↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
67/176

第五十八章 家族を

「……お兄ちゃん?」


***


由紀が、湯呑みを置いた。

柚子の輪切りが、湯の中で、ゆっくり回っていた。


***


「一個、話してないことがある」


***


言ってから、自分でも驚いた。

もう少し、考えるつもりだった。

でも、口のほうが先に動いた。


***


あたしは、全部言ったよ。

その声が、まだ耳の奥に残っていた。

この前、全部話したつもりだった。

全部じゃなかった。


***


メレオスが、ソファの上で、膝を抱え直した。

止めなかった。


***


「湾岸の倉庫の夜のこと、覚えてるか。共さんを、檻に閉じ込めた夜」

「うん。腕がぷるぷるして、芋が縦に回った夜の、前の日」

「……そう」


***


「あの夜、一瞬だけ、共さん本人が、表に出てきた」


***


由紀の目が、少しだけ大きくなった。


***


「俺を、じいちゃんと間違えてた。伊左衛門さん、って呼んだ」

「……うん」

「構わず、撃ってください、って言った」


***


由紀は、黙っていた。


***


「それから、もう一つ」


***


一度、息を吸った。


***


「伊左衛門さんの、家族を……」


***


「そこで、切れた。続きは、聞こえなかった」


***


部屋が、静かになった。

冷蔵庫の音だけが、していた。


***


「それで、そのあと、共さんの中のやつが、戻ってきた。最後に、こう言った」

俺は、湯呑みの中の柚子を見ていた。

「今度は、邪魔が入らないように、するから」


***


「……邪魔」

「じいちゃんは、あいつを山から追い出した。五十五年、戸を閉め続けた。あいつから見たら、それが邪魔だ」

「うん」

「じいちゃんは、もういない」


***


その先を、言えなかった。


***


由紀が、自分で言った。


***


「今、戸を閉められるのは、お兄ちゃんと、あたし」


***


「……うん」


***


由紀は、自分の手のひらを見ていた。

さっき、手帳のページを閉じた手だった。


***


「だから、答えられなかったんだ」

由紀が、言った。

「ちゃんと手伝えるね、って言ったとき」


***


「ごめん」

「なんで謝るの」

「巻き込んだ」

「巻き込まれてないよ。最初から、家族だもん」


***


由紀は、湯呑みを両手で持ち直した。

しばらく、柚子を見ていた。


***


「ねえ。その続き」

「うん」

「守ってください、かな。遠ざけてください、かな」


***


「分からない」

「あたしも、分かんない」

由紀は、少しだけ笑った。

「でも、どっちでも、同じだよね」


***


「同じ?」

「どっちにしても、あの人、あたしたちのこと、心配してたんでしょ。撃ってくださいって言った、その次に」


***


自分が撃たれるかもしれない、その瞬間に。

会ったこともない、伊左衛門の家族のことを。


***


「だったら、あたし、あの人のこと、助けたい」


***


由紀は、そう言った。

怖がっている声じゃなかった。

あの男、と呼んでいた頃の声でもなかった。


***


メレオスが、小さく、息を吐いた。


***


「……伊左衛門に、似とる」

「さっきも、聞いた」

「二回言いたくなるほど、似とるんじゃ」


***


三日後。

0課の会議室に、由紀が座っていた。


***


首から、臨時の入館証を下げていた。

加藤さんが、朝のうちに作ってくれたものだった。

『見学者』と書いてあった。


***


「見学者……」

由紀が、自分の胸元を見て言った。

「一番、近い欄が、それだったの」

加藤さんが、お茶を置きながら、にこにこ言った。

「『家族』って欄は、ないのよね。うち」


***


会議室の空気は、いつもと違った。

『レスラー』が、椅子に浅く座っていた。

『ジョン』は、ネクタイを締め直していた。

『ホラー』は、髪の隙間から、由紀のほうを見ないようにして、ちらちら見ていた。


***


『レディー』だけが、いつも通り、爪を見ていた。

それから、一度だけ顔を上げて、由紀を見た。


***


「ふーん」

「……はじめまして」

「似てないわね。お兄さんと」

「よく言われます」

「いい意味よ」


***


壁の画面の中で、『ギーク』が手を振った。

「妹さん! お久しぶりです。って、会うのは初めてですけど」

「携帯の件で、お世話になりました」

「こちらこそ。……やっぱり、うちに来ませんか」

「兄が、嫌がるので」

「知ってます」


***


ドアが開いた。


***


赤城だった。


***


由紀が、立ち上がった。

背筋が、びしっと伸びた。

携帯ショップの、接客のときの背筋だった。


***


赤城は、由紀の前で、足を止めた。


***


「葬儀の日に、受付の隣にいた」

赤城が、言った。

「伊左衛門さんの、お孫さんだね」


***


「……覚えてらっしゃるんですか」

「目が、赤かった」

赤城は、それだけ言って、軽く頭を下げた。

「赤城です。お兄さんには、世話になっている」


***


「小沢由紀です。兄が、お世話になっています」


***


丁寧なのに、怖い人。

由紀は、葬式の日に、そう言っていた。

今の由紀の顔は、怖がっているようには見えなかった。

緊張はしていた。

それ以上に、何かを確かめるみたいに、赤城を見ていた。


***


赤城が、いつもの椅子に座った。

隣の椅子に、メレオスが座った。

由紀にも、赤城にも、0課の全員にも、見える形で。


***


加藤さんが、メレオスの前に、羊羹を二切れ置いた。

赤城の前にも、二切れ。

それから、由紀の前にも、二切れ。


***


由紀が、羊羹を見た。

赤城の羊羹を見た。

メレオスの羊羹を見た。


***


何か言いたそうだった。

何を言いたいのかは、分かった。


***


「……今は、やめとけ」

俺は、小声で言った。

「まだ、何も言ってない」

「顔に書いてある」


***


会議が、始まった。


***


俺が話した。

由紀の下地のこと。

縁側の、朝晩の呼吸。

手帳のページが、由紀にも応えたこと。

由紀が、ページを閉じたこと。


***


それから、メレオスの考えを話した。

じいちゃんの五十五年分の異状なしは、見張りじゃなかった。

庭から、あの山の戸を、閉めていた。

今年は、閉める人がいない。


***


最後に、共さんの言葉と、あいつの言葉を並べた。

伊左衛門さんの、家族を。

今度は、邪魔が入らないように。


***


会議室が、静かになった。


***


最初に口を開いたのは、課長だった。


***


「うん、うん」

いつもの相槌だった。

でも、その次の声は、いつもより低かった。


***


「由紀さんは、民間の方だね」

「……はい」

「0課は、民間の方を、作戦には組み込まない。加藤さんが、現場に出ないのと、同じルールだよ」


***


加藤さんが、黙って、頷いた。


***


「狙われる理由が、はっきりしてるなら、なおさらだ」

課長は、由紀を見た。

優しい目だった。

逃げ道のない目でもあった。

「冬至の夜は、うちで保護する。どこか、安全なところで」


***


「嫌です」


***


由紀が、言った。

一秒も、迷わなかった。


***


「あたしが行かなかったら、戸を閉める人が、いません」

「小沢くんが、いる」

「兄は、山にいます。檻と、引きはがすのと、両方やるんですよね。十分しか、もたないのに」


***


課長が、黙った。


***


十分のことを、由紀に話したのは、俺だった。

あの電話で。

全部、話すと決めたから。


***


「あたしは、山には行きません」

由紀は、続けた。

「それは、分かってます。足手まといになるし、兄が、困るから」


***


「実家の、庭にいます。おじいちゃんが、毎年いた場所です」

由紀の声が、少しだけ震えた。

それから、震えなくなった。

「そこで、北を向いて、戸を閉めます。おじいちゃんの、代わりに」


***


誰も、何も言わなかった。


***


赤城が、湯呑みを置いた。


***


「課長」

「はい」

「0課のルールは、正しい。民間人を、作戦に組み込んではならない」


***


由紀の肩が、少しだけ下がった。


***


「だから、組み込まない」


***


赤城は、由紀を見た。


***


「祖父様の家の庭で、祖父様の代わりに、冬至の夜に手を合わせる。それは、作戦じゃない。家の行事だ」

赤城の声は、丁寧だった。

いつもの、断らせない丁寧さだった。

「家の行事を止める権限は、国務大臣にも、ない」


***


課長が、赤城を見た。

しばらく見てから、小さく、息を吐いた。


***


「……うん、うん」

それから、もう一度。

「そういうことに、しましょうか」


***


「ただし」

赤城は、指を一本立てた。

「家の行事の、警備はする。それは、0課の仕事だ」


***


『レディー』が、爪から目を上げた。

「私、行くわ」

即答だった。

「庭の外は、私が見る。……貸しが、一つ残ってるのよ。この家には」


***


貸しがあるのは、俺にだった。

黙っておいた。


***


「俺も行く」

『レスラー』が言った。

「山は、人数がいる。……だが、あっちに一人だけじゃ、足りん」


***


「山は、『オザケン』と、『ホラー』と、『ジョン』か」

『レスラー』が、指を折った。

「……一人、足りなくなるな」

「足りる」

赤城が言った。

「兄弟子が、いる」


***


「それと」

加藤さんが、手帳を開いた。

「ご両親は、冬至の夜、ご在宅ですか」


***


由紀と、俺は、顔を見合わせた。


***


考えていなかった。

実家には、父さんと、母さんがいる。

二人とも、何も知らない。

魔法のことも。メレオスのことも。共さんのことも。


***


「……います。たぶん」

由紀が、言った。

「今年から、お父さんが係なんです」


***


「うん、うん」

課長が言った。

「温泉にでも、行ってもらえたら、いいんだけどね」


***


「商店街の福引で、当たったことにしましょうか」

加藤さんが、さらっと言った。

「一泊二日。冬至の日の」


***


「経費は」

課長が聞いた。


***


「経費では、落ちませんので」


***


即答だった。

課長が、少しだけ肩を落とした。


***


「俺が持つ」

赤城が、言った。

表情は、変わらなかった。


***


由紀が、赤城を見た。

それから、小さく、吹き出した。


***


「……お父さん、福引で当たったって言ったら、信じますよ。そういう人なので」

「そうか」

「お母さんは、たぶん、疑います。でも、温泉なら、疑ったまま行きます」

「そうか」


***


赤城の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。

手帳の鼻血の行を見たときと、同じ顔だった。


***


会議が終わった。


***


帰り際、由紀が、赤城の前で立ち止まった。

羊羹の皿を、両手で持っていた。

二切れのうち、一切れが残っていた。


***


「……あの」

「何かな」

「羊羹、おいしかったですか」


***


俺は、額を押さえた。


***


赤城は、少しだけ、由紀を見た。

それから、空になった自分の皿を見た。


***


「うまかった」

「あたしも、です」

「そうか」


***


「……二回目は、冬至が終わったら、聞きます」


***


赤城は、答えなかった。

代わりに、軽く、頭を下げた。

葬式の日と、同じ下げ方だった。

それから、会議室を出ていった。


***


由紀は、赤城の背中を見送ってから、振り返った。

満足そうだった。


***


「これで、かみさまと、同点」

「何の勝負だ」

「大臣と羊羹の話、した回数」

「かみさまは、二回じゃろ」

メレオスが言った。

「冬至が終わったら、あたしも二回目」


***


エレベーターの前で、『ホラー』に呼び止められた。


***


由紀は、加藤さんに入館証を返しに行っていた。

廊下には、俺と、『ホラー』だけだった。


***


「小沢さん」

「はい」

「妹さんのことなんですけど」


***


『ホラー』は、廊下の向こうの、由紀の背中を見ていた。

髪の隙間から。

いつもより、長く。


***


「少しだけ、光って見えます」


***


「……光って」

「小沢さんと、同じ色です。前は、見えませんでした」

『ホラー』は、自分の目元に、指で触れた。

「たぶん、この間、気を使ったからだと思います。ページを閉じたときに」


***


戸締まりをした、あの日。

由紀が、初めて、自分の気を外に流した日。


***


「前に、言いましたよね。慰安旅行の、帰りのバスで」

『ホラー』の声は、いつも通り、小さかった。

「見える、ってことは」


***


「向こうからも、見える、ってことですからね」


***


エレベーターの扉が、開いた。

中には、誰もいなかった。


***


廊下の向こうで、由紀が、加藤さんに手を振っていた。

笑っていた。


***


冬至まで、あと、三週間を切っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。