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第五十章 五十年前の続き

月の光の下で、男は笑っていた。

四十くらいの顔で。

子供みたいな目のまま。


***


メレオスが、俺の袖を掴んだ。

小さな手が、少しだけ震えていた。


***


「……見えとる」

「分かってる」

「あれに、わしが、見えとる」


***


赤城は、俺の隣で、男だけを見ていた。

写真の中の、若い男と同じ顔を。


***


「遊ぼうか」

男が、首を傾げたまま言った。

「せっかく、来てくれたんだから」


***


倉庫の暗がりが、動いた。


***


積まれた木箱の陰から。

二階の通路から。

錆びたコンテナの中から。

人が、次々に出てきた。


***


「……まだ、いたのかよ」

『ジョン』が、低く言った。

「六か所、全部回ったはずだ」


***


『ギーク』の声が、通信機から飛んできた。

「熱源、二十三! 全員、手の甲にあります。……六か所の、どこにも来てなかった連中です」


***


取っておいたのだ。

今夜のために。


***


拳銃が上がった。

鉄パイプが上がった。

二十三人が、一斉に、こっちへ走り出した。


***


撃たないで、勝つ。

そう決めていた。


***


床に、手をついた。

コンクリートの下の、湾岸の埋め立て土を呼ぶ。


***


床が、波打った。

走ってきた足首を、土が、片っ端から掴んでいく。


***


同時に、腕を振った。

風が、倉庫の中を一周した。

拳銃と鉄パイプが、天窓の近くまで巻き上がって、奥のコンテナの上に降ってきた。


***


二十三人のうち、十九人が、その場に縫い止められた。


***


残りの四人は、土が届く前に、跳んでいた。

二階の通路から、俺の頭の上へ。


***


赤城が、動いた。


***


一人目の手首を取った。

くるりと、回した。

男の体が、空中で半回転して、床に落ちた。


***


二人目は、赤城の肩に触れた瞬間に、なぜか自分から転がっていった。

三人目は、『ジョン』が体当たりで止めた。


***


四人目の腕を、赤城がもう一度、回した。

静かだった。

ほとんど、音がしなかった。


***


じいちゃんの、合気道だった。

道場で、何百回も見た動きだった。


***


「……兄弟子が、だ」

赤城は、息ひとつ乱さずに、ネクタイを直した。


***


二十三人が、床の上で動けなくなっていた。

死者、なし。


***


月の光の下で、男が、手を叩いていた。


***


ぱち、ぱち、ぱち。

楽しそうに。


***


「上手だね」

「伊左衛門は、そういうこと、しなかったよ」


***


言われなくても、知っていた。

じいちゃんは、殺さなかった。

でも、捕まえもしなかった。


***


俺は、床についた手に、気を集めた。


***


男の足元から、土が噴き上がった。


***


月の光を囲むように、格子が、八本、十六本、立ち上がっていく。

天井近くまで伸びて、上で閉じた。


***


気を、流した。


***


押すな。

流せ。


***


頭の中で、ハリセンの音がした。


***


格子の表面を、うっすらと、何かが走った。

檻が、立った。


***


男は、格子を見回した。

首を、右に傾げた。

左に傾げた。


***


それから、ふっと、消えた。


***


一秒後。

檻の中に、また立っていた。


***


男の目が、少しだけ、大きくなった。


***


もう一度、消えた。

檻の中に、戻ってきた。


***


三回目。

四回目。


***


男は、格子に手をかけた。

「……へえ」


***


そこから、檻が、鳴り始めた。


***


みしり、と、格子が軋んだ。

俺の腕に、重さが来た。

ダンプカーを、素手で押し返しているみたいだった。


***


「暴れるぞ」

メレオスの声がした。

「言うたじゃろう。あれは、慣れとらん」


***


歯を食いしばった。

押すな。流せ。

押されたら、流し返せ。


***


格子が、ぎしぎしと鳴った。

一本、ひびが入った。

二本目にも。


***


でも、檻は、まだ立っていた。


***


男の手が、格子を掴んだまま、止まった。


***


首が、傾いたまま、動かなくなった。


***


「……『オザケン』」

『ジョン』の声が、硬くなった。

「様子が、おかしい」


***


男が、ゆっくりと、首をまっすぐに戻した。


***


目が、変わっていた。


***


子供の目じゃなかった。

疲れた、大人の目だった。

何十年も、どこか遠くから、ずっと何かを見ていたような。


***


その目が、俺を見た。


***


「……伊左衛門、さん」


***


声も、違った。

さっきまでの、面白がるような声じゃない。

かすれて、低くて、丁寧な声だった。


***


じいちゃんと、間違えている。

そう分かった。

月の光の下で、檻に気を流している俺の姿が、あの人には、五十年前と重なって見えているのだ。


***


「伊左衛門さん……構わず、撃ってください」


***


隣で、赤城が、息を止めた。


***


後ろで、メレオスが、小さく声を漏らした。

「……あのとき、口を動かしておった」

震える声だった。

「それじゃ。あのとき、共が言うたのは、それじゃったんじゃ」


***


五十年前。

入られる前に。

この人は、じいちゃんに、撃てと言ったのだ。


***


そして、じいちゃんは、撃たなかった。


***


「それと……」

男が、格子を握りしめた。

指が白くなるほど、強く。


***


「伊左衛門さんの、家族を……」


***


そこで、声が、途切れた。


***


男の首が、がくんと、横に傾いた。


***


家族を。

その先は、聞こえなかった。


***


でも、一つだけ、分かった。


***


由紀の店に来たのは、中にいるものだけじゃなかった。

この人も、来ていたのだ。

じいちゃんの家族を、探して。


***


同じ匂いが、する。

あれは、じいちゃんの匂いのことだった。


***


「……共、さん」

赤城が、呟いた。

初めて聞く、赤城の、揺れた声だった。


***


檻の中で、男が、顔を上げた。


***


子供の目に、戻っていた。


***


「ああ、もう」

男は、つまらなそうに言った。

「まだ、起きるんだ。それ」


***


背筋が、凍った。

それ、と言った。

自分の体の中にいる人のことを。


***


男が、両手で格子を掴み直した。


***


今度のは、さっきの比じゃなかった。


***


腕が、肩まで、痺れた。

足の下のコンクリートに、ひびが走った。

檻の一角で、格子が三本、同時に弾け飛んだ。


***


気を、残りの格子に回した。

全部は、守れなかった。

一角だけ、穴が開いていた。


***


男は、その穴の前で、立ち止まった。

すぐには、出なかった。


***


俺を見た。


***


「いい檻だね」

男が言った。

自分の声で。子供みたいな声で。

「あの山の窪みより、ずっといい」


***


メレオスが、俺の後ろで、身を固くした。


***


「伊左衛門の孫」

男は、首を傾げた。

「きみは、撃たないんだね。伊左衛門と同じで」


***


「……撃たない」

「どうして」

「あんたの中に、人がいるからだ」


***


男は、少しのあいだ、俺を見ていた。

それから、嬉しそうに笑った。


***


「じゃあ、また遊ぼう」


***


「今度は、邪魔が入らないように、するから」


***


男は、檻の穴から、一歩外に出た。

月の光の外に出た瞬間、姿が、ふっと消えた。


***


今度は、どこにも、戻ってこなかった。


***


『ギーク』の声が、通信機から聞こえた。

「……回線、落ちました。完全に。もう、どこにも、ありません」


***


気を止めた。

檻が、ただの土に戻って、崩れた。


***


俺は、その場に、座り込んだ。

腕が、まだ震えていた。


***


『ジョン』が、床の二十三人を見回した。

それから、俺を見た。

「……『オザケン』。あいつは、誰だ」


***


「あとで、話します」

「全部か」

「……全部」


***


『ジョン』は、それ以上、聞かなかった。

黙って、結束バンドの束を取り出した。


***


赤城は、月の光の落ちていた場所に、立っていた。

崩れた土の山を、見下ろしていた。


***


しばらくして、振り返った。


***


「健司くん」

「はい」

「今のは」


***


赤城は、そこで、言葉を止めた。


***


聞くのか、と思った。

じいちゃんが誰にも言わなかったことを。

あの人の中に、あの人がまだいることを。


***


赤城は、長いこと、黙っていた。


***


「……報告は、明日でいい」


***


それだけ言って、赤城は、倉庫の外へ歩いていった。

背中が、いつもより、少しだけ小さく見えた。


***


夜明け前。

倉庫の屋根の上に、俺とメレオスだけが座っていた。


***


海の向こうが、少しずつ、白くなっていった。


***


「半分、効いた」

メレオスが言った。

膝を抱えて、海を見たまま。


***


「……伊左衛門には、できなんだことじゃ」


***


「逃げられた」

「半分と言うたろう。あれを、一度は閉じ込めた。中の男が、起きた」

メレオスは、少しだけ間を置いた。

「五十年で、初めてじゃろう。あの男が、外に声を出せたのは」


***


俺は、自分の手のひらを見た。

まだ、少し痺れていた。


***


「あの人、まだ中にいる」

「うむ」

「撃てって、言ってた」


***


メレオスが、こっちを見た。


***


「撃てと言われて、撃つか?」


***


俺は、答えなかった。


***


海の向こうから、日が昇ってきた。

メレオスも、それ以上、何も聞かなかった。


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