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第五十七章 揺れたページ

土曜の昼に、由紀が来た。


***


「見せて」

玄関で靴を脱ぎながら、由紀が言った。

「おじいちゃんの手帳。開いたページ」


***


電話で話した次の週末だった。

由紀は、コンビニの袋を二つ提げていた。

片方は、メレオスの肉まん。

もう片方は、柚子だった。三つ。


***


「……それ、何に使うんだ」

「ゆず湯の予行演習」

「三週間あるぞ」

「気分だよ、気分」


***


メレオスは、ソファの上で、柚子を一つ手に取って、匂いを嗅いでいた。

それから、黙って、肉まんのほうの袋を開けた。


***


手帳は、テーブルの上に、開いたまま置いてあった。

あの夜から、棚に戻していなかった。


***


由紀は、テーブルの前に正座した。

左のページを読んだ。

右のページを、上から、指でたどりながら読んだ。


***


『健司、受け身、また鼻血』のところで、指が止まった。


***


「……由紀ノートに、書いとこ」

「書くな」

「おじいちゃん公認のネタだよ、これ」


***


笑っていた。

目は、少し赤かった。


***


最後の二行まで読んで、由紀は、しばらく黙っていた。

それから、そっと、ページの端に指を伸ばした。

じいちゃんの字に、触れようとしたんだと思う。


***


紙が、揺れた。


***


由紀の指先が触れる前に。

ページの端が、ふわりと持ち上がって、由紀の指に寄っていった。


***


「……え」


***


メレオスの手から、肉まんが落ちた。


***


「今の、何」

由紀が、指を引っ込めた。

ページは、ゆっくり元の位置に戻った。

「風?」

「窓、閉まってる」

俺は言った。

自分の声が、少し硬かった。


***


俺は、テーブルから一歩、下がった。

二歩。

三歩。

台所の入り口まで。


***


「由紀。もう一回、触ってみろ」

「なんで、お兄ちゃん、そんな遠くにいるの」

「いいから」


***


由紀は、怪訝な顔で、もう一度、指を伸ばした。


***


ページが、揺れた。

さっきより、はっきりと。


***


俺は、ここにいる。

テーブルからは、三メートル離れている。

揺らしているのは、俺じゃなかった。


***


「……由紀」

メレオスが、言った。

床に落ちた肉まんを、拾いもしなかった。

「お主、今、何をした」


***


「何も、してないよ」

「何も、しとらんで、戸が返事をするか」

「戸って何。怖いんだけど」


***


メレオスが、ソファから降りて、由紀の前に正座した。

真剣な顔だった。

由紀が、その顔を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


***


「由紀。息を、吸うてみい」

「……はい」

「吐いてみい」

「はい」


***


「もっと、ゆっくりじゃ」


***


由紀が、ゆっくり息を吸った。

両手が、自然に、下腹のあたりに添えられていた。

吸いながら、少しだけ肩が落ちた。

吐きながら、背中が、まっすぐになった。


***


見覚えがあった。


***


見覚えどころじゃなかった。

毎朝、毎晩、やっていた。

じいちゃんの隣で。


***


「由紀。それ、どこで覚えた」


***


「え?」

由紀は、きょとんとした。

「おじいちゃんの体操でしょ。朝、縁側で、お兄ちゃんとおじいちゃんがやってたやつ」


***


「あたし、横で、真似してたじゃん。ちっちゃい頃」


***


思い出した。


***


冬の朝の、縁側。

じいちゃんが、真ん中に座る。

俺が、その右に座る。

息を吸う。吐く。

道場の稽古とは違う。家の中だけの、朝晩の呼吸。

弟子の誰も、知らないやつ。


***


その左に、小さいのが、座っていた。


***


パジャマのまま。

寝ぐせのまま。

俺とじいちゃんの真似をして、目をつぶって、ふうふう言っていた。

途中で、だいたい、寝ていた。


***


じいちゃんは、何も言わなかった。

やめろとも。

ちゃんとやれとも。

ただ、たまに、小さい頭に手を置いていた。


***


「何年くらい、やってた」

「えー……幼稚園から、小学校の、三年くらい?」

由紀は、首を傾げた。

「スイミング始めて、朝、早起きしなくなって、それきり。柔軟体操だと思ってた」


***


柔軟体操。

一子相伝の、気功の呼吸を。


***


「……おったのぉ」

メレオスが、ぽつりと言った。


***


「ちっこいのが、横で、真似しとった。わしも、見とった」

メレオスは、額を押さえた。

「伊左衛門も、わしも、遊んどるだけじゃと思うとった」


***


「遊んでたよ?」

「遊びで、下地がつくか。……ついとるんじゃ、これが」


***


「したじ」

由紀が、繰り返した。

「何の」

「気功のじゃ」


***


由紀は、しばらく、メレオスを見ていた。

それから、俺を見た。

それから、自分の手のひらを見た。


***


「……あたし、魔法、使えるの?」


***


「使えん」

メレオスが、即答した。

「教わっとらん。下地があるだけじゃ。下地だけで、火は出ん」

「なんだ」

「がっかりするでない」


***


「ただしな」


***


メレオスは、手帳を見た。

最後の二行を。


***


「戸締まりなら、できるかもしれん」


***


「戸締まり」

「この紙を閉じとったのと、同じことじゃ」

メレオスは、ページの端を、指で差した。

「伊左衛門は、これを、気で閉じた。同じ気を持つ者にしか、開けられんように」


***


それから、メレオスは、窓の外を見た。

北の方角だった。


***


「……ずっと、考えとったんじゃ。この一週間」


***


「伊左衛門は、毎年、冬至の夜に、庭から北を向いた。五十五年、異状なし、と書いた」

メレオスの声が、低くなった。

「見とっただけで、異状なしが、五十五年も続くかのぉ」


***


「……違うのか」

「わしは、違うと思う」


***


「あやつは、閉めとったんじゃ。毎年、一番戸がゆるむ夜に、庭から、あの山の戸を」


***


背中が、冷たくなった。


***


「庭から、山まで、届くのか」

「気は、距離ではない」

メレオスは、首を振った。

「縁じゃ。覚えとる者の気は、覚えとる場所に届く」


***


覚えていたほうがいい。

忘れると、また誰かが行くことになる。


***


赤城から聞いた、じいちゃんの言葉だった。

ずっと、ただの言い伝えだと思っていた。


***


「忘れんように、じゃ」

由紀が、小さく言った。

「……それ、そういう意味だったの」


***


「今年は」

俺は、言いかけて、止まった。


***


じいちゃんは、今年、死んだ。

今年の冬至に、庭で、北を向く人はいない。


***


向こうが、今年を選んだ理由。


***


「……一人、おるぞ」

メレオスが、由紀を見た。


***


由紀は、すぐには、何も言わなかった。

それから、ゆっくり、テーブルの上の手帳を見た。


***


「やってみる」


***


一回目。


***


由紀は、開いたページに手のひらを当てて、目をつぶった。

息を吸った。

吐いた。


***


何も、起きなかった。


***


「……閉じて、って思えばいいの?」

「思うだけでは、閉じん」

「じゃあ、どうするの」


***


メレオスが、俺を見た。

お主が教えい、という目だった。


***


「押すな」

俺は言った。

「流せ」


***


由紀が、片目だけ開けて、俺を見た。


***


「……お兄ちゃんが、先生ぶってる」

「ぶってない」

「由紀ノートに書いとこ」

「今は、やめろ」


***


二回目。

由紀は、力を入れすぎた。

ページが、ばさばさと暴れた。

左のページと右のページが、交互にめくれて、止まらなくなった。


***


「わ、わ、わ」

「押しとる! それは押しとる!」

メレオスが叫んだ。

ハリセンを出しかけて、相手が由紀だと気づいて、しまった。


***


三回目。

今度は、弱すぎた。

ページが、ため息みたいに、ほんの少しだけ持ち上がって、落ちた。


***


こけしの日の俺と、同じだった。

血筋なのかもしれない。

不器用なところまで。


***


「蛇口を、少しだけ開けるみたいに」

俺は言った。

課長の手帳の、二。

あの日の、自分の言葉。

「水が、糸みたいに出るくらい」


***


由紀が、目をつぶった。


***


息を吸う。

吐く。

縁側の朝みたいに。


***


四回目。


***


ページが、ゆっくりと、閉じた。


***


音もしなかった。

左右のページが、そっと重なって、ぴったりと、一枚になった。

何十年も閉じていた、あの夜の前の姿に戻っていた。


***


俺は、ページの隙間に、爪を入れようとした。

入らなかった。


***


「……閉じとる」

メレオスが、言った。

声が、少しかすれていた。

「伊左衛門の、戸締まりじゃ」


***


由紀が、目を開けた。

閉じたページを見た。

自分の手のひらを見た。


***


「あたし、できるじゃん」


***


笑っていた。

いつもの、ガチャで星四を引いたときの顔だった。


***


「……で、これ、どうやって開けるの」

「俺が開ける」

「お兄ちゃんにしか、開けられないの?」

「お前にも、開けられるはずじゃ」

メレオスが言った。

「閉めるより、開けるほうが、難しいがのぉ」


***


由紀は、十五分、格闘した。

開かなかった。

最後は、俺が開けた。


***


「……ずるい」

「修行の差だ」

「二十年の差でしょ」

「二十年、やってたからな」


***


夕方。

柚子を一つ、湯呑みに輪切りにして浮かべて、三人で飲んだ。

由紀のいう、予行演習だった。

すっぱかった。


***


「ねえ、お兄ちゃん」

由紀が、湯呑みを両手で持って言った。


***


「これで、あたしも、ちゃんと手伝えるね」


***


留守番役じゃなくて。

庭で、祈るだけじゃなくて。

由紀の目は、そう言っていた。


***


答えようとして、声が出なかった。


***


あの人の声が、耳の奥で鳴っていた。

湾岸の倉庫の、檻の中で。

疲れた大人の、丁寧な声で。


***


伊左衛門さんの、家族を……。


***


あの続きを、俺は、まだ由紀に話していなかった。


***


倉庫の夜、あれが最後に言ったことも。

今度は、邪魔が入らないように、するから。


***


戸を閉められる人間が、あの山の向こうから見て、何に見えるのか。


***


「……お兄ちゃん?」


***


柚子の匂いが、急に、遠くなった気がした。


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