第四十四章 わしが見たもの
炎が、渦にぶつかった。
***
影が、悲鳴のような音を立てた。
燃えた端から、また次の影が輪をふさぐ。
***
もう一度、撃った。
今度は、輪の一か所だけに絞った。
***
加減の練習は、嫌というほどやってきた。
小さくする方は、得意だ。
***
輪に、人ひとり分の穴が空いた。
考える前に、そこへ腕を突っ込んでいた。
***
冷たかった。
水でも風でもない、何もないところの冷たさだった。
***
指先に、布が触れた。
変な服の、変な手触りだった。
***
掴んで、引いた。
思ったより、ずっと軽かった。
***
腕の中に、金色の頭が転がり込んできた。
尻もちをついた俺の胸の上で、メレオスが目を開けた。
***
「阿呆!」
第一声が、それだった。
「お主まで入ってどうする!」
***
「入ってない。腕だけだ」
「腕でも同じじゃ! 持っていかれたら、どうするつもりじゃった!」
「そっちこそ、どうするつもりだった!」
***
怒鳴り返してから、気づいた。
すぐ後ろに、赤城が立っていた。
***
赤城から見えるのは、何もない空間を抱えて、地面に座りこんで怒鳴っている俺だった。
***
赤城は、何も言わなかった。
言わないでいてくれるのが、かえって、つらかった。
***
背後で、影が一斉に動いた。
輪をほどいて、祠の奥の暗がりへ、吸いこまれるように引いていく。
***
最後の一筋が消えると、木立に、鳥の声が戻ってきた。
***
「……閉じました」
『ホラー』が、祠の奥を見たまま言った。
「抜け殻が、閉じました。もう、ここには、何もいません」
***
「何も、か」
赤城が、低く繰り返した。
「前は、あれほどいたと聞いたが」
***
「最初から、ここにいたのは、残りかすだけだったんだと思います」
『ホラー』は、そこで言葉を切った。
「本体は、とっくに、よそにいます」
***
メレオスは、自分で立とうとして、膝から崩れた。
輪郭は戻っていたが、足に力が入っていなかった。
***
黙って、背中を向けた。
「乗れ」
「神を、おんぶするでない」
「じゃあ、置いていく」
***
背中に、ちいさな重みが乗った。
軽いくせに、首に回った腕だけは、しっかりしていた。
***
帰りの山道で、俺は、ずっと少し前かがみだった。
***
「腰でも、痛めたか」
赤城が聞いた。
「……少し」
***
『ホラー』が、俺の背中を見て、ぽつりと言った。
「重そうですね」
「何がだ」
赤城が聞き返した。
「いえ」
***
背中で、メレオスが、くつくつと笑った。
笑うな。揺れる。
***
ゲートの前で、営林署の老人が待っていた。
下りてきた俺たちを見て、少しだけ眉を上げた。
***
「背中、重そうじゃな」
それだけ言って、また黙って鍵を閉めた。
***
背中のメレオスが、小さく身じろぎした。
老人のほうを、見ているようだった。
***
車の前で、赤城が振り返った。
***
「健司くん」
「はい」
「身内、と言ったな」
***
「……はい」
「君には、見えている何かがいる。君はそれを、身内と呼ぶ」
赤城は、俺の少し上を見た。何もないはずの、背中のあたりを。
***
「今日は、聞かない」
「……すみません」
「いつか、話せ。そのときは、俺も全部話す」
***
「全部、ですか」
「俺が知っている分は、な」
赤城は、少しだけ口の端を上げた。
「半分にも満たないが」
***
車に乗る前に、赤城は、もう一度だけ、背中のあたりに頭を下げた。
理由は、言わなかった。
***
アパートの鍵は、開いていた。
***
ドアを開けるより先に、中から足音がした。
由紀だった。合鍵を、握りしめたままだった。
***
「……かみさま」
由紀の目が、俺の背中に止まった。
***
背中から、メレオスが降りた。
よろけながら、なんとか立った。
***
「由紀。ただいま、じゃ」
***
由紀は、何も言わなかった。
しゃがんで、黙ってメレオスを抱きしめた。
***
「……くるしい」
「ぬいぐるみは、黙ってて」
「ぬいぐるみでは、ないと、何度」
***
文句を言いながら、メレオスは、逃げなかった。
俺は、玄関に突っ立ったまま、しばらく靴を脱げずにいた。
***
ソファに座らせると、メレオスは、しばらく目を閉じていた。
寝ているのかと思った。
神は寝ん、と言い張っていたくせに。
***
由紀が、台所で湯を沸かしはじめた。
俺は、その背中に声をかけた。
***
「由紀」
「なに」
「帰らないで、聞いていってくれ」
***
由紀が、振り返った。
「……いいの」
「この前、お前は全部言った。今度は、俺の番だ」
***
店に来た男が、じいちゃんの弟弟子の、共さんだということ。
五十年前、じいちゃんと二人で、あの山に入って、戻らなかった人だということ。
そして、あの男が、五十年前から、一つも年を取っていないということ。
***
由紀は、湯が沸いても、火を止めに行かなかった。
俺が代わりに止めた。
***
「……それで、かみさまは、何を見たの」
由紀が、ソファのほうを見た。
***
メレオスが、目を開けた。
「見たとも。全部な」
***
「五十年前。わしは、あの窪みの中におった。自分の姿も、よう見えた。小さな光じゃった」
***
「そこへ、男が二人、来た」
「おじいちゃんと」
「伊左衛門と、もう一人。伊左衛門より、いくつか若い男じゃ」
***
「几帳面な男での。山に入る前、手帳に何か書きつけておった。伊左衛門の手帳の端に、一字だけ」
「……共」
「そうじゃ。あの字は、あの男が、自分で書いたもんじゃった」
***
「顔は」
「お主が言うておった写真の顔じゃ。そのままじゃ」
***
メレオスは、膝の上で、手を組んだ。
震えてはいなかった。
***
「あれは、伊左衛門には、手が出せなんだ」
「気功か」
「そうじゃ。伊左衛門の中には、入れん。弾かれる」
***
「じゃから、あれは、もう一人のほうへ、入った」
***
由紀が、息をのんだ。
***
「気功の下地がない体には、戸締まりがない。するりと、入りおった」
「……共さんに」
「そうじゃ」
***
「入られた男は、伊左衛門のほうを向いた。首を、こう傾げてな」
メレオスが、ほんの少しだけ、首を傾げてみせた。
倉庫で見た仕草と、同じだった。
***
「伊左衛門は、手を上げた。ありったけの気を、込めておった」
「……撃ったの」
「撃てなんだ」
***
「撃てば、あれは消える。じゃが、あれが入っておるのは、共の体じゃ」
メレオスの声が、少しだけ細くなった。
「あれごと、共も死ぬ」
***
「伊左衛門は、手を下ろした。代わりに、あれを、山から追い出した。共の体ごとな」
「殺さずに、追い返した……」
「そういうことじゃったんじゃ」
***
「わしが外に出られたのは、あれが共のほうへ移ったからじゃ。檻の鍵が、空いたんじゃな」
メレオスは、窓の外を見た。
「伊左衛門は、わしを窪みから拾い上げて、そのまま、長いこと、そこを動かなんだ」
***
「泣いてたの、おじいちゃん」
由紀が聞いた。
「……わしは、言わん」
***
それが、答えだった。
***
「あの男、入られる前に、何か言うておった」
メレオスが、ぽつりと付け足した。
「口が動いておった。じゃが、あの窪みの中までは、音が届かなんだ」
***
「なんて言ったか、分からないのか」
「分からん。分かっておったら、とうに言うておる」
***
しばらく、三人とも黙っていた。
冷めかけた湯のポットから、湯気が細く上っていた。
***
「だから、伊左衛門は、誰にも共のことを言わなんだんじゃろう」
メレオスが言った。
「助けられなんだ、とも、殺さなんだ、とも、言えん」
***
俺は、倉庫のことを思い出していた。
外側は人間だった、と思って、火を撃てなかった自分のことを。
***
じいちゃんも、同じところで、手を下ろしたのだ。
***
「じゃあ」
由紀が、ゆっくり言った。
「あの人、悪い人じゃないの」
***
「あの男は、な」
メレオスは、首を振らなかった。
「悪いのは、中におる方じゃ」
***
「あれは、もう、あの山にはおらん」
小さな手が、膝の上で、ぎゅっと握られた。
「全部、あの男の中じゃ」




