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第五十三章 既読と、お駄賃

ぴろん。


***


ぴろん。ぴろん。


***


朝の0課に、通知音が鳴り続けていた。

鳴っているのは、俺のスマホだった。

課長のも、加藤さんのも、『レスラー』のも。

全員のだった。


***


『おっす』


***


『おら めれおす』


***


『かみであるぞよ』


***


「……名乗りを、三回に分けるな」


***


隣の机を見た。

メレオスが、机の上に正座していた。

金色のスマホを両手で持って、人差し指一本で、ゆっくり画面を押していた。


***


「机の上は、席じゃないね」

課長が、自分の画面を見たまま言った。

メレオスは、黙って椅子に降りた。


***


グループを作ったのは、『ギーク』だった。

0課の業務連絡用の、暗号化されたアプリ。

市販のものは覗けるから使わない、と本人は言っていた。

覗く側の人間が言うと、説得力があった。


***


そこに、今朝、加藤さんがメレオスを招待した。


***


グループの名前は、昨日まで『0課(八名)』だった。

今朝から、『0課(九名)』になっていた。


***


「報告書と、揃えておきました」

加藤さんが、にこにこ言った。


***


返事が、次々に来た。


***


加藤さんからは、『メレオスさん、ようこそ。羊羹は、給湯室の右の棚です』。

『レスラー』からは、力こぶのスタンプが一つ。

『ジョン』からは、『Welcome, God.』。

『レディー』からは、『ふーん』。


***


課長からは、『うん、うん』。

打つんだ、それ。


***


『ホラー』からは、少し遅れて、一行だけ来た。

『後ろの子じゃ、なくなりましたね』


***


最後に、壁の画面の中から、『ギーク』。

『スタンプ、三百種類入れときました。神様用に』


***


それが、間違いだった。


***


ぴろん。ぴろん。ぴろん。ぴろん。


***


メレオスが、スタンプを押していた。

一つずつ、全部。

猫が踊るやつ。パンダが土下座するやつ。「了解」と書いた侍。

三百種類を、上から順番に。


***


「健司。これは、何じゃ」

メレオスが、画面の端を指差した。

小さな字で、『既読8』と出ていた。


***


「読んだ、って印だ」

「読んだ」

「グループの八人が、今のを見たってこと」


***


メレオスは、しばらく、その数字を見つめていた。


***


「……八人が、わしを、読んだのか」


***


声が、少し震えていた。

感動していた。


***


それから、また押し始めた。

さっきより速かった。


***


ぴろん。ぴろん。ぴろん。


***


『レスラー』の胸ポケットで、スマホが震えていた。

分厚い胸筋ごと、震えていた。


***


『ジョン』が、画面を見ながら言った。

「俺の国では、これを、スパムと呼ぶ」

「すぱむ、とは何じゃ」

「缶詰だ」

「うまいのか」

「……うまい」

嘘ではなかった。


***


『ホラー』は、何も言わずに、スマホを裏返して机に置いた。

通知を、切ったらしかった。


***


「同じ部屋にいるんだから、口で言え」

「口では、既読がつかん」


***


正論なのかどうか、分からなかった。


***


ぴろん。


***


一回だけ、違う音が鳴った。

メレオスのスマホだけだった。


***


「……む」


***


グループではなかった。

知らない番号から、メッセージが一件、来ていた。


***


文字は、なかった。

写真が一枚だけだった。


***


羊羹だった。

白い皿の上に、きっちり一切れ。

背景に、どこかの重たそうな机の木目が写っていた。


***


「誰じゃ、これは」


***


全員が、課長を見た。

なぜかは分からないが、全員が、課長を見た。


***


課長は、湯呑みを持ったまま、窓の外を見ていた。


***


「昨日の夜ね。赤城さんから、電話があってね」

「はい」

「神様の連絡先を、聞かれた」

「……それで」

「聞かれたからね。答えたよ」


***


聞かれたら、答えようか。

慰安旅行の夜に、そう言っていた人だった。


***


メレオスは、写真をじっと見た。

それから、机の上の、加藤さんが出してくれた羊羹を、スマホで撮った。

送った。


***


一分後。

返事が来た。


***


羊羹の写真だった。

さっきとは、別の羊羹だった。

栗が、入っていた。


***


メレオスの目が、光った。


***


「健司。肉まんを、出せ」

「ない」

「『ギーク』。肉まんを、出せ」

「これは、私のです」

「一個でよい。写真だけじゃ。撮ったら、返す」


***


画面の向こうから、『ギーク』が、肉まんを一つ、カメラに近づけた。

メレオスは、壁の画面ごと、それを撮った。

送った。


***


既読が、ついた。

返事は、来なかった。


***


三十分後。

肉まんの写真が、一枚、届いた。


***


どこかの重たそうな机の上に、コンビニの袋と、肉まんが一つ、載っていた。


***


国務大臣と、神様が、食べ物の写真だけで会話していた。

文字は、一文字もなかった。


***


「……あの人、ああいうこと、するんだ」

『レディー』が、珍しく、爪から目を上げていた。


***


昼前には、スタンプの嵐も落ち着いた。

三百種類を、全部押し終わったからだった。


***


メレオスが、俺の袖を引いた。


***


「健司」

「なんだ」

「上限を、上げい」


***


来た。


***


昨日の夜、契約から六時間で、千円はなくなっていた。

今朝、ガチャのアプリを開いたメレオスは、画面に出た『今月の上限に達しました』の文字を、五分くらい黙って見ていた。


***


「上げない」

「なぜじゃ」

「一晩で千円使うやつに、上げる理由がない」

「世のため人のための、千円じゃ」

「ガチャだろ」


***


壁の画面から、『ギーク』の声がした。

「上限、外せますけど」


***


「外すな」

「冗談です。半分は」

「どっちの半分だ」


***


「じゃあ」

加藤さんが、手帳を開いた。

「お手伝いしてくれたら、お駄賃、出しましょうか」


***


メレオスが、振り返った。


***


「一件、十円。私のお財布からです」

加藤さんは、ペンを構えた。

「経費では、落ちませんので」


***


経費の話になると、加藤さんは一ミリも譲らない。

課長の慰労会も、歓迎会も、露天風呂の弁償も、そうだった。


***


「……十円」

メレオスが、繰り返した。

「子供のお手伝いだな」

「わしは、子供ではない」

「じゃあ、やらないのか」

「やる」


***


即答だった。


***


「稼いだぶんだけ、上限に足してやる」

俺は言った。

「それでいいな」

「男に、二言はないな」

「ない」

「神にも、ない」


***


内職が、始まった。


***


一件目。シュレッダー。


***


「一枚ずつでは、日が暮れる」

メレオスは、書類の束を、まとめて押し込んだ。

シュレッダーが、低い声で唸った。

止まった。


***


『レスラー』が、無言で立ち上がり、詰まった紙を指二本で引き抜いた。

一回で抜けた。


***


「詰まらせたので、マイナス五円です」

加藤さんが、手帳に書いた。


***


「引かれるのか!」

「引かれます」


***


二件目。お茶くみ。


***


メレオスは、急須に、茶葉を山盛りに入れた。

山盛りの上に、さらに盛った。


***


神の世話は、量じゃ。

肉じゃがの夜にも、聞いた。


***


出てきたお茶は、緑ではなかった。

ほとんど、黒かった。


***


課長が、一口飲んだ。


***


「……うん」

しばらく、黙った。

「目が、覚めたね」


***


十円だった。


***


三件目。判子押し。


***


加藤さんが、書類の束と、認印を一本、メレオスの前に置いた。

「ここと、ここと、ここ。三か所です」


***


メレオスは、真剣な顔で、朱肉に判子を押しつけた。

一枚目。三か所。

二枚目。三か所。


***


判子の字が、見えた。

小沢、と彫ってあった。


***


「……加藤さん」

「はい」

「それ、何の書類ですか」

「露天風呂の弁償の、分割払いの確認書です」


***


俺の給料が引かれる書類に。

俺の判子を。

神様が、押していた。


***


「本人確認は」

「小沢さんの判子ですから」

「押してるの、俺じゃないです」

「メレオスさんは、小沢さんの守護神ですから」


***


理屈が、通っているのかどうか、分からなかった。

メレオスは、四枚目に進んでいた。


***


四件目。肉まんの買い出し。


***


『ギーク』の、明日の出社ぶんだった。

十個。


***


「わしが行く」

メレオスは、加藤さんから千円札を二枚受け取って、ドアの向こうに消えた。


***


店の人には、見えるようにしていくらしい。

金髪の子供が、一人で肉まんを十個買いに来る。

それはそれで、目立つと思った。


***


二十分後。

メレオスは、紙袋を両手で抱えて戻ってきた。


***


肉まんは、十一個入っていた。


***


「おまけじゃ」

メレオスが、胸を張った。

「店の者が、偉いねえ、と言うて、一個くれた」


***


壁の画面の中で、『ギーク』が、眉間に皺を寄せた。


***


「おまけは引けるのに、ガチャは引けないんですね」

「黙っとれ」


***


夕方までに、メレオスは、二十四件の仕事をした。


***


シュレッダーを、あと三回。今度は、詰まらせなかった。

コピー機の紙の補充。

『レスラー』との腕相撲。これが仕事に入るのかは、加藤さんが決めた。入った。

『ホラー』の机の、観葉植物の水やり。

『ホラー』は、植物の葉を見て、「喜んでますね」と言った。本当かどうかは、誰にも分からなかった。


***


加藤さんが、手帳を見ながら、電卓を叩いた。


***


「二十四件で、二百四十円。シュレッダーのマイナス五円で」

小さな、がま口の財布を開いた。

「二百三十五円です」


***


百円玉が二枚。十円玉が三枚。五円玉が一枚。

メレオスの手のひらに、一枚ずつ、置かれた。


***


メレオスは、手のひらを、じっと見ていた。


***


「……健司」

「なんだ」

「わしが、稼いだ金じゃ」


***


神様が、二百三十五円を、両手で包んでいた。


***


「上限は、千二百三十五円な」

「半端じゃな」

「お前が、詰まらせたからだ」


***


帰り支度をしていると、机の横に、影が立った。


***


『レディー』だった。


***


「今日、空いてるわよね」

「……空いてますけど」

「貸し、返してもらうわよ」


***


慰安旅行の夜の、あれだった。

竹の塀を倒した、あれだった。


***


「高いって、言ったわよね」


***


一時間後。

俺は、デパートの冬物売り場で、紙袋を持って立っていた。


***


『レディー』は、服を選ぶのが速かった。

手に取る。

一秒見る。

籠に入れるか、戻すか。

試着は、しなかった。


***


「着てみないんですか」

「見れば分かるわよ。仕事柄」


***


どんな仕事柄なのかは、聞かなかった。

昔の仕事の話は、前に一度、少しだけ聞いていた。


***


紙袋が、三つになった。

五つになった。

七つになった。


***


背中のあたりで、メレオスが、スマホを見ていた。

今日は、俺にしか見えないようにしているらしい。

千二百三十五円の、残り二百三十五円の使い道を、ずっと考えていた。


***


右腕が、少し震えた。


***


箸は、もう持てる。

芋も、縦には回らない。

それでも、紙袋七つは、まだ重かった。


***


『レディー』が、振り返った。

俺の右手を、見た。


***


「……まだ、戻ってないのね」


***


一番軽そうな紙袋を、一つだけ、俺の手から取った。

それだけだった。


***


最後の売り場は、手袋だった。

『レディー』は、黒い革の手袋を一組、ほとんど見ずに買った。

男物だった。


***


店を出たところで、その小さな紙袋を、俺の胸に押しつけてきた。


***


「冬に右手を冷やすと、治りが遅いのよ」

「……え」

「それ、治ってから言いなさい、みたいな顔しないで」


***


「これ、貸しに入りますか」

「入るわよ」

『レディー』は、もう前を向いて歩いていた。

「高いわよ」


***


減らない貸しだった。


***


駅までの近道に、古い商店街を抜けた。

シャッターの下りかけた八百屋の前を、通った。


***


黄色が、目に入った。


***


店先に、柚子が一箱、出ていた。

手書きの札に、『入荷しました』とだけ書いてあった。


***


まだ、少し早い気がした。


***


「何」

『レディー』が、振り返った。

「いえ」

俺は、紙袋を持ち直した。


***


家に帰ると、メレオスが、ソファの上で跳ねていた。


***


「健司!」

「なんだ」

「出たぞ! 星四じゃ!」


***


金色のスマホを、突き出してきた。

画面の中で、キャラクターが、きらきら光っていた。


***


「二百三十五円で、一回だけ、引けた」

「で、出たのか」

「出た」


***


メレオスは、スマホを抱きしめた。


***


「わしの運で。わしの稼いだ金で。わしの板で、出たんじゃ」


***


「神の運は、世界のために取ってあるんじゃなかったのか」

肉じゃがの夜、由紀にそう言っていたはずだった。


***


メレオスは、一瞬、黙った。


***


「……ちいとばかし、借りた」

「返しとけよ」

「利子をつけて、返す」


***


ぴろん。


***


グループに、通知が一件、来た。

加藤さんからだった。


***


『明日のお手伝い:シュレッダー(詰まらせないこと)。お茶くみ(茶葉はスプーン一杯)』


***


メレオスは、それを読んで、真剣な顔で頷いた。

それから、スタンプを一つだけ、返した。


***


「了解」と書いた、侍だった。


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