↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
65/176

第五十六章 忘れんように

眠れなかった。


***


布団の中で、何度も寝返りを打った。

目を閉じると、じいちゃんの背中が浮かんだ。

冬の庭で、北を向いて、手を合わせている背中。


***


四時過ぎに、起き上がった。


***


リビングの棚の端に、手帳があった。

由紀が蔵から見つけてきた、じいちゃんの手帳。

隠り山の地名と、「四十五年」と、共さんの一文字。

読めるところは、全部、読んだはずだった。


***


手に取って、ソファに座った。


***


めくっていくと、途中で、指が止まった。


***


一枚だけ、厚いページがあった。

二枚が、ぴったり重なって、剥がれなくなっていた。

古い紙だから、湿気でくっついたんだと、ずっと思っていた。


***


そのページが、揺れた。


***


風は、なかった。

窓も、閉まっていた。

それでも、ページの端が、かすかに持ち上がって、また落ちた。


***


前にも、揺れていたのかもしれない。

メレオスが解読していた夜に。

気づかなかっただけで。


***


「……健司」


***


ソファの反対の端で、メレオスが、目を開けていた。


***


「寝てたのか」

「神は、寝ん」

「目、閉じてただろ」

「考え事じゃ」


***


メレオスは、身を起こした。

俺の手元の手帳を、見た。


***


「昨日の夜の、続きか」

「うん」


***


少し迷ってから、言った。


***


「じいちゃん、冬至の夜に、北に手を合わせてたって。由紀が言ってただろ」

「……言うとったな」

「北は、隠り山の方角だ」


***


メレオスは、何も言わなかった。


***


「アメリカの三件は、全部、冬至の夜だった。五十年前も、十二月だった」

俺は、手帳を膝の上で押さえた。

「じいちゃんは、毎年、何を拝んでたんだ」


***


長い沈黙だった。


***


「……毎年、見ておった」

メレオスが、言った。

「背中におったからのぉ。庭に出るのも、北を向くのも。毎年じゃ」


***


「何を拝んどるのかは、聞かなんだ」

メレオスは、膝を抱えた。

「聞けば、あやつは、ゆず湯が冷めると言うたじゃろう。由紀に言うたのと、同じようにのぉ」


***


「昨日、言いかけたのは、それか」

「うむ」

「なんで、やめた」


***


「五十年、隣におって、気づかなんだ。それを、お主に言うのが、ちいとばかし、恥ずかしかった」


***


神様が、恥ずかしいと言った。


***


俺は、手帳に目を戻した。

厚いページは、まだ、かすかに揺れていた。


***


剥がそうとした。

爪を、紙の隙間に入れた。

入らなかった。


***


破れそうで、破れない。

糊でくっついているのとは、手応えが違った。


***


メレオスが、横から覗き込んだ。

それから、ページに、指先を近づけた。

触れる前に、止まった。


***


「……糊ではない」

「じゃあ、何だ」

「気じゃ」


***


「伊左衛門の、戸締まりじゃ」


***


息が、止まった。


***


「わしが読めたのは、戸締まりのないページだけじゃ。ここは、最初から開かなんだ。紙が古いからじゃと、わしも思うとった」

メレオスは、指を引っ込めた。

「気で閉じたもんは、気でしか開かん」


***


「揺れてたのは」

「お主が、近くにおったからじゃろう。同じ気に、戸が、返事をしとったんじゃ」


***


じいちゃんと、同じ気。

一子相伝の、ただ一人の孫。


***


こけしの日のことを、思い出した。

百の、二。

蛇口を、ほんの少しだけ開けるみたいに。


***


ページに、指を当てた。

気を、流した。

細く。

一筋だけ。


***


紙が、ほどけた。


***


音もなく、二枚のページが、左右に分かれた。

何十年も閉じていた紙の間から、古い墨の匂いがした。

それから、ほんの少しだけ、柚子の匂いがした気がした。


***


左のページに、じいちゃんの字があった。

いつもの悪筆より、少しだけ丁寧だった。


***


『昭和四十五年 冬至 隠り山』


***


その下に、二行。


***


『共を、撃てなんだ』


***


『あれは、共と一緒に、山を下りた』


***


メレオスが、小さく声を漏らした。

それきり、何も言わなかった。


***


右のページには、行がびっしり並んでいた。


***


『四十六年 冬至 北 異状なし』

『四十七年 冬至 北 異状なし』

『四十八年 冬至 北 異状なし』


***


一年に、一行。

同じ言葉が、ずっと続いていた。


***


昭和が終わっても、続いていた。

平成になっても、続いていた。

字が、少しずつ、震えていった。


***


ところどころに、短い書き足しがあった。


***


『健司、生まる』


***


『柚子、浮かべすぎ。孫ども、湯が見えんと笑う』


***


『健司、受け身、また鼻血』


***


最後の行は、去年の冬至だった。


***


『令和七年 冬至 北 異状なし』


***


その下に、一番震えた字で、二行。


***


『冬至の夜、あの山の戸は、一番ゆるむ。忘れんように』


***


『来年は、健司を、庭に呼ぶか』


***


来年は、なかった。

じいちゃんは、今年、死んだ。


***


手帳を持つ手が、少しだけ、震えた。

檻の反動じゃないのは、分かっていた。


***


五十五年。

一年も欠かさずに。

一人で、庭に出て、北を向いて、あの山の戸が開いていないかを、確かめていた。


***


忘れんように、じゃ。


***


「……阿呆じゃ」

メレオスが、言った。

声が、かすれていた。

「言えば、よかったんじゃ。わしにでも。孫にでも」


***


窓の外が、少しずつ、白くなっていった。


***


九時。

0課の会議室に、全員がそろっていた。


***


赤城も、いた。

昨日の課長の報告を受けて、朝一番で来ていた。

隣の椅子には、メレオスが座っていた。

今日は、羊羹に手をつけていなかった。


***


手帳を、テーブルの真ん中に置いた。

開いたページのまま。


***


赤城が、身を乗り出した。

左のページを、読んだ。

右のページを、上から下まで、ゆっくり読んだ。


***


最後の二行で、目が止まった。


***


長い沈黙だった。


***


「……師匠の、字だ」


***


赤城の指が、左のページの二行目に、触れかけて、止まった。


***


『共を、撃てなんだ』


***


「一度も、名を口にしなかった、と言っていたな」

赤城が、メレオスのほうを見ずに言った。

「言えなかったのか。言わなかったのか。……あのとき、あなたも、分からないと言った」


***


「書いとった」

メレオスが言った。

「書いて、閉じとった。わしにも、読めんようにのぉ」


***


赤城は、目を閉じた。


***


「……言えなかったんだな」


***


それだけだった。

赤城は、目を開けて、背筋を伸ばした。

国務大臣の顔に、戻っていた。


***


「冬至の夜、あの山の戸は、一番ゆるむ」

赤城が、声に出して読んだ。


***


「アメリカの三件と、同じ夜です」

画面の中から、『ギーク』が言った。

「全部、冬至。全部、一番暗い時間」


***


「扉が、ゆるむ夜か」

『ジョン』が、腕を組んだ。

「うちの国のは、三回とも、開きかけて閉じた。……こっちのは、一回、開いてる」


***


五十年前の、冬至の夜に。


***


「一つ、いいかしら」

『レディー』が、爪から目を上げた。


***


「アメリカは、一か所ずつ開けようとして、一か所ずつ失敗してる。こっちは、この間、一晩で六か所、潰された」

『レディー』は、テーブルの上の手帳を見た。

「私があっち側なら、次は、まとめてやるわ。同じ夜に。全部」


***


誰も、否定しなかった。


***


「……根拠は、ないけどね」

「勘か」

『レスラー』が言った。

「勘よ。昔の仕事の」


***


赤城が、課長を見た。


***


「昨日の報告にあった、閉じ込める先の件」

「うん、うん」

課長が、頷いた。

「引きはがしたものを、入れておける場所は、神様の知る限り、一つだけだそうです」


***


「あの山の、窪みじゃ」

メレオスが言った。


***


「戸がゆるむ夜は、閉じる夜にもなる」

メレオスは、手帳の最後の二行を見ていた。

「開くなら、閉じられる。……入っとったわしが、言うんじゃ」


***


赤城は、しばらく、手帳を見ていた。


***


「冬至の夜、隠り山に入る」


***


赤城が、言った。

静かな声だった。


***


「向こうは、邪魔が入らないようにする、と言った。なら、邪魔をしに行く」

赤城は、俺を見た。

「共さんを確保し、中のものを引きはがして、あの山に閉じる。一人も死なせない。共さんも、含めてだ」


***


「……はい」


***


「健司くん」

「はい」

「課長の報告では、君ひとりで檻を保てるのは、十分だそうだな」

「……はい」

「冬至の夜は、長いぞ」


***


答えられなかった。


***


「一か月もない」

赤城は、立ち上がった。

「それまでに、方法を探せ。俺も、探す」


***


帰り際、赤城は、手帳の前で、少しだけ足を止めた。


***


右のページの、真ん中あたりを見ていた。

『健司、受け身、また鼻血』


***


赤城の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。

初めて見る顔だった。


***


その夜。

由紀に、電話をかけた。


***


「……お兄ちゃんから電話って、珍しいね」

「話がある」

「うん」


***


「じいちゃんが、冬至に、北に手を合わせてた理由。分かった」


***


電話の向こうが、静かになった。


***


「……教えてくれるの」


***


あたしは、全部言ったよ。

メレオスがいなくなった夜、由紀は、そう言った。

あのとき、俺は、答えられなかった。


***


「うん」


***


全部、話した。

手帳のこと。閉じていたページのこと。

五十五年分の、異状なし。

最後の二行。


***


冬至の夜に、山へ行くことも。


***


由紀は、途中で一度も、口を挟まなかった。


***


話し終えても、しばらく、何も言わなかった。


***


「……来年は、健司を、庭に呼ぶか、って」

由紀の声が、少しだけ、揺れていた。

「おじいちゃん、そう書いてたの」

「うん」

「……そっか」


***


鼻をすする音が、一回だけ聞こえた。

それから、いつもの声に戻った。


***


「じゃあさ」


***


「その日は、あたしが、庭に出る」


***


「実家の庭で、北に、手を合わせる。おじいちゃんの代わりに」

由紀は、言った。

「お兄ちゃんが、山から帰ってくるまで。ずっと」


***


「……寒いぞ」

「知ってる」

「一番、長い夜だぞ」

「知ってるってば」


***


「帰ってきたら、ゆず湯、入ってね」

由紀は、少しだけ笑った。

「柚子、浮かべすぎて、湯が見えないやつ」


***


電話を切ったあと、ソファの上で、メレオスがこっちを見ていた。


***


「……あの娘は、伊左衛門に、似とるのぉ」

「どこが」

「決めたら、聞かんところじゃ」


***


俺は、手帳を棚に戻さなかった。

テーブルの上に、開いたまま、置いておいた。


***


冬至まで、あと、一か月もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。