帰ってきたら、聞くから」


***


車が、角を曲がって、見えなくなった。


***


由紀が、大きく息を吐いた。

「……お母さん、絶対、気づいてる」

「何にだ」

「何かに」


***


昼過ぎに、実家の班が来た。


***


最初に来たのは、宅配便の制服を着た『レスラー』だった。

段ボールを一つ、抱えていた。

中身は、救急箱が二つだった。


***


「……その格好は」

「近所の目がある」

『レスラー』は、真顔で言った。

制服が、胸のところで、はち切れそうになっていた。

近所の目は、むしろ集まりそうだった。


***


二十分後に、『レディー』が来た。


***


化粧が、なかった。


***


一瞬、誰だか分からなかった。

地味なコートに、まとめただけの髪。

眉が、思っていたより、ずっと優しい形をしていた。


***


「……本気出せば、地味になれるって、言ったでしょ」

『レディー』は、門の中を見回しながら言った。

「両親は?」

「もう出ました」

「そう。なら、化粧してくればよかった」


***


由紀が、ぽかんとして、『レディー』の顔を見ていた。

それから、小声で俺に言った。


***


「……きれいな人じゃん」

「言うな。たぶん、怒る」

「聞こえてるわよ」


***


『レディー』は、庭と塀と裏口を、十分で全部見て回った。

『レスラー』は、門の内側に、段ボールを積んで座った。

二人とも、柚子の木の前だけは、なぜか避けて歩いた。


***


由紀は、柚子を摘んでいた。


***


庭の柚子の木から、一つずつ。

手の届くところは、全部。

籠が、黄色でいっぱいになった。


***


「……それ、何個浮かべる気だ」

「全部」

「湯が見えなくなるぞ」

「おじいちゃんのゆず湯だもん。見えなくなるくらいが、ちょうどいいの」


***


風呂場に籠を置いて、由紀は、縁側に座布団を一枚だけ敷いた。

北向きの、庭に面したところだった。


***


じいちゃんが、毎年、立っていた場所の前だった。


***


「日が暮れたら、始めるね」

「うん」

「帰ってくるまで、止めないから」

「……寒いぞ」

「知ってる」


***


もう、全部、話したことだった。

何度も、話したことだった。


***


門の前で、由紀が、手を出した。

小指だった。


***


「……それ、この前もやっただろ」

手帳を見つけた、蔵の片付けの日。

由紀は、同じ指を出した。


***


「あれは、教えてね、の約束」

由紀は、小指を引っ込めなかった。

「これは、帰ってきてね、の約束」


***


指を、絡めた。

子供の頃と、同じ強さだった。


***


「ゆず湯、冷めるまでに」

「冷めたら、沸かし直せ」

「ずるい」


***


午後三時。

隠り山の、錆びたゲートの前に、車が三台並んでいた。


***


赤城は、登山靴だった。

あの写真の、新品の登山靴。

まだ、泥が一つもついていなかった。


***


俺も、登山靴だった。

『ホラー』も、登山靴だった。

二人とも、加藤さんの役割表の、持ち物の欄に、太字で書いてあった。


***


赤城が、俺たちの足元を見た。


***


「……学んだな」

「学びました」

「よろしい」


***


『ジョン』は、黒い防寒着に、背中に大きなザックを背負っていた。

中身は、聞かなかった。

拳銃が効かない相手だということは、本人が一番よく知っている。


***


「照明と、無線と、カイロだ」

『ジョン』のほうから、言った。

「今夜は、長いからな」


***


ゲートの脇に、作業服の老人が立っていた。


***


老人は、俺の顔を見た。

赤城を見た。

それから、しばらく、俺の足元のあたりを見ていた。


***


俺の足元には、メレオスが立っていた。

今日は、姿を隠していなかった。

0課の全員と、赤城に見える形で。

それ以外の誰にも、見えないはずの形で。


***


「……三度も来るやつは、初めてじゃ」

老人は、ゲートの鍵を開けた。

「今日は、日が短い。暗うなったら、下りてこい」


***


それから、錆びた鎖を外しながら、ぼそりと言った。


***


「ぼうずも、足元、気いつけてな」


***


メレオスが、ぴくりと顔を上げた。

老人は、もう、背中を向けていた。

車に戻っていく足取りは、前と、何も変わらなかった。


***


「……今、わしに言うたか」

「分からん」

「健司に、ぼうずは、ないじゃろう」

「二十九だからな」


***


聞き直す前に、老人の車は、坂の下に消えていた。


***


山道に、入った。


***


冬の山は、明るかった。

葉の落ちた木の間から、低い日が、横から差し込んでいた。

影が、やけに長かった。


***


『ホラー』が、先頭を歩いていた。

今日は、一度も、方角を迷わなかった。


***


「……いますね」

しばらく登ったところで、『ホラー』が言った。

「前の二回と、違います。潜んでない。……並んでます」

「並んでる?」

「道の両側に。見送ってるみたいに」


***


俺には、何も見えなかった。

木と、落ち葉と、長い影しか。


***


メレオスが、俺の袖を握っていた。

いつもより、少しだけ強く。


***


赤城は、何も言わずに登っていた。

息は、今日も、少しも乱れていなかった。

一度だけ、振り返って、俺の背中のあたりを見た。

メレオスがいるあたりだった。


***


「神様」

赤城が、言った。

「山では、健司くんから、離れないでいただきたい」


***


「……言われんでも、離れん」

メレオスは、袖を握ったまま言った。

「前に一人で来て、叱られたからのぉ」


***


崩れたコンクリートの土台が、見えてきた。


***


そこで、日が、沈みはじめた。


***


四時半。

西の稜線に、太陽の縁が、かかった。

山の中が、急に、青くなった。


***


一年で、一番、夜が長い日の、日没だった。


***


俺は、足を止めた。


***


左から、息の音がした。


***


気のせいじゃなかった。

耳で聞こえたんじゃない。

体の内側の、気の回るところに、もう一つ、呼吸が重なった。


***


吸う。

吐く。

少しだけ、俺より速い。


***


三回目で、揃った。


***


「……始めたな」

メレオスが、北とは逆の、南の空を見た。

実家の方角だった。

「届いとる。縁は、切れとらん」


***


体の中が、軽くなった。

重い水を押していたのが、下り坂になった。

縁側の朝と、同じだった。


***


あいつは、今、縁側にいる。

じいちゃんが立っていた場所の前で、北を向いて、座っている。

十二月の、冷たい板の上で。


***


止めないから、と言っていた。

本当に、止めないんだろう。


***


「行こう」

俺は言った。


***


祠の跡は、窪地の底にあった。


***


前に来たときと、同じ場所だった。

崩れた石の土台と、焦げた跡。

影が輪になって回っていた、あの窪み。


***


違ったのは、そこに、人がいたことだった。


***


窪地の斜面に、黒い服の集団が並んでいた。

二十人。

三十人。

暗くなりかけた中で、全員の手の甲に、同じ線の紋様が見えた。


***


誰も、武器を構えていなかった。

ただ、立っていた。

待っていた。


***


その集団から、少し離れた場所に、一人だけ、違う男がいた。


***


背の高い男だった。

上等なコートを着ていた。

顔に、白い仮面をつけていた。


***


仮面の額に、細い線が何本か、刻まれていた。

紋様と、同じ種類の線だった。

本数は、暗くて数えられなかった。


***


「……あの人」

『ホラー』が、小さく言った。

「中には、何も入ってません。ただの人です」

少しだけ、間があった。

「でも、あそこにいる誰より、怖い顔をしてます。仮面の下で」


***


『ジョン』が、ザックを下ろした。

赤城が、一歩、前に出た。


***


窪みの縁に、男が一人、座っていた。


***


くたびれた上着の、四十くらいの男。

膝を抱えて、窪みの底を、覗き込んでいた。

遊び場の砂場を眺める、子供みたいに。


***


男が、顔を上げた。


***


首を、傾げた。


***


「来たね」


***


子供みたいな目だった。

倉庫の夜と、同じ目だった。


***


「伊左衛門の、孫と」

男は、俺を見た。

「伊左衛門の、弟子と」

赤城を見た。

「逃がした、かみさまと」

俺の袖を握っているメレオスを見た。


***


それから、男は、ゆっくりと、南の空を見た。


***


俺の体の中で、由紀の息が、一瞬だけ、止まった気がした。


***


「それと」


***


男は、嬉しそうに笑った。


***


「もう一人、呼んだんだね。伊左衛門の、家族を」


***


「あっちには、友だちが、行ってるよ」


***


窪地の底から、風が吹き上がった。

風のない夕暮れだった。


***


「今夜はね」

男は、立ち上がった。

膝の土を、丁寧に払った。


***


「ここだけじゃなくて、いろんなところで、開くんだ」


***


「一番、長い夜だから。ゆっくり、遊ぼう」


***


日が、完全に、沈んだ。


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