第四十八章 残りの三か所
「……あの方」
俺は、男を見た。
「誰のことだ」
***
男は、答えなかった。
椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いていた。
手の甲の紋様が、灯りの下で、黒く見えた。
***
「伝言を、預かっている」
男は、ゆっくり言った。
「『今夜は、好きにするといい』」
***
「好きにする、って」
「残りの二か所は、もう知っている。お前が来ることも」
男は、少しだけ首を傾けた。
「あの方は、お前が何をするのか、見ておられる」
***
背中が冷えた。
首の傾け方が、倉庫の男に、少しだけ似ていた。
***
「『ホラー』さん」
「……ただの人です。中には、何もいません」
『ホラー』の声も、いつもより硬かった。
「でも、真似てます。仕草を」
***
男は、抵抗しなかった。
『レスラー』が結束バンドを締めるあいだも、ずっと、俺を見ていた。
***
ワゴンに戻ると、メレオスが、後部座席で膝を抱えていた。
「……見られとるのぉ」
「分かってる」
「分かっとるなら、ええ」
***
それ以上、何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
あと二か所あった。
***
五か所目。
埋め立て地の、廃業した冷凍倉庫だった。
***
『レディー』から、通信が入った。
声が、いつもより低かった。
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「中に、十八人。配置がばらばら。二階の通路と、一階の荷捌き場と、奥の冷凍庫前」
「武器は」
「全員、持ってる。それと」
***
「一人、人質がいる。夜間警備の、おじさん。制服のまま、冷凍庫前で椅子に縛られてる」
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ワゴンの中が、静かになった。
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「……待ってたわね、完全に」
「風は、使いにくいか」
『レスラー』が聞いた。
***
「荷捌き場に、鉄板が立ててあります」
『ジョン』の声だった。
「壁みたいに、何枚も。風を防ぐ気だ」
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好きにするといい。
あの男の声が、耳の奥で鳴った。
***
見られている。
何をするのか。
撃つのか、撃たないのか。
***
「『ギーク』さん」
「はい」
「中の設備、どこまで触れますか」
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キーを叩く音が、少しだけ続いた。
「照明、全部。非常灯も。それと」
「それと」
「スプリンクラー、生きてます。古いけど」
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後部座席で、メレオスが顔を上げた。
俺と、目が合った。
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「……水か」
「水じゃ」
二人で、同時に言った。
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段取りは、三分で決まった。
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一。
『レディー』が、先に人質を外す。
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二。
『ギーク』が、照明を落として、スプリンクラーを開ける。
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三。
俺が、流す。
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「流す、って何をだ」
『レスラー』が聞いた。
「針です。いつもの」
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『レディー』は、屋上の排気口から入った。
いつかの『常世会』のときと、同じ入り方だった。
通信機の向こうで、金属の擦れる音が、小さく何度かした。
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「冷凍庫前の真上。……見張りは、二人」
それから、息を殺す間があった。
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どさ、という音が、二回した。
***
「人質、外した。……おじさん、泣いてるけど、無事」
「そのまま、裏口へ」
「分かってる。私の出番、やっと来たわね」
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裏口のほうで、『ジョン』が、おじさんを受け取った。
「もう大丈夫だ。……ダイジョウブ」
二回言った。二回目は、日本語だった。
***
冷凍庫前の異変に、中の連中が気づいた。
怒鳴り声が上がる。
懐中電灯の光が、何本も揺れた。
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「今です」
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倉庫が、真っ暗になった。
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一拍おいて、天井から、雨が降り出した。
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錆びたスプリンクラーから、赤茶けた水が、倉庫中に撒き散らされる。
床に、水が溜まっていく。
十八人の足元が、全部、つながっていく。
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俺は、シャッターの外で、しゃがんで、水たまりに指先を浸した。
外まで、流れてきていた。
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針ほど。
糸ほど。
いつもの細さのまま、ただ、水に乗せる。
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あの男が、見ている。
見ればいい。
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撃たない。
それでも、全部、止める。
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指先から、雷を、一本だけ流した。
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ぱちり、という音はしなかった。
代わりに、倉庫の中で、十八人分の息が、一斉に詰まる音がした。
***
懐中電灯が、一本ずつ、床に落ちていった。
水たまりの中で、転がって、止まった。
***
静かになった。
スプリンクラーの雨の音だけが、続いていた。
***
「……照明、戻します」
『ギーク』の声がした。
***
明かりがついた。
二階の通路にも、荷捌き場の鉄板の陰にも、冷凍庫の前にも、男たちが倒れていた。
全員、指一本、動かせないまま、目だけを動かしていた。
***
『レスラー』が、びしょ濡れになりながら、倉庫に入っていった。
一人ずつ、手首に結束バンドを巻いていく。
十八本巻き終わって、戻ってきた。
***
「……お前」
「はい」
「今のは、さすがに、えげつない」
「死んでないです」
「分かってる。だから、えげつない」
***
『ホラー』が、全員の脈を確かめて回った。
「全員、生きてます。……一人、鉄板で頭打ってますけど、たんこぶです」
***
ワゴンに戻ると、メレオスが、窓から倉庫を見ていた。
「水に乗せたか」
「乗せた」
「……伊左衛門なら、思いつかなんだ」
***
褒められたのか、と思った。
聞き返す前に、メレオスは、窓の外に目を戻した。
***
六か所目は、郊外の、古い一軒家だった。
午前四時を、回っていた。
***
「中に、一人だけ」
『レディー』の声が、濡れたままの髪で言っているのが分かった。
「老人。起きてる。……待ってる顔ね」
***
玄関の鍵は、開いていた。
***
座敷に、六十過ぎの男が、正座していた。
痩せていた。
着ている着物だけが、妙に上等だった。
***
壁の掛け軸に、見覚えのある紋章があった。
線の少ない、いちばん古い形。
『常世会』のものだった。
***
「……ようやく、来たか」
男は、俺を見て、疲れたように笑った。
***
『ホラー』が、俺の後ろで、小さく言った。
「ただの人です」
それから、少し間を置いた。
「ただの、疲れた人です」
***
「『常世会』の、方ですね」
「元、だ」
男は、掛け軸に目をやった。
「看板は、君たちが燃やした。本部の地下で、あれと一緒に」
***
首謀者だった。
あの日、裏口から、車で一台。
ずっと、ここにいたのだ。
***
「逃げないんですか」
「逃げたさ。何か月も」
男は、膝の上で手を組んだ。
「もう、逃げる先がない。あの方が、要らないと言った」
***
「あの方って、誰です」
「名前は、知らん」
即答だった。
「会ったのは、三度だけだ。四十くらいの男だった。……会うたびに、別の誰かが、あの顔を着ているようだった」
***
あの顔を、着ている。
倉庫の暗がりで首を傾げた男と、店で由紀を覗き込んでいた男が、頭の中で重なった。
共さんの顔だ、と思った。
***
「私は、使われていただけだ」
男は、それを、言い訳ではなく、報告のように言った。
「召喚の儀式も、手の甲の連中も、全部、あの方の言う通りにやった」
***
「あの方は、何がしたいんですか」
男は、しばらく黙っていた。
***
「……五十年前の、続きを」
***
背中の後ろで、メレオスが、息を止めたのが分かった。
***
「そう言っていた。一度だけ。酒の席で、機嫌のいい日に」
男は、掛け軸から目を離さなかった。
「『あのとき、邪魔が入った。今度は、邪魔が入らないようにする』と」
***
「それと、もう一つ」
男が、初めて、俺の顔をまっすぐ見た。
***
「あの方も、呼ばれて来た、と言っていた」
「……呼ばれて?」
「誰に呼ばれたのかは、言わなかった。私も、聞かなかった。聞いたら、終わる気がした」
***
男は、自分から両手を差し出した。
『レスラー』が、黙って結束バンドを巻いた。
***
六か所。
四十九人。
死者、なし。
***
夜が、明けかけていた。
0課に戻る車の中で、誰も、ほとんど喋らなかった。
『レスラー』だけが、運転しながら、一回だけ大きなあくびをした。
***
朝七時。
0課の会議室で、課長が、加藤さんの淹れたお茶を配っていた。
全員、びしょ濡れか、煤だらけか、その両方だった。
***
俺の携帯が鳴った。
赤城だった。
***
「健司くん」
「はい」
「報告は、課長から聞いた」
一拍、間があった。
「よくやった」
***
短い言葉だった。
それだけで、少し、肩の力が抜けた。
***
「それと、もう一つ」
赤城の声の調子が、少しだけ変わった。
「課長から、先週の慰安旅行の報告書が、上がってきた」
***
背筋が伸びた。
凍った露天風呂と、倒れた塀と、飛んでいった暖簾のことが、頭をよぎった。
***
「宿の損害については、読んだ。君の給料から出すそうだな」
「……はい」
「それはいい。一つだけ、気になった」
***
「出席者の欄に、『九名』と書いてあった」
***
息が止まった。
***
0課は、八人だった。
課長と、俺と、『レスラー』と、『レディー』と、『ホラー』と、『ギーク』と、加藤さんと、『ジョン』。
あとの一人は、机の向こうで、羊羹を食べていた。
***
俺は、何も言えなかった。
電話の向こうも、しばらく黙っていた。
***
「……数え間違いだろう」
赤城が言った。
「課長は、酔っていたそうだから」
***
「……はい」
「ゆっくり休め」
電話が切れた。
***
課長のほうを見た。
課長は、湯呑みを持ったまま、窓の外を見ていた。
「うん、うん」
誰に言ったのかは、分からなかった。
***
アパートに帰ったのは、昼前だった。
シャワーを浴びて、ソファに倒れ込んだ。
***
メレオスが、いつもの定位置で、膝を抱えていた。
寝ているのかと思った。
目は、開いていた。
***
「……五十年前の、続き、か」
小さな声だった。
***
「伊左衛門が、やり残したことを」
メレオスは、窓の外を見た。
「あれも、まだ、覚えておる」
***
俺は、天井を見ていた。
呼ばれて来た、という言葉が、まだ耳に残っていた。
***
共さんの中にいるものを、さらに、誰かが呼んだ。
その誰かのことは、共さんの中のものしか、知らないのかもしれない。
***
考えても、仕方なかった。
眠かった。
***
目を閉じる前に、一つだけ思った。
今夜、俺は、一人も撃たなかった。
それを、あの方は、どこかで見ていた。




