第四十五章 今日は仕事じゃない
「うん、うん。慰安旅行でも、どうかな」
月曜の朝礼で、課長が言った。
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「慰安旅行」
『レスラー』が、腕を組んだまま繰り返した。
「この課に、そんな制度があったのか」
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「あるよ。使った人がいないだけで」
「なんで使わなかったんですか」
「幹事が、いなかったからね」
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全員の目が、加藤さんに向いた。
加藤さんは、にこにこしたまま、ため息をついた。
「……一泊二日で、いいですか」
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隠り山から戻って、一週間が経っていた。
メレオスは、ソファの定位置に戻っていた。
俺も、夜はちゃんと眠れるようになっていた。
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「『ギーク』くんにも、声をかけてあげて」
課長が、通信機のほうを見た。
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「行きません」
即答だった。
「宿って、回線、細いじゃないですか」
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「部屋に、光回線を引いてもらいます」
加藤さんが、手帳をめくりながら言った。
「……本当ですか」
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「あと、肉まん。十個」
「……行きます」
交渉は、三秒で終わった。
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『ジョン』が、スマホの画面を見せてきた。
「オンセン、調べておいた。入る前に、かけ湯。タオルは湯に入れない。飲んだあとは入らない」
「詳しいですね」
「ルールの多い文化は、先に覚えるのが礼儀だ」
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『ホラー』だけが、黙っていた。
行くとも、行かないとも言わなかった。
当日、いちばん先に集合場所にいたのは、『ホラー』だった。
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宿は、山あいの古い温泉宿だった。
木造の三階建てで、廊下を歩くと、床が鳴る。
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出迎えた女将は、やけに疲れた顔をしていた。
「遠いところを、ようこそ」
目の下に、くっきりと隈があった。
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「最近、お客さんが、少なくて」
女将は、廊下の奥を気にしながら言った。
「夜中に、いろいろと、音がするもので」
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『ホラー』が、廊下の奥を見た。
それから、天井を見た。
「……いますね」
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「今日は仕事じゃないです」
俺は、先に言っておいた。
「慰安旅行です。温泉に入って、飯を食って、寝るんです」
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「騒いでるだけです。悪いものじゃないです」
『ホラー』は、そう言って、荷物を持ち直した。
「放っておいても、害はないと思います」
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それなら、放っておけばいい。
今日は、仕事じゃない。
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夕方、男湯の露天風呂に浸かった。
『レスラー』と、『ジョン』と、『ホラー』と、課長と、俺。
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「……いい湯だ」
『ジョン』が、目を閉じて言った。
かけ湯も、タオルの置き方も、完璧だった。
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『レスラー』は、湯船の半分を一人で占めていた。
課長は、縁に頭を乗せて、もう半分寝ていた。
『ホラー』は、湯の中でも髪を下ろしたままだった。
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竹の塀の向こうから、女湯の声が聞こえてくる。
「加藤さん、それ、何のボトルですか」
「お肌にいいのよ。『ギーク』さんも、使う?」
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平和だった。
隠り山のことも、共さんのことも、今だけは、湯気の向こうだった。
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そのとき、湯が、ぼこりと鳴った。
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足元から、泡が上がってくる。
一つ、二つ。それから、一斉に。
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「……熱っ!」
『レスラー』が、湯船から飛び出した。
湯が、煮立っていた。
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脱衣所のほうで、桶が宙に浮いて、くるくる回っていた。
湯けむりの中で、小さな影が、けらけら笑っているのが見えた。
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「騒いでるだけです」
『ホラー』が、湯船の縁に避難しながら言った。
「本当に、騒いでるだけです」
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騒いでいるだけで、露天風呂が煮えていた。
課長は、縁に頭を乗せたまま、まだ寝ていた。
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「課長、茹だります!」
「……うん、うん」
寝言だった。
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仕方なかった。
今日は仕事じゃない。だから、これは、仕事じゃない。
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湯に、手をかざした。
冷ますだけだ。ほんの少し、温度を下げるだけ。
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旅先の空気と、湯の気持ちよさで、加減の目盛りが、どこかに行っていた。
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ぱきぱき、と音がした。
湯船の表面に、白い膜が張っていく。
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気づいたときには、露天風呂が、まるごと凍っていた。
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課長が、首まで氷に埋まったまま、目を開けた。
「……うん。冷えたね」
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「小沢」
『レスラー』が、凍った湯船を見下ろした。
「冷ましすぎだ」
「……すみません」
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凍りついた湯の真ん中から、小さな影が、ぽんと飛び出した。
よほど慌てたらしい。
そのまま、竹の塀のほうへ、一目散に逃げていく。
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「待て!」
追いかけた。
逃がすと、また湯を煮立てられる。
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影は、塀の手前で、ひょいと右へ跳んだ。
俺の腕は、もう振り終わっていた。
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風が、まっすぐ、塀に当たった。
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竹の塀が、ゆっくりと、向こう側へ傾いていった。
誰も、止められなかった。
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ばたん。
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湯けむりが、晴れた。
倒れた塀の向こうに、女湯があった。
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湯船に、三人いた。
タオルを巻いた『レディー』と、肩まで浸かった『ギーク』と、洗い場の加藤さん。
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時間が、止まった。
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最初に動いたのは、『レディー』だった。
動いた、と言っても、眉が少し上がっただけだった。
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「……で?」
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その一言で、男湯の全員が、凍った露天風呂より冷たくなった。
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『ギーク』は、鼻の下まで湯に沈んでいた。
泡の出る口元から、声だけが上がってくる。
「フラグ回収、雑すぎません?」
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「違う、これは、騒霊が」
「騒霊のせいにするの、一番ダサいやつです」
言い返せなかった。
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加藤さんは、何も言わなかった。
顔を真っ赤にして、手桶を持ち上げた。
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飛んできた。
避けなかった。避ける権利が、なかった。
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こん、と、いい音がした。
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「目隠し! 目隠しします!」
俺は、湯けむりを起こそうと、風を呼んだ。
女湯と男湯のあいだに、白い幕を張るだけのつもりだった。
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加減の目盛りは、まだ戻っていなかった。
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湯けむりは、竜巻になった。
白い渦が、脱衣所に吸い込まれていく。
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暖簾が、全部飛んだ。
男湯の青いのも、女湯の赤いのも、仲良く夕焼けの空へ舞い上がっていった。
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『ジョン』が、空を見上げた。
「……オンセンのルールに、これは書いてなかった」
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騒霊は、どこにもいなかった。
あとで『ホラー』に聞いたら、「怖がって、押し入れの奥で震えてます」とのことだった。
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騒霊は、静かになった。
宿は、静かにならなかった。
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一時間後。
浴衣に着替えた全員が、女将の前に並んでいた。
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凍った露天風呂。
倒れた竹の塀。
行方不明の暖簾、二枚。
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「うん、うん」
課長が、神妙な顔で頷いた。
「弁償は、経費で落ちるかな」
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「落ちません」
加藤さんが、まだ少し赤い顔のまま、きっぱり言った。
「小沢さんのお給料からです」
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「……はい」
危険手当は、こういうときのためにあるのかもしれない。
たぶん、違う。
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女将は、怒らなかった。
それどころか、目の下の隈が、少しだけ薄くなっていた。
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「あの音、もう、しないんですね」
「……たぶん、しばらくは」
「それなら、塀は、安いものです」
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『レディー』が、俺の横を通り過ぎざまに言った。
「貸し、一つね」
「……はい」
「高いわよ」
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夜。
宴会場に、お膳が並んだ。
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加藤さんが、指を差して数えていた。
一つ、二つ、三つ。
八人分のはずのお膳を、二回数えて、首をかしげた。
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「……お膳、一つ多いわ」
「宿の人が、間違えたんじゃないですか」
「ううん。頼んだのは、八人分なのに」
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俺の隣の、誰もいない座布団の前に、お膳が一つ、置いてあった。
徳利が一本、もう空になっていた。
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座布団の上で、浴衣を着た金髪の子供が、満足そうに盃を傾けていた。
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目が合った。
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「……温泉は、ええのぉ」
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留守番を頼んだはずだった。
『ホラー』だけが、黙って、その子供の盃に、自分の徳利から酒を注いでいた。




