第五十九章 縁側の朝
五時に、起こされた。
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「お兄ちゃん。起きて」
「……まだ暗い」
「暗いうちにやるんでしょ。おじいちゃん、そうだったじゃん」
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実家の、二階の、俺の部屋だった。
学生の頃のまま、本棚にラノベが詰まっている部屋。
金曜の夜に、「じいちゃんの手帳の件で」と言って、泊まりに来ていた。
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嘘ではなかった。
全部でも、なかった。
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布団の足元で、メレオスが丸くなっていた。
由紀に揺すられて、片目を開けた。
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「……神は、寝ん」
「寝てたでしょ」
「考え事じゃ」
「いびき、かいてたよ」
「神の考え事は、音がするんじゃ」
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十二月の縁側は、冷たかった。
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板の上に、座布団を三枚並べた。
真ん中は、じいちゃんの場所だった。
俺は、その右に座った。
由紀が、左に座った。
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真ん中の座布団に、メレオスが、よじ登った。
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「……そこ、座るのか」
「空けとくのも、寂しかろう」
メレオスは、じいちゃんと同じように、背筋を伸ばして正座した。
見た目は子供なのに、座り方だけは、じいちゃんに似ていた。
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庭の向こうで、空が、少しだけ白くなりかけていた。
柚子の木に、黄色い実が、いくつも下がっていた。
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息を、吸った。
吐いた。
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十何年ぶりに、並んでやる呼吸だった。
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左から、由紀の息の音がした。
最初は、俺より少し速かった。
三回目くらいで、揃った。
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揃った瞬間、何かが変わった。
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体の中を回っている気が、いつもより、軽かった。
重い水を押して回していたのが、急に、下り坂になったみたいだった。
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「……健司」
真ん中から、メレオスが、目を閉じたまま言った。
「今、気づいたか」
「うん」
「わしもじゃ」
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由紀だけが、何も気づいていなかった。
首が、ゆっくり前に傾いていた。
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「由紀」
「……起きてるよ」
「寝てただろ」
「考え事」
「音がしてた」
「わしの言い訳を、使うでない」
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試してみることにした。
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庭の土から、小さな格子を呼んだ。
柚子の木の根元を囲むくらいの、膝の高さの檻。
課長の計算でいうと、倉庫の百に対して、十くらい。
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気を流した。
由紀のスマホで、メレオスが時間を計った。
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一人で流すと、五分で、腕が震えはじめた。
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少し休んでから、もう一度。
今度は、由紀が隣に座って、呼吸をした。
俺の背中に、手のひらを当てていた。
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「当てるだけでいいの?」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺も、初めてだから」
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五分たっても、腕は震えなかった。
七分。
八分。
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十分で、ようやく、指先が痺れはじめた。
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「……倍じゃ」
メレオスが、スマホの画面を見て言った。
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「由紀が、何かしてるのか」
「してないよ。息してるだけ」
「それじゃ」
メレオスが言った。
「息を揃えると、一つの気を、二人で回すことになる。重さが、半分になるんじゃ」
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メレオスは、真ん中の座布団を見た。
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「伊左衛門が、横で寝とるちっこいのを、何も言わずに放っといたのは」
少しだけ、間があった。
「……案外、あやつも、楽じゃったのかもしれんのぉ」
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由紀が、黙って、じいちゃんの座布団を見ていた。
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「離れてても、できるのか」
俺は聞いた。
「山と、この庭で」
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「気は、距離ではない」
メレオスは言った。
「縁じゃ。同じ縁側で、同じ息をした者どうしなら、届く。……たぶんのぉ」
「たぶん、多くない?」
「神にも、初めてのことはある」
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七時。
台所から、味噌汁の匂いがした。
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「健ちゃん、起きてたの。珍しい」
母さんが、台所から顔を出した。
「由紀まで。二人で、縁側で何してたの」
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「……体操」
由紀が言った。
「おじいちゃんの」
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母さんは、少し目を丸くした。
それから、笑った。
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「懐かしいわね。あんたたち、ちっちゃい頃、毎朝やってたもんね。由紀なんか、いっつも途中で寝てて」
「寝てない」
「寝てたわよ。お祖父ちゃんが、そのまま抱っこして、布団に戻してたじゃない」
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由紀の耳が、赤くなった。
それは、覚えていなかったらしい。
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朝ごはんの途中で、父さんが、封筒を持って二階から下りてきた。
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顔が、にやけていた。
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「当たった」
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封筒から出てきたのは、温泉旅館のペア宿泊券だった。
一泊二日。
日付は、冬至の日。
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「商店街の福引でな。一等だ。一等」
父さんは、宿泊券を、俺と由紀の前に、交互に突き出した。
「俺は、昔から、くじ運がいいんだ」
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証券会社の部長の言うことではない気がした。
黙っておいた。
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由紀が、味噌汁を飲んでいた。
飲んだまま、動かなかった。
お椀の陰で、顔を隠していた。
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「……商店街の福引なんて、今年、やってたかしら」
母さんが、首を傾げた。
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由紀の肩が、跳ねた。
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「やってたよ!」
お椀を置いて、由紀が言った。
声が、裏返っていた。
「あたし、見たもん。ガラガラの、あれ。……赤い玉が出てた」
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「一等は、金色の玉だぞ」
父さんが言った。
***
「……金色の玉が出てた」
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俺は、ご飯をかき込んだ。
何も言わないことに、全力を使った。
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母さんは、しばらく、宿泊券を眺めていた。
由紀を見た。
俺を見た。
もう一度、宿泊券を見た。
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「……まあ、温泉だし」
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疑ったまま、行くことにしたらしい。
由紀の言ったとおりだった。
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「でもなあ」
父さんが、急に腕を組んだ。
「冬至は、ゆず湯だろう。うちは、毎年」
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じいちゃんが死んで、今年から、ゆず湯の係は父さんになった。
今年が、父さんの、初めてのゆず湯になるはずだった。
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「あたしが、やっとく」
由紀が言った。
「柚子、ちゃんと浮かべとくから」
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父さんは、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
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「由紀が? 浮かべすぎるなよ。お祖父ちゃんみたいに、湯が見えなくなるぞ」
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由紀は、笑って、頷いた。
うん、と言った声が、少しだけ小さかった。
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父さんは、何も知らない。
母さんも。
冬至の夜に、自分たちの娘が、庭で何をするのかも。
息子が、どこの山にいるのかも。
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それでいい、と思った。
それがいい、と思った。
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昼過ぎ。
両親が買い物に出たあと、蔵の前で、戸締まりの練習をした。
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蔵の戸は、古い木の引き戸だった。
由紀が手のひらを当てて、呼吸をして、気を流す。
戸が、壁と一つになったみたいに、動かなくなる。
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閉めるのは、もう、できた。
三回に二回は、成功した。
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開けるのは、まだ、できなかった。
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「押すな。流せ」
「さっきから、それしか言ってない」
「それしかないんだ」
「また先生ぶってる」
***
すぱん。
俺の頭に、ハリセンが落ちた。
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「……なんで俺なんだ」
「由紀は、叩けん」
メレオスが、真顔で言った。
「兄の不始末じゃ」
「何の不始末だ」
「教え方が、悪い」
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由紀が、声を出して笑った。
笑いながら、もう一度、戸に手を当てた。
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少し休憩しよう、と言って、俺は台所にお茶を取りに行った。
由紀は、蔵の前に残った。
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お盆に湯呑みを三つ載せて戻ると、由紀が、胸を張っていた。
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「閉めた」
「おう」
「一発で。今の、一番きれいにできた」
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「……メレオスは」
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由紀が、きょとんとした。
あたりを見回した。
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蔵の中から、どん、と音がした。
***
どん、どん。
戸が、内側から叩かれていた。
それから、声がした。
***
「出られん!」
***
「出られんぞ、これは! 由紀! 開けい!」
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「……かみさま?」
由紀の顔から、血の気が引いた。
「なんで、中にいるの」
「驚かせようと、思うたんじゃ! 由紀ノートに、載りたかったんじゃ!」
***
「消えればいいじゃん!」
「消えても、中に戻るんじゃ! 檻と、同じじゃ!」
***
由紀が、戸に飛びついた。
両手を当てた。
開かなかった。
***
「開かない、開かない、お兄ちゃん」
***
俺が、代わりに手を当てた。
気を、一筋だけ流した。
戸が、ふっと軽くなった。
***
引き戸を開けると、メレオスが、蔵の床に座り込んでいた。
膝を抱えていた。
暗がりの中で、小さく見えた。
***
「……かみさま」
由紀が、しゃがみこんだ。
「ごめん。ほんとに、ごめん」
***
「……よい」
メレオスは、顔を上げた。
笑っていなかった。
「自分から、入ったんじゃ。由紀は、悪うない」
***
少しだけ、間があった。
***
「ただな。……五十年前を、ちいとばかし、思い出した」
***
由紀は、何も言えなかった。
メレオスが、五十年、閉じ込められていたこと。
由紀は、それを、俺より先に聞いていた。
***
メレオスは、立ち上がって、着物の埃を払った。
それから、由紀の顔を、まっすぐ見た。
***
「覚えておけ、由紀」
***
「戸を閉めるのは、簡単じゃ」
メレオスは、開いたままの蔵の戸を、指で差した。
「閉める前に、中を見るのが、難しい」
***
「中に、誰がおるのか。閉めたら、誰が、出られんようになるのか」
メレオスの声は、静かだった。
「それを感じてから、閉めるんじゃ。……伊左衛門は、それが、できた」
***
由紀は、蔵の戸を見ていた。
長いこと、見ていた。
***
「……うん」
***
その日の夕方まで、由紀は、戸を閉めなかった。
閉める前に、目をつぶって、蔵の中を感じる練習だけを、ずっとやっていた。
***
メレオスが、蔵に入る。
出る。
入って、隅に隠れる。
由紀が、戸の前で、目をつぶる。
***
「……いる。右の、奥」
「当たりじゃ」
***
「……いない」
「当たりじゃ」
***
十回やって、七回、当てた。
***
そのあと、由紀は、蔵の戸を、一回だけ開けることができた。
自分の力で。
三十分、格闘したあとだった。
***
「開いた……!」
「おう」
「お兄ちゃん、今の見た?」
「見た」
「由紀ノートに書いといて」
「自分で書け」
***
夜。
アパートに戻る電車の中で、スマホが震えた。
***
0課のグループだった。
***
加藤さんから、表が一枚、届いていた。
『冬至の夜の、役割表です』
山の班と、実家の班。
それぞれの名前の横に、連絡の順番と、持ち物が書いてあった。
一番下に、一行。
『救急箱は、山に三つ、実家に二つ積みます』
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少しして、赤城から、写真が一枚、届いた。
***
登山靴だった。
真新しかった。
文字は、なかった。
***
『レスラー』が、力こぶのスタンプを返した。
『ジョン』が、『Nice boots.』と返した。
『レディー』が、『ふーん』と返した。
***
俺は、今朝の数字を、グループに送った。
一人で五分。由紀と息を揃えて、十分。
***
すぐに、課長から返事が来た。
***
『うん、うん。倍だね』
『倉庫の檻に直すと、二十分くらいかな』
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少しして、もう一件。
***
『冬至の夜は、十四時間あるけどね』
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分かっている。
分かっていた。
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それでも、十分が、二十分になった。
一人じゃなく、二人になった。
***
電車の窓に、自分の顔が映っていた。
思っていたより、ましな顔だった。
***
月曜日。
閉店の三十分前。
***
由紀は、カウンターの内側で、パンフレットの向きを揃えていた。
店長は、奥で、在庫の数を数えていた。
***
自動ドアが、開いた。
***
「いらっしゃいませ」
***
入ってきたのは、スーツの若い男だった。
二十代の後半くらい。
どこにでもいる、会社帰りの顔をしていた。
***
由紀は、笑顔のまま、男の手を見た。
いつのまにか、そうする癖がついていた。
***
手の甲には、何もなかった。
焼き印も、線も。
普通の、手だった。
***
男は、料金プランのパンフレットを一枚取って、少しだけ眺めた。
質問を、二つした。
データの量と、解約の手数料のことだった。
由紀が答えると、丁寧に頭を下げた。
***
契約は、しなかった。
よくある客だった。
***
「ありがとうございました」
***
男は、自動ドアの前で、立ち止まった。
振り返った。
***
「冬至は、ゆず湯ですか」
***
「……え?」
***
「いえ」
男は、微笑んだ。
「いい香りがしたので」
***
自動ドアが、開いて、閉じた。
***
由紀は、しばらく、動けなかった。
***
それから、ゆっくり、自分の手のひらを、鼻に近づけた。
***
柚子の匂いなんて、していなかった。
今朝は、柚子に、触っていなかった。




