第四十三章 兄弟子と、見えない三人目
朝六時。錆びたゲートの前に、車が一台、先に停まっていた。
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降りてきた赤城は、登山靴に、防水のジャケットだった。
ザックの肩紐まで、きっちり締めてある。
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俺と『ホラー』は、スーツに革靴だった。
隠り山に行く、としか考えていなかった。
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赤城が、俺たちの足元を見た。
「……前回も、それで登ったのか」
「はい」
「よく戻ってこられたな」
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責める声ではなかった。
本気で感心している声だった。そのほうが、効いた。
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ゲートの脇に、作業服の老人が立っていた。
前にも案内してくれた、営林署の人だ。
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「また来たんか」
老人は、俺の顔を見て、それから赤城を見た。
「今度は、偉いのまで連れて」
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「テレビで見た顔じゃな」
「よく言われます」
赤城は、丁寧に頭を下げた。
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老人は、鍵を開けながら、ぼそりと言った。
「二度も来るやつは、初めてじゃ」
それから、前と同じように、黙って車に戻っていった。
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山道に入った。
前を行く『ホラー』の革靴が、落ち葉で何度か滑った。
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「健司くん」
すぐ後ろから、赤城の声がした。
「昨日の続きを、聞こう」
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倉庫の件だった。
俺は、登りながら話した。
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倉庫の暗がりで、首を傾げた男のこと。
外側は人間だったから、火を撃てなかったこと。
その男が、共さんかもしれないと、ずっと思っていたこと。
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「なぜ、黙っていた」
「共さんのことは、しばらく、ここだけの話に、って」
「……俺が、そう言ったな」
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赤城は、しばらく黙って登った。
息は、少しも乱れていなかった。
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「俺の言ったことを、守っただけか」
「はい」
「そうか」
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それきりだった。
怒っているのか、そうでないのか、背中からは分からなかった。
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『ホラー』が、足を止めた。
「こっちです」
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道のない斜面を、指さしている。
前回とは、少し違う方向だった。
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「前は、あっちじゃなかったか」
「今日は、こっちです」
『ホラー』は、髪の隙間から、斜面の奥を見ていた。
「……呼ばれてる感じがします」
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赤城が、黙って『ホラー』の後ろについた。
理由を聞かなかった。
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しばらく登って、気づいた。
静かだった。
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前回は、この辺りから、もう空気が重かった。
木立のあちこちに、何かが潜んでいる気配があった。
今日は、それがない。
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「静かすぎます」
『ホラー』が、小さく言った。
「前より、ずっと」
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崩れたコンクリートの土台が見えてきたところで、赤城が足を止めた。
祠の跡は、もう少し先のはずだった。
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「健司くん」
「はい」
「俺の話も、しておく」
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赤城は、土台に片手をついた。
息を整えるためではなかった。言葉を選ぶためだった。
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「大臣になった日に、前任から引き継ぎの書類を受け取った」
「はい」
「分厚い書類の、一番最後に、一行だけ、手書きで足してあった」
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「『隠り山の件、並びに某の記録には、触れるな』」
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『ホラー』が、振り返った。
俺は、何も言えなかった。
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「某、としか書いていなかった。誰のことかも、理由も」
「それって」
「消したのは、俺たちの、前の世代だ」
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「前任は、そのまた前任から、同じ一行を受け取ったそうだ。誰も、中身を知らないまま、渡してきた」
赤城は、土台から手を離した。
「名前を出せば、探す人間が動く。前にそう言ったな。あれは、半分は、この一行のことだ」
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「残りの半分は」
「君のことだ」
短い答えだった。
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「昨日、君は、言えないことがあると言った」
「……はい」
「俺にも、あった。これで、一つ減った」
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赤城は、それ以上は言わずに、また歩きだした。
お互い様だ、の意味が、ようやく分かった気がした。
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木立が開けた。
屋根の落ちた祠の跡が、前と同じ場所にあった。
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違ったのは、その真ん中だった。
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黒いものが、渦を巻いていた。
四角いコンクリートの基礎の中央、窪んだところを囲むように、ゆっくりと。
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影だった。
前回、四方から湧いて、俺たちを追い回したものと、同じだった。
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だが、今日は、こっちを見ていない。
こっちに来る気配もない。
窪みの周りを、ただ、回っている。
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「……あれか」
赤城の声が、低くなった。
「話には聞いていたが」
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赤城にも、影は見えている。
前回、『ジョン』にも見えていたものだ。
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『ホラー』が、俺の袖を引いた。
振り向くと、窪みの一点を、じっと見ていた。
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「……いました」
俺にだけ聞こえる声だった。
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渦の真ん中に、子供が座っていた。
金色の髪。変な服。膝を抱えて、目を閉じている。
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「おい!」
声が、勝手に出た。
「何してんだ、お前!」
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赤城が、俺を見た。
それから、渦の真ん中を見た。
「……健司くん。誰に言っている」
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しまった、と思った。
赤城には、影しか見えていない。
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「この辺、声がよく響くんですよ」
『ホラー』が、横から言った。
棒読みだった。
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赤城は、『ホラー』を見た。
それから、周りの木立を見回した。
「……今のは、響いた声じゃないだろう」
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『ホラー』は、黙って目をそらした。
援護は、そこで終わった。
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俺は、赤城に構わず、基礎の縁まで近づいた。
影は、俺が近づいても、向きを変えなかった。
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メレオスが、目を開けた。
「……来たか」
いつもの声より、ずっと遠かった。
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「来たか、じゃない。何してんだ」
「見に来たんじゃ」
「何を」
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「五十年前、わしはここに閉じ込められておった。何も見えなんだ」
メレオスは、足元の窪みを見下ろした。
「じゃが、ここには残っておる。あの日のことが」
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「閉じ込められてた場所に、自分から戻ったのか」
「ここに座れば、見えるかと思うてな」
メレオスは、少しだけ笑った。
「当たりじゃった。もう少しで、見える」
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後ろで、赤城が何か言いかけて、やめた気配がした。
一人で喋っている弟弟子を、黙って見ているしかないのだろう。
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「由紀が、泣きそうだった」
メレオスの肩が、小さく動いた。
「……そうか」
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「連れて帰ってきてって、言われた」
「由紀は、ほんに、ええ子じゃのぉ」
「だったら帰るぞ。今すぐ」
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「もう少しじゃ」
メレオスは、また目を閉じた。
「伊左衛門と、もう一人の男が、見えかけておる」
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もう一人の男。
その言葉に、足が止まった。
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そのときだった。
渦の回り方が、変わった。
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ゆっくりだった影が、速くなる。
窪みの周りを回りながら、少しずつ、内側へ寄っていく。
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「『オザケン』さん」
『ホラー』の声が、硬くなった。
「閉じます、あれ」
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影の輪が、狭まっていく。
その真ん中で、メレオスの輪郭が、薄くなりはじめた。
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金色の髪の端が、透けていく。
膝を抱えた指先の向こうに、コンクリートの床が見えた。
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「メレオス!」
返事はなかった。
目を閉じたまま、何かを見ている顔だった。
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五十年前と、同じになる。
また、何も見えない、何も届かない場所に。
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右手を上げた。
指先に、熱が集まる。
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加減は、いらない。
焼くのは、影だけでいい。中にいるやつには、一本も触れさせない。
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「健司くん」
赤城の声が、すぐ後ろでした。
いつもの丁寧さが、少しだけ剥がれていた。
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「そこに、何がいる」
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振り返らなかった。
振り返る時間が、惜しかった。
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「……身内です」
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指先の火が、渦に向かって、膨れ上がった。




