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第五十二章 肉じゃがと、新規契約

箸が、持てなかった。


***


正確には、持てる。

持った瞬間に、指がぷるぷる震えて、箸が交差する。

交差した箸は、じゃがいもを掴まない。

弾く。


***


じゃがいもは、テーブルの上を転がって、メレオスの膝に落ちた。


***


「……神に、芋を投げるでない」

「投げてない」

「落ちてきたぞ」

「落としたんだ」


***


檻の反動だった。

右腕は、昨日の夜から、まだ半分しか言うことを聞かない。


***


「左で食べれば?」

由紀が、自分の肉じゃがを食べながら言った。


***


左で持った。

右よりひどかった。

箸が、手の中で、なぜか縦に回転した。


***


由紀が、黙ってスマホを構えた。


***


「撮るな」

「由紀ノート」

「ノートは、書くもんだろ」

「今は、動画も貼れるんだよ」


***


由紀は、ひとしきり撮ってから、スマホを置いた。

それから、自分の箸で、じゃがいもを一つ、つまんだ。


***


「はい」

「……何」

「あーん」


***


「しない」

「なんで」

「二十九だぞ、俺は」

「二十九歳が、芋を縦に回してたじゃん」


***


正論だった。

うちの家系は、正論が強い。


***


「待たんか」


***


横から、メレオスが割り込んだ。

右手に、スプーンを持っていた。

どこから出したのかは、聞かなかった。


***


「由紀。それは、わしの役目じゃ」

「なんで」

「わしは、守護神じゃぞ。健司の身の回りの世話は、守護神の仕事じゃ」

「かみさま、今まで一回も、ご飯作ったことないじゃん」

「……守る、と、作る、は、違う」


***


メレオスは、スプーンで肉じゃがをすくった。

じゃがいもと、にんじんと、牛肉と、しらたき。

全部、一度に。


***


山盛りだった。

スプーンから、汁が垂れていた。


***


「ほれ、健司。神の手ずからじゃ。ありがたく――」

「でかい」

「神の慈悲は、でかいもんじゃ」

「口に入らない」

「入れい」


***


押し込まれた。


***


熱かった。

できたてだった。

由紀が、鍋ごと持ってきた肉じゃがは、まだ湯気を立てていた。


***


「あふっ、あふ」

「ほれ見い。うまかろう」

「あふい」

「うまいと言え」


***


由紀が、自分の箸を構え直した。

目が、据わっていた。


***


「かみさま、それ、ずるい」

「何がじゃ」

「量で勝とうとしてる」

「神の世話は、量じゃ」


***


「じゃあ、あたしは、質で行く」


***


由紀は、じゃがいもを一つ、箸で丁寧に半分に割った。

ふうふうと、息を吹きかけた。

それから、俺の口の前に差し出した。


***


「はい、お兄ちゃん。熱くないやつ」


***


口の中には、まだメレオスの山盛りが残っていた。


***


「……もごっ」

「飲み込んでから」

「わしのが、まだ入っとる」

「かみさまのが、多すぎるの」


***


右から、由紀の箸。

左から、メレオスのスプーン。


***


俺の頬は、ハムスターみたいになっていた。


***


由紀が、片手でスマホを構えた。

もう片方の手で、箸を差し出したまま。


***


「撮るな」

「もごもご言っても、分かんない」


***


十分後。

鍋は、空になっていた。

七割は、俺の口に押し込まれた分だった。


***


「……ごちそうさま」

「はーい」

「うむ」

二人とも、なぜか満足そうだった。


***


お茶を飲んで、ようやく、落ち着いた。

左手で湯呑みを持つのは、なんとかできた。


***


「で」

由紀が、テーブルに頬杖をついた。

「昨日の、どうだったの」


***


どこから話すか、少し迷った。

一番、話しやすいところから話すことにした。


***


「赤城さんに、ばれた」

「……何が」

「こいつが」


***


俺は、メレオスを顎で指した。

メレオスが、胸を張った。


***


「ばれたのではない。見せてやったんじゃ」


***


由紀の目が、丸くなった。


***


「え、大臣に?」

「うむ」

「あの、丁寧なのに怖い人に?」

「うむ」

「ぬいぐるみ、見せたの?」

「ぬいぐるみでは、ない」


***


「なんて言ったの、最初」

「オッス! おらメレオス!」

「……それ、大臣に?」

「神であるぞよ、とも言うた」


***


由紀が、両手で顔を覆った。

肩が、震えていた。

笑っていた。


***


「見たかった……」

指の隙間から、声がした。

「めちゃくちゃ、見たかった……」


***


「羊羹を、食うておる途中じゃった」

「何やってんの」

「うまかったぞ。大臣も、うまかったか、と聞いてきた」

「大臣と羊羹の話したの?」

「二回じゃ」

「二回も!?」


***


由紀は、テーブルに突っ伏した。

しばらく、起き上がらなかった。


***


「……ずるい」

突っ伏したまま、言った。

「あたしだって、大臣と羊羹の話、したことないのに」


***


そこなのか。


***


「いや、普通、しないだろ」

「かみさまは、したんでしょ」

「神は、普通ではないからのぉ」


***


由紀が、ようやく顔を上げた。

それから、スマホを取り出した。


***


「罰として」

「何の罰じゃ」

「あたしを置いて、面白いことした罰。ガチャ、一回、あたしが引く」

「わしのガチャを、か」

「かみさまのじゃないでしょ。あたしのスマホでしょ」


***


アプリが、立ち上がった。

派手な音楽が鳴った。


***


画面の真ん中に、でかでかと、予告の看板が出た。


***


『冬至限定 ゆず湯ガチャ 近日開催』


***


「ゆず湯ガチャ」

メレオスが、読み上げた。

「何じゃ、それは」

「季節のイベント。ゆず湯に浸かってる限定キャラが出るの」

「……風呂に浸かっとるだけで、限定になるのか」

「なるの」


***


「冬至かあ」

由紀が、画面を見ながら、ぽつりと言った。


***


「おじいちゃん、毎年、ゆず湯やってたよね」

「ああ」

「うちの庭の柚子、全部取って、湯船に浮かべてさ」

「浮かべすぎて、湯が見えなかったな」


***


「それでさ」

由紀は、画面をスクロールしながら、続けた。

「入る前に、毎年、北のほうに、手、合わせてたじゃん。庭に出て」


***


覚えていた。


***


冬の一番寒い夜に、じいちゃんが、庭に出て、北を向いて、しばらく手を合わせていた。

子供の頃の俺は、それを、ゆず湯の儀式だと思っていた。


***


「あれ、なんだったんだろうね」

由紀が言った。

「一回、聞いたことあるんだよね。何してるの、って」


***


「なんて言ってた」

「『忘れんように、じゃ』って」


***


由紀は、笑った。

「何を? って聞いたら、ゆず湯が冷めるぞ、って、はぐらかされた」


***


メレオスが、湯呑みを置いた。


***


「……ほう」


***


それだけだった。

メレオスは、また湯呑みを持ち上げて、お茶を飲んだ。


***


俺は、由紀の画面の、ゆず湯に浸かったキャラクターを見ていた。


***


「当たった!」

由紀の声で、我に返った。

「かみさま、見て。星四」

「なにっ」


***


メレオスが、身を乗り出した。

画面の中で、キャラクターが、きらきら光っていた。


***


「……由紀が引くと、出るんじゃな」

「かみさまが引くと、出ないんだよね」

「神の運は、世界のために取ってあるんじゃ」

「言い訳じゃん」


***


メレオスは、しばらく、由紀のスマホを見つめていた。

それから、真顔で言った。


***


「わしも、板が、欲しい」


***


「板?」

「これじゃ」

メレオスは、由紀のスマホを指差した。

「わしの板じゃ。わしが、わしの運で、わしのガチャを引く。わし専用の板じゃ」


***


由紀の目が、きらりと光った。


***


仕事の目だった。


***


三日後。


***


右腕は、だいぶ戻っていた。

箸は、持てるようになった。

芋も、縦には回らなくなった。


***


俺は、由紀の店の前に立っていた。


***


あの男が来た店だった。

自動ドアの前で、少しだけ、足が止まった。


***


「何をしとる。はよ入らんか」

足元で、メレオスが言った。

今日は、見せる相手を、俺と由紀の二人に絞っているらしい。

店の中の人には、見えない。


***


自動ドアが開いた。


***


「いらっしゃいませ」


***


カウンターの向こうに、由紀がいた。

制服を着て、髪をまとめて、名札をつけていた。


***


背筋が、伸びていた。

笑顔が、完璧だった。

知らない人みたいだった。


***


「本日は、どのようなご用件でしょうか」


***


「……由紀」

「お客様。こちらへどうぞ」


***


敬語だった。

妹に、敬語で案内された。

二十九年生きてきて、初めてだった。


***


カウンターの前に、椅子が二つあった。

俺が片方に座った。

メレオスが、もう片方に、よじ登った。


***


カウンターが、高かった。

メレオスの頭は、カウンターの縁から、目から上しか出ていなかった。


***


「……見えん」

メレオスが言った。

由紀は、無言で、足元から踏み台を一つ出して、椅子の上に置いた。

子供の客用らしかった。


***


メレオスは、踏み台の上に正座した。

ようやく、顔が出た。


***


「新規のご契約、でよろしいですね」

由紀は、メレオスのほうを見て、にっこり笑った。

「うむ」

「かしこまりました。では、料金プランのご案内から」


***


由紀が、パンフレットを開いた。

メレオスの前に、きっちり向きを揃えて置いた。


***


「こちらが、データ量無制限のプラン。こちらが、月二十ギガのプラン。こちらが、三ギガまでのプランです」


***


「ぎが」

メレオスが言った。

「……ぎが、とは、何じゃ」


***


「データの量です」

「量」

「ガチャをたくさん引くと、ギガが減ります」

「減るのか」

「減ります」

「減ると、どうなる」

「遅くなります」


***


メレオスは、腕を組んだ。

深刻な顔だった。


***


「つまり、ぎが、とは、板の命のようなものか」

「……だいたい、合ってます」

「ならば、無制限じゃ。命は、無制限に限る」


***


「かしこまりました」

由紀は、にっこり笑って、チェックをつけた。

値段の欄は、見なかった。

俺は、見た。


***


「5G対応の機種になりますが」

「ごじー」

「通信の、速さの段階です」

「段階」

メレオスの目が、光った。

「……わしは、神としては、どの段階じゃ」

「かみさまは、測ったことないので分かりません」

「測らんでもよい。五より上じゃ」


***


カウンターの端で、店長らしき人が、こっちを見ていた。


***


店長には、メレオスが見えていない。

見えているのは、誰もいない椅子と、その椅子の上の踏み台と、踏み台に向かって真剣にプランを説明している由紀と、それを隣で黙って見ている俺だった。


***


店長の顔が、少しずつ、心配そうになっていった。


***


「では、ご本人様確認のため、身分証をお願いいたします」


***


メレオスが、止まった。


***


「……みぶんしょう」

「運転免許証、マイナンバーカード、パスポートなど」

「持っとらん」

「保険証は」

「持っとらん」

「学生証などでも」

「神は、学校に行かん」


***


由紀は、にっこり笑ったまま、言った。


***


「では、ご契約は、いたしかねます」


***


「……なにっ」


***


「神であるぞよ!」

メレオスが、踏み台の上で立ち上がった。

「異世界より来たりし神、メレオスであるぞよ!」


***


「神様でも、です」

由紀は、一ミリも笑顔を崩さなかった。

「身分証のない方は、ご契約いただけません。規則ですので」


***


プロだった。


***


店長が、カウンターの端から、そっと近づいてきた。


***


「……小沢さん」

小声だった。

「お兄さん、大丈夫? さっきから、その……」

店長は、誰もいない椅子を、ちらっと見た。

「空いてる椅子に、踏み台、置いてるけど」


***


「あ、はい」

由紀は、店長に向き直って、完璧な笑顔のまま言った。

「兄が、ちょっと、仕事で疲れてて」


***


店長は、俺を見た。

すごく、優しい目だった。


***


「……無理しないでくださいね、お兄さん」


***


店長は、そっと離れていった。

去り際に、カウンターの飴を一つ、俺の前に置いていった。


***


「……なんで、俺が疲れてることになってるんだ」

「かみさまが疲れてるって言うより、いいでしょ」

由紀が、小声に戻って言った。


***


「で、どうする。身分証」

「どうもならん」

メレオスが、踏み台の上で、膝を抱えていた。

「神には、身分がない。身分がなければ、板もない。……世知辛い世じゃ」


***


身分証が、ない。


***


ふと、思った。


***


こいつは、どこの役所の紙にも載っていない。

それでも、ここにいる。

踏み台の上で、膝を抱えて、ガチャを引きたがっている。


***


紙の上にいないのに、確かにいる。

共さんも、同じだった。


***


「方法は、あります」


***


由紀の声で、我に返った。

仕事の声だった。


***


「契約者は、お兄ちゃ……お客様のお名前で。で、実際に使う人を、利用者として登録します」

由紀は、別の書類を出した。

「お子様にスマホを持たせるときと、同じやり方です」


***


「お子様」

メレオスが、繰り返した。

「……今、お子様と言うたか」

「言いました」


***


「わしは、お子様では、ない」

「見た目は、お子様です」

「中身は、ずっと上じゃ」

「書類は、見た目で判断します」


***


規則ではなかった。

たぶん、由紀の判断だった。


***


「では、利用者様のお名前を」

「メレオス」

「カタカナで、よろしいですか」

「……かたかな?」

「よろしいですね」


***


由紀は、利用者の欄に、きれいな字で書いた。

メレオス。


***


「生年月日は」


***


メレオスが、考え込んだ。


***


「……分からん」

「分からない」

「数えるのを、やめた。だいぶ前にじゃ」


***


「じゃあ」

由紀は、ペンを止めずに言った。

「お兄ちゃんと同じで、いいか」


***


「待て」

「はい、書きました」

「わしが、健司と同い年になるではないか!」

「書類上は、双子ですね」


***


俺とメレオスが、同時に、由紀を見た。


***


由紀は、にっこり笑った。


***


「続いて、フィルタリングの設定です」

由紀は、画面を操作しながら、淡々と言った。

「利用者様が未成年の場合、有害なサイトを制限する設定を――」

「わしは未成年ではない」

「書類上は、お兄ちゃんと同い年ですので、成人ですね」

「……そうじゃ。成人じゃ」

「では、フィルタリングは、外します」


***


メレオスが、満足そうに頷いた。


***


「そのかわり」

由紀が、指を一本立てた。

「課金の上限を、設定します」


***


「……なんじゃと」


***


「保護者様――じゃなかった、契約者様のご希望で、月の上限額を決められます」

由紀は、俺を見た。

「お客様。おいくらに、なさいますか」


***


メレオスが、俺を見た。

すがるような目だった。


***


神様が、俺に、すがっていた。


***


「……千円で」


***


「千円!?」

メレオスが、踏み台の上で跳ねた。

「千円で、ガチャが何回引けると思うとる!」

「何回」

「……知らん。じゃが、少ないのは分かる!」


***


「かしこまりました。月千円で、設定いたします」

由紀は、画面をタップした。

迷いがなかった。


***


「由紀! お主は、わしの味方ではなかったのか!」

「あたしは、お店の味方です」


***


最後に、機種を選んだ。

メレオスは、並んだ見本の中から、迷わず一台を指差した。


***


金色だった。


***


「髪と、揃えたのか」

「神の色じゃ」

それだけは、譲らなかった。


***


店を出るとき、由紀が、カウンターの向こうで深々とお辞儀をした。


***


「ありがとうございました。またのご来店を、お待ちしております」


***


最後まで、敬語だった。

自動ドアが閉まる直前、顔を上げた由紀が、一瞬だけ、いつもの顔で舌を出した。


***


帰り道、メレオスは、金色のスマホを両手で抱えて歩いていた。

道行く人には、スマホだけが、宙に浮いて移動しているように見えるかもしれない。


***


「それ、しまえ」

「しまわん」

「浮いて見える」

「見せたい者にしか、見えんのは、わしだけじゃ。板は、関係ない」

「だから、しまえって」


***


仕方なく、俺がスマホを預かった。

メレオスは、ずっと、俺のポケットを見ていた。


***


その夜。


***


風呂から上がると、自分のスマホに、通知が二件、来ていた。


***


一件目は、知らない名前からだった。


***


『めれおす』


***


ひらがなだった。

メッセージは、一行だけだった。


***


『にくまん かえ』


***


リビングを見た。

ソファの上で、メレオスが、金色のスマホを両手で持って、こっちを見ていた。


***


「……同じ部屋にいるだろ」

「届いたか」

「届いた」

「うむ。板は、ええのぉ」


***


満足そうだった。


***


二件目は、由紀からだった。


***


『かみさまのガチャ代、請求お兄ちゃんに来るからね』

『あと、店長が、お兄ちゃんに飴もう一個あげたいって言ってた』

『ほんとに、無理しないでね』


***


最後の一行にだけ、(笑)がついていなかった。


***


気のせいだと、思うことにした。


***


ソファの上で、メレオスが、声を上げた。


***


「健司!」

「なんだ」

「千円、もう、なくなったぞ!」


***


契約してから、まだ、六時間だった。


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