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第四十五章 今日は仕事じゃない

「うん、うん。慰安旅行でも、どうかな」

月曜の朝礼で、課長が言った。


***


「慰安旅行」

『レスラー』が、腕を組んだまま繰り返した。

「この課に、そんな制度があったのか」


***


「あるよ。使った人がいないだけで」

「なんで使わなかったんですか」

「幹事が、いなかったからね」


***


全員の目が、加藤さんに向いた。

加藤さんは、にこにこしたまま、ため息をついた。

「……一泊二日で、いいですか」


***


隠り山から戻って、一週間が経っていた。

メレオスは、ソファの定位置に戻っていた。

俺も、夜はちゃんと眠れるようになっていた。


***


「『ギーク』くんにも、声をかけてあげて」

課長が、通信機のほうを見た。


***


「行きません」

即答だった。

「宿って、回線、細いじゃないですか」


***


「部屋に、光回線を引いてもらいます」

加藤さんが、手帳をめくりながら言った。

「……本当ですか」


***


「あと、肉まん。十個」

「……行きます」

交渉は、三秒で終わった。


***


『ジョン』が、スマホの画面を見せてきた。

「オンセン、調べておいた。入る前に、かけ湯。タオルは湯に入れない。飲んだあとは入らない」

「詳しいですね」

「ルールの多い文化は、先に覚えるのが礼儀だ」


***


『ホラー』だけが、黙っていた。

行くとも、行かないとも言わなかった。

当日、いちばん先に集合場所にいたのは、『ホラー』だった。


***


宿は、山あいの古い温泉宿だった。

木造の三階建てで、廊下を歩くと、床が鳴る。


***


出迎えた女将は、やけに疲れた顔をしていた。

「遠いところを、ようこそ」

目の下に、くっきりと隈があった。


***


「最近、お客さんが、少なくて」

女将は、廊下の奥を気にしながら言った。

「夜中に、いろいろと、音がするもので」


***


『ホラー』が、廊下の奥を見た。

それから、天井を見た。

「……いますね」


***


「今日は仕事じゃないです」

俺は、先に言っておいた。

「慰安旅行です。温泉に入って、飯を食って、寝るんです」


***


「騒いでるだけです。悪いものじゃないです」

『ホラー』は、そう言って、荷物を持ち直した。

「放っておいても、害はないと思います」


***


それなら、放っておけばいい。

今日は、仕事じゃない。


***


夕方、男湯の露天風呂に浸かった。

『レスラー』と、『ジョン』と、『ホラー』と、課長と、俺。


***


「……いい湯だ」

『ジョン』が、目を閉じて言った。

かけ湯も、タオルの置き方も、完璧だった。


***


『レスラー』は、湯船の半分を一人で占めていた。

課長は、縁に頭を乗せて、もう半分寝ていた。

『ホラー』は、湯の中でも髪を下ろしたままだった。


***


竹の塀の向こうから、女湯の声が聞こえてくる。

「加藤さん、それ、何のボトルですか」

「お肌にいいのよ。『ギーク』さんも、使う?」


***


平和だった。

隠り山のことも、共さんのことも、今だけは、湯気の向こうだった。


***


そのとき、湯が、ぼこりと鳴った。


***


足元から、泡が上がってくる。

一つ、二つ。それから、一斉に。


***


「……熱っ!」

『レスラー』が、湯船から飛び出した。

湯が、煮立っていた。


***


脱衣所のほうで、桶が宙に浮いて、くるくる回っていた。

湯けむりの中で、小さな影が、けらけら笑っているのが見えた。


***


「騒いでるだけです」

『ホラー』が、湯船の縁に避難しながら言った。

「本当に、騒いでるだけです」


***


騒いでいるだけで、露天風呂が煮えていた。

課長は、縁に頭を乗せたまま、まだ寝ていた。


***


「課長、茹だります!」

「……うん、うん」

寝言だった。


***


仕方なかった。

今日は仕事じゃない。だから、これは、仕事じゃない。


***


湯に、手をかざした。

冷ますだけだ。ほんの少し、温度を下げるだけ。


***


旅先の空気と、湯の気持ちよさで、加減の目盛りが、どこかに行っていた。


***


ぱきぱき、と音がした。

湯船の表面に、白い膜が張っていく。


***


気づいたときには、露天風呂が、まるごと凍っていた。


***


課長が、首まで氷に埋まったまま、目を開けた。

「……うん。冷えたね」


***


「小沢」

『レスラー』が、凍った湯船を見下ろした。

「冷ましすぎだ」

「……すみません」


***


凍りついた湯の真ん中から、小さな影が、ぽんと飛び出した。

よほど慌てたらしい。

そのまま、竹の塀のほうへ、一目散に逃げていく。


***


「待て!」

追いかけた。

逃がすと、また湯を煮立てられる。


***


影は、塀の手前で、ひょいと右へ跳んだ。

俺の腕は、もう振り終わっていた。


***


風が、まっすぐ、塀に当たった。


***


竹の塀が、ゆっくりと、向こう側へ傾いていった。

誰も、止められなかった。


***


ばたん。


***


湯けむりが、晴れた。

倒れた塀の向こうに、女湯があった。


***


湯船に、三人いた。

タオルを巻いた『レディー』と、肩まで浸かった『ギーク』と、洗い場の加藤さん。


***


時間が、止まった。


***


最初に動いたのは、『レディー』だった。

動いた、と言っても、眉が少し上がっただけだった。


***


「……で?」


***


その一言で、男湯の全員が、凍った露天風呂より冷たくなった。


***


『ギーク』は、鼻の下まで湯に沈んでいた。

泡の出る口元から、声だけが上がってくる。

「フラグ回収、雑すぎません?」


***


「違う、これは、騒霊が」

「騒霊のせいにするの、一番ダサいやつです」

言い返せなかった。


***


加藤さんは、何も言わなかった。

顔を真っ赤にして、手桶を持ち上げた。


***


飛んできた。

避けなかった。避ける権利が、なかった。


***


こん、と、いい音がした。


***


「目隠し! 目隠しします!」

俺は、湯けむりを起こそうと、風を呼んだ。

女湯と男湯のあいだに、白い幕を張るだけのつもりだった。


***


加減の目盛りは、まだ戻っていなかった。


***


湯けむりは、竜巻になった。

白い渦が、脱衣所に吸い込まれていく。


***


暖簾が、全部飛んだ。

男湯の青いのも、女湯の赤いのも、仲良く夕焼けの空へ舞い上がっていった。


***


『ジョン』が、空を見上げた。

「……オンセンのルールに、これは書いてなかった」


***


騒霊は、どこにもいなかった。

あとで『ホラー』に聞いたら、「怖がって、押し入れの奥で震えてます」とのことだった。


***


騒霊は、静かになった。

宿は、静かにならなかった。


***


一時間後。

浴衣に着替えた全員が、女将の前に並んでいた。


***


凍った露天風呂。

倒れた竹の塀。

行方不明の暖簾、二枚。


***


「うん、うん」

課長が、神妙な顔で頷いた。

「弁償は、経費で落ちるかな」


***


「落ちません」

加藤さんが、まだ少し赤い顔のまま、きっぱり言った。

「小沢さんのお給料からです」


***


「……はい」

危険手当は、こういうときのためにあるのかもしれない。

たぶん、違う。


***


女将は、怒らなかった。

それどころか、目の下の隈が、少しだけ薄くなっていた。


***


「あの音、もう、しないんですね」

「……たぶん、しばらくは」

「それなら、塀は、安いものです」


***


『レディー』が、俺の横を通り過ぎざまに言った。

「貸し、一つね」

「……はい」

「高いわよ」


***


夜。

宴会場に、お膳が並んだ。


***


加藤さんが、指を差して数えていた。

一つ、二つ、三つ。

八人分のはずのお膳を、二回数えて、首をかしげた。


***


「……お膳、一つ多いわ」

「宿の人が、間違えたんじゃないですか」

「ううん。頼んだのは、八人分なのに」


***


俺の隣の、誰もいない座布団の前に、お膳が一つ、置いてあった。

徳利が一本、もう空になっていた。


***


座布団の上で、浴衣を着た金髪の子供が、満足そうに盃を傾けていた。


***


目が合った。


***


「……温泉は、ええのぉ」


***


留守番を頼んだはずだった。

『ホラー』だけが、黙って、その子供の盃に、自分の徳利から酒を注いでいた。


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