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第五十一章 全部、話す日

「今日は、わしも行く」

朝、ネクタイを締めていると、メレオスが言った。


***


「……いつも来てるだろ」

「そうではない」

メレオスは、ソファの上で正座していた。

「赤城にも、見せる」


***


ネクタイを締める手が、止まった。

右腕は、まだ少し痺れていた。

結び目が、いつもより二回多くかかった。


***


「いいのか」

「お主、全部話すと言うたじゃろう」

「言った」

「共のことを話せば、どうやって知ったかを聞かれる」

「……うん」

「わしが封印の中で見た、と言うて。見えん者が、信じるか」


***


正論だった。


***


「それにな」

メレオスは、膝の上で手を組んだ。

「あやつは、山の帰りに、お主の背中に頭を下げた」

「……見てたのか」

「背中におったからのぉ」


***


「頭を下げられっぱなしでは、神の沽券にかかわる」


***


十時。

0課の会議室に、全員がそろっていた。


***


課長。『レスラー』。『レディー』。『ホラー』。

『ジョン』。加藤さん。

『ギーク』は、壁の画面の中。今日は、肉まんを片手に持っていた。


***


それから、赤城。

いつもの椅子に座って、背筋を伸ばしていた。


***


加藤さんが、赤城の前にお茶を置いた。

それから、隣の空いた椅子の前にも、お茶と羊羹を置いた。


***


今日は、羊羹が二切れだった。


***


赤城は、その皿を見た。

一秒。

それから、何も言わずに、前を向いた。


***


「報告を、聞こう」

赤城が言った。

「昨日の、続きだ」


***


俺は、立ち上がった。


***


どこから話せばいいのか、一晩考えた。

結局、一番短いところから話すことにした。


***


「倉庫の男は、共さんです」


***


会議室が、静かになった。


***


「じいちゃんの、弟弟子です。五十年前、じいちゃんと二人で、隠り山に入った人です」


***


順番に、話した。


***


五十年前の、あの山で。

共さんの中に、何かが入ったこと。

じいちゃんには、気功があったから、入れなかったこと。

下地のない共さんにだけ、入ったこと。


***


撃てば、共さんごと死ぬ。

だから、じいちゃんは撃てなかった。

共さんの体ごと、山から追い出すことしか、できなかった。


***


「殺さずに、追い返しただけ」

その言葉の、本当の中身だった。


***


共さんが、年を取っていないこと。

免許の生年月日が、本物だったこと。

倉庫で『ジョン』を狙ったのも、由紀の店に来たのも、同じ体だということ。

それを動かしているのは、ほとんどの時間、共さんじゃないということ。


***


「昨日、檻の中で喋ったのは」

俺は、一度だけ息を吸った。

「共さん、本人です」


***


話し終えても、しばらく、誰も口を開かなかった。


***


最初に動いたのは、『ホラー』だった。

「やっぱり」

小さく、頷いた。

「倉庫のとき、中に、入ってましたから。外側と、中身が、別でした」


***


『レディー』が、組んでいた脚を組み替えた。

「だから、倉庫で撃たなかったのね」

「……はい」

「ずっと、変だと思ってたのよ。あんたが、ためらうなんて」


***


『レスラー』は、腕を組んだまま、天井を見ていた。

「中の人間ごと、撃てない相手か」

低い声だった。

「一番、嫌なやつだ」


***


画面の中で、『ギーク』が肉まんを置いた。

「昭和八年生まれの免許。……偽造じゃなくて、本人のだったんですね」

それから、少しだけ声が小さくなった。

「九十三歳の人の体を、勝手に使ってるってことですか」


***


加藤さんが、黙って、みんなのお茶を注ぎ足していった。

俺の湯呑みのところで、一度だけ手を止めた。

「共さん、って、おっしゃるのね」

「はい」

「そう」

それだけ言って、次の湯呑みに移った。

名前で呼ばれたのは、共さんにとって、たぶん五十年ぶりだった。


***


『ジョン』は、俺を見ていた。

「約束、守ったな」

「……遅くなりました」

「いい」

『ジョン』は、首を振った。

「一人で、ずっと抱えてたんだろ。それが分かれば、いい」


***


赤城だけが、まだ、何も言っていなかった。


***


湯呑みを両手で持ったまま、テーブルの一点を見ていた。

長い沈黙だった。


***


「健司くん」

「はい」

「どうやって、知った」


***


来た、と思った。


***


「師匠は、誰にも話していない。俺にもだ」

赤城は、顔を上げた。

「君が、師匠から聞いたはずもない。君が生まれるより、ずっと前の話だ」


***


「それは……」


***


「わしじゃ」


***


赤城の隣の椅子から、声がした。


***


赤城が、ゆっくりと、隣を向いた。


***


金髪の子供が、椅子に座っていた。

足が、床に届いていなかった。

口の端に、羊羹のかけらがついていた。


***


二切れ目の、途中だった。


***


メレオスは、羊羹を飲み込んだ。

椅子の上に立ち上がった。

腰に手を当てて、胸を張った。


***


「オッス! おらメレオス!」

「……神であるぞよ」


***


もう少し、ましな名乗り方はなかったのか。


***


赤城は、動かなかった。


***


驚いて立ち上がりもしなかった。

声も上げなかった。

ただ、椅子の上に立っている子供を、まっすぐ見ていた。


***


0課の全員が、息を止めていた。


***


赤城が、湯呑みを置いた。


***


「……羊羹は、うまかったか」


***


「うまかった」

メレオスが、即答した。

「今日のも、うまい」


***


「そうか」


***


赤城の口の端が、ほんの少しだけ、上がった。


***


「一つ、確かめたい」

赤城が言った。

「山の帰りに、俺が頭を下げた相手は。あなたで、合っていたか」


***


「合うとる」

メレオスは、椅子の上で、ふんぞり返った。

「背負われておったのは、わしじゃ」

「神を背負わせて、すまなかった」

「謝る相手が違うぞ。重かったのは、健司じゃ」


***


「重くはなかった」

俺が言うと、メレオスが、じろりとこっちを見た。

「……軽かった、とも言うな。神の威厳じゃ」


***


『レスラー』が、口元を押さえて横を向いた。


***


「師匠の、守護霊だった、と」

赤城が、俺を見た。

「はい。じいちゃんが死んでから、俺のところに」


***


「師匠は、ご存じだったのか」

赤城が、メレオスに聞いた。


***


「知っとった」

メレオスは、椅子に座り直した。

「伊左衛門は、わしに、何も頼んでこなんだ。何十年も、横におったのにのぉ」

「何も」

「最後に、一つだけじゃ。孫を守ってやってくれ、とな」


***


赤城は、目を閉じた。

「……師匠らしい」


***


しばらくして、赤城が目を開けた。

それから、俺を見た。


***


「ずっと、聞きそびれていたことがある」

「はい」

「地下の訓練場で、君の火を初めて見た日だ」


***


覚えていた。

師匠は、気功しか教えていないはずだ。

あの日、赤城はそう言った。

これは、その先にある何かか、と。

俺は、答えられなかった。


***


「あれは、何だ」


***


「魔法じゃ」

メレオスが言った。

「わしが、教えた」


***


「伊左衛門が死んでからじゃ。火の出し方から、風、土、雷。全部、わしが、ハリセンで叩き込んだ」

「ハリセン」

「神の嗜みじゃ」


***


『レディー』が、「ああ、あれ」と小さく言った。

訓練場の扉の隙間から見ていた顔だった。


***


「師匠には」

「教えておらん。伊左衛門は、何も求めてこなんだと、言うたろう」


***


「ただしな」

メレオスが、指を一本立てた。


***


「魔法は、誰にでも使えるもんではない」

「……と、いうと」

「気功の下地がなければ、使えん。わしがいくら教えても、火種ひとつ出ん」


***


「伊左衛門の気功が、健司の体に、何十年ぶん入っとる」

メレオスは、俺のほうを顎でしゃくった。

「わしは、その上に、火をつけ足しただけじゃ。土台は、伊左衛門のもんじゃ」


***


会議室の空気が、少しだけ、変わった。


***


『ギーク』が、画面の中で、身を乗り出していた。

「え、ちょっと待ってください。じゃあ、私も」

「無理じゃ」

「まだ何も言ってないです」

「無理じゃ」

「ステータス画面とか、スキルツリーとか」

「そんなもんは、ない」


***


『ギーク』が、画面の中で崩れ落ちた。


***


『レスラー』が、腕を組んだまま、ぼそっと言った。

「……ちょっと、期待してた」

「お主も無理じゃ」

「まだ何も言ってねえ」


***


「うん、うん」

課長が、頷いていた。

「僕も、ちょっと、期待してたよ」

課長もだった。


***


赤城は、黙っていた。


***


「……俺も、か」


***


赤城が言った。

会議室の全員が、赤城を見た。


***


「お主もじゃ」

メレオスは、あっさり言った。

「伊左衛門は、合気道は配った。気功は、誰にも配らなんだ。お主にもじゃ」


***


「そうか」


***


赤城の肩が、ほんの少しだけ、下がった気がした。

国務大臣の肩が。


***


「配らなんだのは、お主らを信じておらなんだからではないぞ」

メレオスが、羊羹の最後の一切れをつまみながら言った。

「配れば、いつか、悪う使う者が出る。それだけじゃ。あやつは、そういうところは、頑固じゃった」


***


赤城は、何も言わなかった。

ただ、小さく、頭を下げた。


***


それから、その姿勢のまま、止まった。


***


「……待て」


***


赤城が、顔を上げた。

丁寧さの奥の、硬いものが、はっきりと動いていた。


***


「共さんは、合気道の弟弟子だ」

「はい」

「気功は、習っていない」

「はい」


***


「倉庫で、手を使わずにコンクリートを裂いた。昨日は、檻の中で消えた」

赤城の声が、低くなった。

「あれは、魔法だな」


***


「魔法じゃ」

メレオスが答えた。

「下地のない者には、使えんはずの、な」


***


「では、あれを使っているのは」


***


「共では、ない」

メレオスは、羊羹の皿を置いた。

「中におる方じゃ」


***


赤城は、長いあいだ、黙っていた。


***


俺の説明だけなら、赤城はたぶん、最後のところで信じきれなかった。

五十年、死んだと聞かされてきた人だ。

中に何かが入っている、と言われて、はいそうですか、とは言えない。


***


でも、今、赤城は、自分で辿り着いた。

師匠が気功を配らなかったことを、一番よく知っている弟子として。


***


「昨日の、声は」

「共さん本人です」

「……構わず、撃ってください、と」

「はい」


***


赤城は、目を閉じた。


***


「五十年、あの人は、中にいたのか」


***


誰も、答えなかった。

答えは、全員、もう知っていた。


***


「俺の番だな」


***


赤城が、目を開けた。

「山で、約束した。君が話したら、俺も全部話す、と」


***


赤城は、内ポケットから、封筒を一つ出した。

中から、古い写真を一枚、テーブルに置いた。


***


道場の、集合写真だった。

白黒で、角が擦り切れていた。

真ん中に、若いじいちゃんがいた。

腕を組んで、仏頂面をしていた。


***


端に、若い男が一人、写っていた。

几帳面に、帯を締め直している途中みたいな姿勢だった。


***


昨日、檻の中にいた顔だった。


***


「引き継ぎの話は、健司くんには、山でした」

赤城は、0課の全員に向けて言った。

「大臣になったとき、引き継ぎ書類の最後に、手書きで一行あった。『隠り山の件、並びに某の記録には、触れるな』。前任も、その前任も、中身を知らずに渡してきた」


***


「昨日、倉庫から戻って、その足で」

赤城は、写真の上に指を置いた。

「その記録を、開けさせた。大臣の権限でだ。触れるな、の一行を、初めて破った」


***


「中身は」

課長が聞いた。


***


「なかった」

赤城は、短く言った。

「空の綴りだった。表紙に、判子が一つ押してあるだけだった」


***


『ギーク』が、画面の中で、小さく息をのんだ。

「……免許の氏名欄と、同じ消し方ですね」


***


「俺が知っているのは、これで、全部だ」


***


会議室が、また静かになった。


***


「……少ない、ですね」

思わず、口から出た。


***


「だから」

赤城は、俺を見た。

「半分にも満たない、と言っただろう」


***


「正直ね」

『レディー』が言った。


***


「名前は」

『ジョン』が聞いた。

「共、の下の名前。……いや、上か。フルネームは、知ってるんだろう」


***


赤城は、少しだけ考えた。


***


「言わない」

「まだ、隠すのか」

「隠すんじゃない」


***


赤城は、写真の端の男を見ていた。


***


「あの人の中に、まだ、あの人がいるなら」

「……」

「名前は、本人に、返したい」


***


『ジョン』は、それ以上、聞かなかった。


***


赤城が、背筋を伸ばした。

国務大臣の顔に、戻っていた。


***


「作戦を、変える」


***


「目的は、共さんの確保。中のものだけを、引きはがす」

赤城が、俺を見た。

「方法は」


***


「まだ、ありません」

「わしにも、まだ、ない」

メレオスも言った。


***


「探せ」

赤城は、言い切った。

「一人も、死なせるな」


***


それから、少しだけ、間を置いた。


***


「共さんも、含めてだ」


***


「うん、うん」

課長が、頷いた。

「了解しました」


***


赤城が立ち上がった。

扉のところで、振り返った。


***


「課長」

「はい」

「慰安旅行の、報告書だが」


***


課長の背筋が、ほんの少しだけ伸びた。


***


「出席者、九名」

赤城は、椅子の上のメレオスを見た。

「……合っていたな」


***


「合ってましたね」

課長は、にこにこしていた。


***


加藤さんが、つぶやきながら手帳に何か書いていた。

覗き込むと、「羊羹 次回から一本」とあった。


***


エレベーターの前まで、赤城を送った。

メレオスも、ついてきた。

今度は、見えるまま。


***


ボタンを押してから、赤城が言った。

「一つ、聞いていいか」

「なんじゃ」


***


「師匠は、共さんのことを、何か言っていたか。最後まで」


***


メレオスは、少しのあいだ、黙っていた。


***


「何も」

「……」

「一度も、名を口にせなんだ。だから、わしは、知らなんだ」


***


「言えなかったのか。言わなかったのか」

「わしにも、分からん」


***


赤城は、エレベーターの扉を見ていた。


***


「どちらでも、同じか」

「同じじゃ」

「五十年、一人で、持っていたんだな」


***


エレベーターが、着いた。


***


扉が開いた。

赤城は、乗り込んで、こっちを向いた。


***


「健司くん」

「はい」


***


「伊左衛門さんの、家族を」

赤城は、昨日の言葉を、そのまま繰り返した。

「あの続きは、何だったと思う」


***


分かりません、と言おうとした。


***


由紀の顔が、浮かんだ。

店のカウンターの向こうで、あの人に、覗き込まれていた顔が。


***


「……分かりません」


***


「そうか」

赤城は、頷いた。

「俺もだ」


***


扉が、閉まった。


***


「……ばれるのは」

隣で、メレオスが言った。

「案外、悪くない気分じゃのぉ」


***


「羊羹、二切れも食っただろ」

「一本と、書いておったぞ。加藤が」

「聞いてたのか」

「神の耳は、よう聞こえるんじゃ」


***


ポケットの中で、スマホが震えた。


***


由紀からだった。


***


『肉じゃが作りすぎた。今夜持ってく。かみさまの分もあるよ』


***


画面を、しばらく見ていた。


***


伊左衛門さんの、家族を。


***


その続きを、俺はまだ、誰にも聞けていなかった。


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