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第五十九章 縁側の朝

五時に、起こされた。


***


「お兄ちゃん。起きて」

「……まだ暗い」

「暗いうちにやるんでしょ。おじいちゃん、そうだったじゃん」


***


実家の、二階の、俺の部屋だった。

学生の頃のまま、本棚にラノベが詰まっている部屋。

金曜の夜に、「じいちゃんの手帳の件で」と言って、泊まりに来ていた。


***


嘘ではなかった。

全部でも、なかった。


***


布団の足元で、メレオスが丸くなっていた。

由紀に揺すられて、片目を開けた。


***


「……神は、寝ん」

「寝てたでしょ」

「考え事じゃ」

「いびき、かいてたよ」

「神の考え事は、音がするんじゃ」


***


十二月の縁側は、冷たかった。


***


板の上に、座布団を三枚並べた。

真ん中は、じいちゃんの場所だった。

俺は、その右に座った。

由紀が、左に座った。


***


真ん中の座布団に、メレオスが、よじ登った。


***


「……そこ、座るのか」

「空けとくのも、寂しかろう」

メレオスは、じいちゃんと同じように、背筋を伸ばして正座した。

見た目は子供なのに、座り方だけは、じいちゃんに似ていた。


***


庭の向こうで、空が、少しだけ白くなりかけていた。

柚子の木に、黄色い実が、いくつも下がっていた。


***


息を、吸った。

吐いた。


***


十何年ぶりに、並んでやる呼吸だった。


***


左から、由紀の息の音がした。

最初は、俺より少し速かった。

三回目くらいで、揃った。


***


揃った瞬間、何かが変わった。


***


体の中を回っている気が、いつもより、軽かった。

重い水を押して回していたのが、急に、下り坂になったみたいだった。


***


「……健司」

真ん中から、メレオスが、目を閉じたまま言った。

「今、気づいたか」

「うん」

「わしもじゃ」


***


由紀だけが、何も気づいていなかった。

首が、ゆっくり前に傾いていた。


***


「由紀」

「……起きてるよ」

「寝てただろ」

「考え事」

「音がしてた」

「わしの言い訳を、使うでない」


***


試してみることにした。


***


庭の土から、小さな格子を呼んだ。

柚子の木の根元を囲むくらいの、膝の高さの檻。

課長の計算でいうと、倉庫の百に対して、十くらい。


***


気を流した。

由紀のスマホで、メレオスが時間を計った。


***


一人で流すと、五分で、腕が震えはじめた。


***


少し休んでから、もう一度。

今度は、由紀が隣に座って、呼吸をした。

俺の背中に、手のひらを当てていた。


***


「当てるだけでいいの?」

「たぶん」

「たぶんって」

「俺も、初めてだから」


***


五分たっても、腕は震えなかった。

七分。

八分。


***


十分で、ようやく、指先が痺れはじめた。


***


「……倍じゃ」

メレオスが、スマホの画面を見て言った。


***


「由紀が、何かしてるのか」

「してないよ。息してるだけ」

「それじゃ」

メレオスが言った。

「息を揃えると、一つの気を、二人で回すことになる。重さが、半分になるんじゃ」


***


メレオスは、真ん中の座布団を見た。


***


「伊左衛門が、横で寝とるちっこいのを、何も言わずに放っといたのは」

少しだけ、間があった。

「……案外、あやつも、楽じゃったのかもしれんのぉ」


***


由紀が、黙って、じいちゃんの座布団を見ていた。


***


「離れてても、できるのか」

俺は聞いた。

「山と、この庭で」


***


「気は、距離ではない」

メレオスは言った。

「縁じゃ。同じ縁側で、同じ息をした者どうしなら、届く。……たぶんのぉ」

「たぶん、多くない?」

「神にも、初めてのことはある」


***


七時。

台所から、味噌汁の匂いがした。


***


「健ちゃん、起きてたの。珍しい」

母さんが、台所から顔を出した。

「由紀まで。二人で、縁側で何してたの」


***


「……体操」

由紀が言った。

「おじいちゃんの」


***


母さんは、少し目を丸くした。

それから、笑った。


***


「懐かしいわね。あんたたち、ちっちゃい頃、毎朝やってたもんね。由紀なんか、いっつも途中で寝てて」

「寝てない」

「寝てたわよ。お祖父ちゃんが、そのまま抱っこして、布団に戻してたじゃない」


***


由紀の耳が、赤くなった。

それは、覚えていなかったらしい。


***


朝ごはんの途中で、父さんが、封筒を持って二階から下りてきた。


***


顔が、にやけていた。


***


「当たった」


***


封筒から出てきたのは、温泉旅館のペア宿泊券だった。

一泊二日。

日付は、冬至の日。


***


「商店街の福引でな。一等だ。一等」

父さんは、宿泊券を、俺と由紀の前に、交互に突き出した。

「俺は、昔から、くじ運がいいんだ」


***


証券会社の部長の言うことではない気がした。

黙っておいた。


***


由紀が、味噌汁を飲んでいた。

飲んだまま、動かなかった。

お椀の陰で、顔を隠していた。


***


「……商店街の福引なんて、今年、やってたかしら」

母さんが、首を傾げた。


***


由紀の肩が、跳ねた。


***


「やってたよ!」

お椀を置いて、由紀が言った。

声が、裏返っていた。

「あたし、見たもん。ガラガラの、あれ。……赤い玉が出てた」


***


「一等は、金色の玉だぞ」

父さんが言った。


***


「……金色の玉が出てた」


***


俺は、ご飯をかき込んだ。

何も言わないことに、全力を使った。


***


母さんは、しばらく、宿泊券を眺めていた。

由紀を見た。

俺を見た。

もう一度、宿泊券を見た。


***


「……まあ、温泉だし」


***


疑ったまま、行くことにしたらしい。

由紀の言ったとおりだった。


***


「でもなあ」

父さんが、急に腕を組んだ。

「冬至は、ゆず湯だろう。うちは、毎年」


***


じいちゃんが死んで、今年から、ゆず湯の係は父さんになった。

今年が、父さんの、初めてのゆず湯になるはずだった。


***


「あたしが、やっとく」

由紀が言った。

「柚子、ちゃんと浮かべとくから」


***


父さんは、少し驚いた顔をした。

それから、笑った。


***


「由紀が? 浮かべすぎるなよ。お祖父ちゃんみたいに、湯が見えなくなるぞ」


***


由紀は、笑って、頷いた。

うん、と言った声が、少しだけ小さかった。


***


父さんは、何も知らない。

母さんも。

冬至の夜に、自分たちの娘が、庭で何をするのかも。

息子が、どこの山にいるのかも。


***


それでいい、と思った。

それがいい、と思った。


***


昼過ぎ。

両親が買い物に出たあと、蔵の前で、戸締まりの練習をした。


***


蔵の戸は、古い木の引き戸だった。

由紀が手のひらを当てて、呼吸をして、気を流す。

戸が、壁と一つになったみたいに、動かなくなる。


***


閉めるのは、もう、できた。

三回に二回は、成功した。


***


開けるのは、まだ、できなかった。


***


「押すな。流せ」

「さっきから、それしか言ってない」

「それしかないんだ」

「また先生ぶってる」


***


すぱん。

俺の頭に、ハリセンが落ちた。


***


「……なんで俺なんだ」

「由紀は、叩けん」

メレオスが、真顔で言った。

「兄の不始末じゃ」

「何の不始末だ」

「教え方が、悪い」


***


由紀が、声を出して笑った。

笑いながら、もう一度、戸に手を当てた。


***


少し休憩しよう、と言って、俺は台所にお茶を取りに行った。

由紀は、蔵の前に残った。


***


お盆に湯呑みを三つ載せて戻ると、由紀が、胸を張っていた。


***


「閉めた」

「おう」

「一発で。今の、一番きれいにできた」


***


「……メレオスは」


***


由紀が、きょとんとした。

あたりを見回した。


***


蔵の中から、どん、と音がした。


***


どん、どん。

戸が、内側から叩かれていた。

それから、声がした。


***


「出られん!」


***


「出られんぞ、これは! 由紀! 開けい!」


***


「……かみさま?」

由紀の顔から、血の気が引いた。

「なんで、中にいるの」

「驚かせようと、思うたんじゃ! 由紀ノートに、載りたかったんじゃ!」


***


「消えればいいじゃん!」

「消えても、中に戻るんじゃ! 檻と、同じじゃ!」


***


由紀が、戸に飛びついた。

両手を当てた。

開かなかった。


***


「開かない、開かない、お兄ちゃん」


***


俺が、代わりに手を当てた。

気を、一筋だけ流した。

戸が、ふっと軽くなった。


***


引き戸を開けると、メレオスが、蔵の床に座り込んでいた。

膝を抱えていた。

暗がりの中で、小さく見えた。


***


「……かみさま」

由紀が、しゃがみこんだ。

「ごめん。ほんとに、ごめん」


***


「……よい」

メレオスは、顔を上げた。

笑っていなかった。

「自分から、入ったんじゃ。由紀は、悪うない」


***


少しだけ、間があった。


***


「ただな。……五十年前を、ちいとばかし、思い出した」


***


由紀は、何も言えなかった。

メレオスが、五十年、閉じ込められていたこと。

由紀は、それを、俺より先に聞いていた。


***


メレオスは、立ち上がって、着物の埃を払った。

それから、由紀の顔を、まっすぐ見た。


***


「覚えておけ、由紀」


***


「戸を閉めるのは、簡単じゃ」

メレオスは、開いたままの蔵の戸を、指で差した。

「閉める前に、中を見るのが、難しい」


***


「中に、誰がおるのか。閉めたら、誰が、出られんようになるのか」

メレオスの声は、静かだった。

「それを感じてから、閉めるんじゃ。……伊左衛門は、それが、できた」


***


由紀は、蔵の戸を見ていた。

長いこと、見ていた。


***


「……うん」


***


その日の夕方まで、由紀は、戸を閉めなかった。

閉める前に、目をつぶって、蔵の中を感じる練習だけを、ずっとやっていた。


***


メレオスが、蔵に入る。

出る。

入って、隅に隠れる。

由紀が、戸の前で、目をつぶる。


***


「……いる。右の、奥」

「当たりじゃ」


***


「……いない」

「当たりじゃ」


***


十回やって、七回、当てた。


***


そのあと、由紀は、蔵の戸を、一回だけ開けることができた。

自分の力で。

三十分、格闘したあとだった。


***


「開いた……!」

「おう」

「お兄ちゃん、今の見た?」

「見た」

「由紀ノートに書いといて」

「自分で書け」


***


夜。

アパートに戻る電車の中で、スマホが震えた。


***


0課のグループだった。


***


加藤さんから、表が一枚、届いていた。

『冬至の夜の、役割表です』

山の班と、実家の班。

それぞれの名前の横に、連絡の順番と、持ち物が書いてあった。

一番下に、一行。

『救急箱は、山に三つ、実家に二つ積みます』


***


少しして、赤城から、写真が一枚、届いた。


***


登山靴だった。

真新しかった。

文字は、なかった。


***


『レスラー』が、力こぶのスタンプを返した。

『ジョン』が、『Nice boots.』と返した。

『レディー』が、『ふーん』と返した。


***


俺は、今朝の数字を、グループに送った。

一人で五分。由紀と息を揃えて、十分。


***


すぐに、課長から返事が来た。


***


『うん、うん。倍だね』

『倉庫の檻に直すと、二十分くらいかな』


***


少しして、もう一件。


***


『冬至の夜は、十四時間あるけどね』


***


分かっている。

分かっていた。


***


それでも、十分が、二十分になった。

一人じゃなく、二人になった。


***


電車の窓に、自分の顔が映っていた。

思っていたより、ましな顔だった。


***


月曜日。

閉店の三十分前。


***


由紀は、カウンターの内側で、パンフレットの向きを揃えていた。

店長は、奥で、在庫の数を数えていた。


***


自動ドアが、開いた。


***


「いらっしゃいませ」


***


入ってきたのは、スーツの若い男だった。

二十代の後半くらい。

どこにでもいる、会社帰りの顔をしていた。


***


由紀は、笑顔のまま、男の手を見た。

いつのまにか、そうする癖がついていた。


***


手の甲には、何もなかった。

焼き印も、線も。

普通の、手だった。


***


男は、料金プランのパンフレットを一枚取って、少しだけ眺めた。

質問を、二つした。

データの量と、解約の手数料のことだった。

由紀が答えると、丁寧に頭を下げた。


***


契約は、しなかった。

よくある客だった。


***


「ありがとうございました」


***


男は、自動ドアの前で、立ち止まった。

振り返った。


***


「冬至は、ゆず湯ですか」


***


「……え?」


***


「いえ」

男は、微笑んだ。

「いい香りがしたので」


***


自動ドアが、開いて、閉じた。


***


由紀は、しばらく、動けなかった。


***


それから、ゆっくり、自分の手のひらを、鼻に近づけた。


***


柚子の匂いなんて、していなかった。

今朝は、柚子に、触っていなかった。


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