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第四十三章 兄弟子と、見えない三人目

朝六時。錆びたゲートの前に、車が一台、先に停まっていた。


***


降りてきた赤城は、登山靴に、防水のジャケットだった。

ザックの肩紐まで、きっちり締めてある。


***


俺と『ホラー』は、スーツに革靴だった。

隠り山に行く、としか考えていなかった。


***


赤城が、俺たちの足元を見た。

「……前回も、それで登ったのか」

「はい」

「よく戻ってこられたな」


***


責める声ではなかった。

本気で感心している声だった。そのほうが、効いた。


***


ゲートの脇に、作業服の老人が立っていた。

前にも案内してくれた、営林署の人だ。


***


「また来たんか」

老人は、俺の顔を見て、それから赤城を見た。

「今度は、偉いのまで連れて」


***


「テレビで見た顔じゃな」

「よく言われます」

赤城は、丁寧に頭を下げた。


***


老人は、鍵を開けながら、ぼそりと言った。

「二度も来るやつは、初めてじゃ」

それから、前と同じように、黙って車に戻っていった。


***


山道に入った。

前を行く『ホラー』の革靴が、落ち葉で何度か滑った。


***


「健司くん」

すぐ後ろから、赤城の声がした。

「昨日の続きを、聞こう」


***


倉庫の件だった。

俺は、登りながら話した。


***


倉庫の暗がりで、首を傾げた男のこと。

外側は人間だったから、火を撃てなかったこと。

その男が、共さんかもしれないと、ずっと思っていたこと。


***


「なぜ、黙っていた」

「共さんのことは、しばらく、ここだけの話に、って」

「……俺が、そう言ったな」


***


赤城は、しばらく黙って登った。

息は、少しも乱れていなかった。


***


「俺の言ったことを、守っただけか」

「はい」

「そうか」


***


それきりだった。

怒っているのか、そうでないのか、背中からは分からなかった。


***


『ホラー』が、足を止めた。

「こっちです」


***


道のない斜面を、指さしている。

前回とは、少し違う方向だった。


***


「前は、あっちじゃなかったか」

「今日は、こっちです」

『ホラー』は、髪の隙間から、斜面の奥を見ていた。

「……呼ばれてる感じがします」


***


赤城が、黙って『ホラー』の後ろについた。

理由を聞かなかった。


***


しばらく登って、気づいた。

静かだった。


***


前回は、この辺りから、もう空気が重かった。

木立のあちこちに、何かが潜んでいる気配があった。

今日は、それがない。


***


「静かすぎます」

『ホラー』が、小さく言った。

「前より、ずっと」


***


崩れたコンクリートの土台が見えてきたところで、赤城が足を止めた。

祠の跡は、もう少し先のはずだった。


***


「健司くん」

「はい」

「俺の話も、しておく」


***


赤城は、土台に片手をついた。

息を整えるためではなかった。言葉を選ぶためだった。


***


「大臣になった日に、前任から引き継ぎの書類を受け取った」

「はい」

「分厚い書類の、一番最後に、一行だけ、手書きで足してあった」


***


「『隠り山の件、並びに某の記録には、触れるな』」


***


『ホラー』が、振り返った。

俺は、何も言えなかった。


***


「某、としか書いていなかった。誰のことかも、理由も」

「それって」

「消したのは、俺たちの、前の世代だ」


***


「前任は、そのまた前任から、同じ一行を受け取ったそうだ。誰も、中身を知らないまま、渡してきた」

赤城は、土台から手を離した。

「名前を出せば、探す人間が動く。前にそう言ったな。あれは、半分は、この一行のことだ」


***


「残りの半分は」

「君のことだ」

短い答えだった。


***


「昨日、君は、言えないことがあると言った」

「……はい」

「俺にも、あった。これで、一つ減った」


***


赤城は、それ以上は言わずに、また歩きだした。

お互い様だ、の意味が、ようやく分かった気がした。


***


木立が開けた。

屋根の落ちた祠の跡が、前と同じ場所にあった。


***


違ったのは、その真ん中だった。


***


黒いものが、渦を巻いていた。

四角いコンクリートの基礎の中央、窪んだところを囲むように、ゆっくりと。


***


影だった。

前回、四方から湧いて、俺たちを追い回したものと、同じだった。


***


だが、今日は、こっちを見ていない。

こっちに来る気配もない。

窪みの周りを、ただ、回っている。


***


「……あれか」

赤城の声が、低くなった。

「話には聞いていたが」


***


赤城にも、影は見えている。

前回、『ジョン』にも見えていたものだ。


***


『ホラー』が、俺の袖を引いた。

振り向くと、窪みの一点を、じっと見ていた。


***


「……いました」

俺にだけ聞こえる声だった。


***


渦の真ん中に、子供が座っていた。

金色の髪。変な服。膝を抱えて、目を閉じている。


***


「おい!」

声が、勝手に出た。

「何してんだ、お前!」


***


赤城が、俺を見た。

それから、渦の真ん中を見た。

「……健司くん。誰に言っている」


***


しまった、と思った。

赤城には、影しか見えていない。


***


「この辺、声がよく響くんですよ」

『ホラー』が、横から言った。

棒読みだった。


***


赤城は、『ホラー』を見た。

それから、周りの木立を見回した。

「……今のは、響いた声じゃないだろう」


***


『ホラー』は、黙って目をそらした。

援護は、そこで終わった。


***


俺は、赤城に構わず、基礎の縁まで近づいた。

影は、俺が近づいても、向きを変えなかった。


***


メレオスが、目を開けた。

「……来たか」

いつもの声より、ずっと遠かった。


***


「来たか、じゃない。何してんだ」

「見に来たんじゃ」

「何を」


***


「五十年前、わしはここに閉じ込められておった。何も見えなんだ」

メレオスは、足元の窪みを見下ろした。

「じゃが、ここには残っておる。あの日のことが」


***


「閉じ込められてた場所に、自分から戻ったのか」

「ここに座れば、見えるかと思うてな」

メレオスは、少しだけ笑った。

「当たりじゃった。もう少しで、見える」


***


後ろで、赤城が何か言いかけて、やめた気配がした。

一人で喋っている弟弟子を、黙って見ているしかないのだろう。


***


「由紀が、泣きそうだった」

メレオスの肩が、小さく動いた。

「……そうか」


***


「連れて帰ってきてって、言われた」

「由紀は、ほんに、ええ子じゃのぉ」

「だったら帰るぞ。今すぐ」


***


「もう少しじゃ」

メレオスは、また目を閉じた。

「伊左衛門と、もう一人の男が、見えかけておる」


***


もう一人の男。

その言葉に、足が止まった。


***


そのときだった。

渦の回り方が、変わった。


***


ゆっくりだった影が、速くなる。

窪みの周りを回りながら、少しずつ、内側へ寄っていく。


***


「『オザケン』さん」

『ホラー』の声が、硬くなった。

「閉じます、あれ」


***


影の輪が、狭まっていく。

その真ん中で、メレオスの輪郭が、薄くなりはじめた。


***


金色の髪の端が、透けていく。

膝を抱えた指先の向こうに、コンクリートの床が見えた。


***


「メレオス!」

返事はなかった。

目を閉じたまま、何かを見ている顔だった。


***


五十年前と、同じになる。

また、何も見えない、何も届かない場所に。


***


右手を上げた。

指先に、熱が集まる。


***


加減は、いらない。

焼くのは、影だけでいい。中にいるやつには、一本も触れさせない。


***


「健司くん」

赤城の声が、すぐ後ろでした。

いつもの丁寧さが、少しだけ剥がれていた。


***


「そこに、何がいる」


***


振り返らなかった。

振り返る時間が、惜しかった。


***


「……身内です」


***


指先の火が、渦に向かって、膨れ上がった。


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