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第五十五章 空いた席

『ジョン』が、遅刻した。


***


0課に来てから、初めてのことだった。

二日酔いの朝でも、あの男は、始業の五分前には席にいた。

こっちじゃ前夜祭みたいなもんだ、と言って。


***


九時を回っても、『ジョン』の机は空いていた。


***


その隣で、メレオスがシュレッダーに紙を入れていた。

一枚ずつだった。

加藤さんの手帳には、『本日、詰まり、なし』と書いてあった。


***


お茶も、スプーン一杯で淹れたらしい。

課長が一口飲んで、「うん、うん。緑だね」と言った。


***


九時四十分。

ドアが開いた。


***


『ジョン』だった。


***


髭を、剃っていなかった。

シャツの襟が、片方だけ立っていた。

手に、スマホを握っていた。

握ったまま、放さなかった。


***


「……悪い」

『ジョン』は、自分の席に座らなかった。

課長の机の前まで、まっすぐ歩いていった。


***


「一件、見てもらいたいものがある」


***


十分後。

会議室に、全員がそろっていた。

『ギーク』は、壁の画面の中。今日は、肉まんを持っていなかった。


***


『ジョン』が、スマホの画面を、壁に映した。


***


英語のニュース記事だった。


***


見出しの名前は、俺でも聞いたことがあった。

アメリカの、元国防次官。

今は、どこかの研究機関の理事長をしている、白髪の男。

記事の写真の中で、上品に笑っていた。


***


「死んだ」

『ジョン』が言った。

「六日前の夜。西海岸の、自宅の書斎で」


***


「死因は」

『レスラー』が聞いた。


「心不全、と発表されてる」

『ジョン』は、記事の一行を指差した。

「見つかったとき、書斎の画面が、つけっぱなしだったそうだ。何も、映ってなかったらしいが」


***


何も映っていない画面。

俺は、その一行だけ、なぜか覚えておこうと思った。


***


「知り合いか」

「会ったことはない」

『ジョン』は、首を振った。

「だが、声は、知ってる。たぶん」


***


「前に、本国から電話が来た話をしただろ。『メリディアン』の名前を、二度と口にするな、って」

「昔の上司の、そのまた上の上司、だったか」

『レスラー』が言った。

「そうだ。その男が、ずっと頭を下げてた相手が、こいつだ」


***


『ジョン』は、画面の中の白髪の男を見た。


***


「一番、上の席が、一つ空いた」


***


会議室が、静かになった。


***


「……それだけなら、朝から騒がない」

『ジョン』は、スマホを操作した。

「今朝の四時に、これが来た」


***


画面が、切り替わった。


***


メッセージだった。

英語の、短い文章。

その下に、写真が何枚も続いていた。

手書きのメモを、スマホで撮ったものだった。


***


「差出人は」

課長が聞いた。


***


『ジョン』は、少しだけ黙った。


***


「相棒だ」


***


三年前の。

儀式のあとの現場を見て、辞めた人。

今は、ワイオミングで牧場をやっている人。


***


「三年、一度も、連絡はなかった」

『ジョン』の声は、平らだった。

「こっちから送っても、既読もつかなかった」


***


『ジョン』が、英語のメッセージを、声に出して訳した。


***


「『あの男が死んだ。ニュースは見たか』」


***


「『三年前、俺は、あることに気づいた。上に上げようとして、止められた。言えば、お前も、お前の家族も、ただでは済まないと言われた。だから、辞めた。牛の世話をして、忘れることにした』」


***


「『忘れられなかった』」


***


「『止めた男の上にいたのが、あの男だ。もう、いない。だから、送る。お前はまだ、追っているんだろう』」


***


『ジョン』は、そこで、一度だけ息を吸った。


***


「『日付を、見ろ。俺は、それ以上は、考えないことにした』」


***


最後に、頭文字が一つだけ、書いてあった。


***


誰も、しばらく、口を開かなかった。


***


『レディー』が、爪から目を上げていた。

いつから上げていたのかは、分からなかった。


***


「……暗号化、されてないですね。これ」

画面の中から、『ギーク』が言った。

小さな声だった。

「普通の回線で、普通に送ってる。わざとです」


***


「わざと」

「隠す気がないんです」

『ギーク』は、眼鏡を押し上げた。

「もう、隠れなくていいって思ってる人の、送り方です」


***


『ジョン』は、何も言わなかった。

スマホを握る手に、少しだけ力が入ったのが見えた。


***


「写真、もらえますか」

『ギーク』が言った。

「全部。解像度、落とさないで」


***


手書きのメモは、三枚あった。


***


一枚目は、東海岸の一件目。

二枚目は、東海岸の二件目。

三枚目は、西海岸。

三年前の、『ジョン』が間に合わなかった事件だった。


***


どれも、細かい字で、場所と、人数と、時刻が書いてあった。

それから、日付。

三枚とも、日付のところだけ、ペンで何度もなぞってあった。


***


「……『ジョン』さん」

「ああ」

「うちに来たときに見せてもらった、アメリカ側の資料。日付、黒塗りでしたよね」

「全部な。場所と、紋章しか、残ってなかった」


***


「日付が、塗られてたんです」

『ギーク』は、画面の向こうで、キーボードを叩き始めた。

「場所より、先に。場所は残して、日付だけ。変な塗り方だなって、ずっと思ってました」


***


壁の画面に、三つの日付が並んだ。


***


東海岸、一件目。十二月二十一日。

東海岸、二件目。十二月二十二日。

西海岸。十二月二十一日。


***


年は、全部違った。

何年も、離れていた。


***


「……月末でも、年末でもない」

『レスラー』が言った。

「二十一日と、二十二日。一日ずれてるのは、何だ」


***


「年によって、ずれるんです」

『ギーク』が言った。

「一年で、一番、昼が短い日」


***


「冬至、だね」

課長が言った。

いつもの相槌は、なかった。


***


「Winter solstice」

『ジョン』が、小さく繰り返した。

「……三年前の、あの夜も、長かった。やけに、長かった」


***


一年で、一番、夜が長い日。


***


その言い方を、最近、どこかで読んだ気がした。


***


「儀式の時刻も、揃ってます」

『ギーク』が、続けた。

「三件とも、日没から、夜明けまでのあいだ。一番、暗い時間の真ん中あたり」


***


「それと」


***


『ギーク』の声が、少しだけ、変わった。


***


「この日付を見てから、五十年前のほうのファイルを、もう一回見たんです。『メリディアン』の単語を拾った、あの黒塗りの」

「ああ」

「年のところは、読めるんです。でも、月と日の欄だけ、全部塗られてました。……ただ」


***


画面の一部が、拡大された。

黒い帯の、一番端。

ほんの少しだけ、塗り残しがあった。


***


アルファベットが、三つ。

かすれて、半分欠けていた。


***


D。E。C。


***


「十二月、です」

『ギーク』が言った。

「日にちは、読めません。でも、五十年前のも、十二月でした」


***


五十年前。

昭和四十五年。

共さんが、隠り山から戻らなかった年。


***


背中のあたりで、メレオスが、身じろぎした気がした。

振り返ると、メレオスは、会議室の隅の椅子で、膝を抱えていた。

何も言わなかった。


***


「うん、うん」

課長が、ようやく言った。

「冬至は、今年は、いつだったかな」


***


加藤さんが、手帳を開いた。

カレンダーのページを、指でなぞった。


***


「……あと、一か月、ないくらいです」


***


誰も、何も言わなかった。


***


アメリカの扉は、三回、開きかけて、閉じた。

全部、冬至の夜だった。

それが分かっただけだった。

今年の冬至に、どこで、何が起きるのかは、誰にも分からなかった。


***


「赤城さんには、僕から上げるよ」

課長が言った。

「『ジョン』くんの相棒さんの名前は、出さない。それで、いいね」


***


「……助かります」

『ジョン』が、頭を下げた。

0課に来てから、初めて見る下げ方だった。


***


会議が終わって、みんなが席に戻っていった。


***


『ジョン』だけが、会議室に残っていた。

スマホに、何かを打っていた。

打っては、消していた。


***


俺も、なんとなく、出ていけなかった。


***


「返事、ですか」

「ああ」

『ジョン』は、画面を見たまま言った。

「三年ぶりに、何て書けばいいのか、分からない」


***


少し考えてから、言った。


***


「牛、元気か、とかでいいんじゃないですか」


***


『ジョン』が、顔を上げた。

しばらく、俺を見ていた。


***


それから、笑った。

今朝、初めての笑い方だった。


***


「日本人は、そういうところが、ずるいな」


***


『ジョン』は、短く打って、送った。

何を書いたのかは、見なかった。


***


一分もしないうちに、スマホが震えた。


***


『ジョン』は、画面を見て、目元を指で押さえた。

写真だった。

茶色い牛が、柵の向こうから、こっちを見ていた。


***


その夜。


***


アパートに帰ると、メレオスは、ソファの上で、金色のスマホを見ていた。

ガチャの画面ではなかった。

カレンダーだった。


***


一か月足らず先の日に、印がついていた。

ひらがなで、一言。


***


『かきんのひ』


***


メレオスは、その字を、じっと見ていた。

指で、なぞってもいなかった。

ただ、見ていた。


***


「……健司」

「なんだ」

「今日の、あの話じゃがな」


***


そこで、メレオスは、黙った。

続きは、言わなかった。


***


「……いや。何でもない」


***


メレオスは、スマホを伏せて、ソファに横になった。

神は寝ん、と言い張っていたくせに、目を閉じた。


***


俺は、台所で、お湯を沸かした。

湯気を見ていたら、肉じゃがの夜のことを、思い出した。


***


由紀が、ガチャの画面を見ながら、言っていた。


***


おじいちゃん、毎年、ゆず湯やってたよね。


***


入る前に、毎年、北のほうに、手、合わせてたじゃん。庭に出て。


***


冬の、一番寒い夜に。


***


違う。

寒い夜、じゃない。


***


ゆず湯は、冬至にやるものだ。


***


じいちゃんは、毎年、一年で一番長い夜に、北を向いて、手を合わせていた。


***


やかんが、鳴った。

俺は、火を止めるのを、忘れていた。


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