第四十二章 後ろの子が、いない
朝、ソファが空だった。
***
珍しくはない。
メレオスは、都合が悪いと消える。
昨日の話のあとなら、なおさらだ。
***
「行ってくる」
誰もいない部屋に、一応、声をかけた。
返事はなかった。それも、珍しくはない。
***
0課の朝は、平和だった。
『ギーク』は二日続けての出社を拒否して、自宅から通信機で文句を言っていた。
***
「おとといの肉まん、二個だったので、今日は来ません」
「理屈がおかしい」
『レスラー』の突っ込みに、通信は一方的に切れた。
***
『レディー』が、コーヒーを片手に俺の顔を見た。
「今日も迎え?」
「行きます」
「彼氏面、定着したわね」
***
いつもの流れだった。
俺も、いつもの顔で聞き流した。
***
昼過ぎ、給湯室で『ホラー』と二人になった。
『ホラー』は、自分の湯呑みにお湯を注ぎながら、俺の肩の少し上を見ていた。
***
いつもの見方だった。
物を見て、それから、俺の後ろを見る。
***
「小沢さん」
「はい」
「後ろの子、今日、いませんね」
***
湯呑みの湯が、縁で止まった。
「……いつも見えてるんですか」
「いつもじゃないです。たまに、うっすら。でも、今日は」
***
『ホラー』は、少し言葉を探した。
「気配も、ないです。こんなの、初めてです」
***
「……朝から、いなくて」
「そうですか」
『ホラー』は、それ以上聞かなかった。
***
「昨日の夜」
湯呑みを持ったまま、ぽつりと言った。
「帰りに、北のほうの空を、何かが、すうっと光っていきました」
***
「北」
「気のせいかもしれません」
気のせいを言う人の顔では、なかった。
***
午後は、何も頭に入らなかった。
都合が悪いと消えるのは、いつものことだ。
でも、『ホラー』が「初めて」と言った。
***
夕方、コンビニで肉まんを三つ買った。
俺と、由紀と、わしの分じゃ、と言ったやつの分。
***
店の前に車を停めると、由紀がシャッターの隙間から出てきた。
「今日もいるし」
「言っただろ」
***
助手席に乗った由紀が、袋に気づいた。
「肉まん?」
「メレオスに頼まれた。一緒に食ってけ」
***
「かみさま、肉まん好きなんだ」
「好きで食うんじゃ、だってさ」
由紀が、少しだけ笑った。昨日より、ましな笑い方だった。
***
アパートのドアを開けた。
「ただいま」
***
返事がなかった。
ソファは、朝のまま、空だった。
***
「かみさまー。肉まんだよー」
由紀が、部屋の奥に声を投げた。
カーテンの陰にも、押し入れにも、誰もいなかった。
***
テーブルに、袋を置いた。
湯気が、誰もいない部屋に上っていった。
***
「……朝から、いないんだ」
俺が言うと、由紀の顔から、表情が落ちた。
***
「朝から?」
「都合が悪いと、よく消えるんだよ。ただ、職場のやつが、気配もないって」
***
由紀は、答えなかった。
肉まんの袋を、じっと見ていた。
***
「由紀?」
「……ずるい」
***
小さな声だった。
それから、はっきり言った。
「かみさま、ずるいよ」
***
「何がだ」
「あたしが決めることだって、言ったくせに」
***
由紀が、顔を上げた。
目が、赤くなりかけていた。
***
「お兄ちゃん。座って」
「……ああ」
「今から話すこと、全部、かみさまから聞いたことだから」
***
この前の留守番の夜のことだった。
由紀は、一つずつ、置くように話した。
***
五十年前、メレオスが、隠り山で捕らわれていたこと。
閉じ込められている間、音も、光も、何も届かなかったこと。
***
「怖くなかったの、って聞いたら」
由紀の声が、一度だけ詰まった。
「怖かったに決まっとろう、って」
***
「わしは、そう強くない、って」
***
聞いたことのない言葉だった。
メレオスは、俺の前では、一度もそんなことを言わなかった。
***
気がついたら、目の前にじいちゃんが立っていたこと。
じいちゃんが、あれを、殺さずに追い返したこと。
***
「おじいちゃんに、借りがあるんだって。だから、お兄ちゃんのそばにいるんだって」
「……守護神の、理由か」
「そう」
***
「店に来た男が、同じ匂いがするって言ったでしょ」
「ああ」
「あれ聞いて、捕まってたときのことを思い出す、って。理由は分からないけど、分からないから怖いって」
***
「お兄ちゃんに言ったほうがいいんじゃないって、言ったの。そしたら」
由紀が、肉まんの袋を見た。
「由紀が、自分の言葉で決めればええ、って」
***
「決めてる途中だったんだよ。ずっと」
「……ああ」
「なのに、いなくなるから」
***
由紀の手が、膝の上で握られていた。
「こんなの、言うしかないじゃん。かみさまが、言わせたんだよ」
***
しばらく、どっちも喋らなかった。
肉まんの湯気が、もう細くなっていた。
***
昨日の夜のことを、思い出した。
年を取っていない、と言ったときの、メレオスの肩。
同じ匂いとは、そういうことか、という独り言。
***
五十年前、あの山で。
共さんは消えて、メレオスは捕らわれていた。
同じ山で、同じときに。
***
あいつは、自分を閉じ込めたものの匂いを、あの男に嗅いだのかもしれない。
***
「隠り山、だよね」
由紀が言った。
「かみさま、行ったの、そこだよね」
***
「たぶんな」
「探しに行くなら、あたしも」
「駄目だ」
***
自分でも驚くくらい、早かった。
『ギーク』の勧誘を断ったときより、早かった。
***
由紀は、言い返さなかった。
代わりに、じっと俺を見た。
***
「あたしは、全部言ったよ」
***
それだけだった。
責める声ではなかった。
***
店の男の名前も。
あの紋様の意味も。
昨日、0課で見た、黒く潰された名前の欄も。
***
俺は、何一つ、由紀に言っていなかった。
***
答えられなかった。
由紀も、答えを待たなかった。
***
「電話、してくる」
スマホを持って、ベランダに出た。
窓を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
***
赤城の番号を押す。
三回目の呼び出しで、つながった。
***
「健司くんか」
「夜分に、すみません」
「構わない。……記録の件か」
***
「明後日のお約束、明日にしていただけませんか」
「理由は」
「もう一度、隠り山に入らせてください。明日、朝一番に」
***
電話の向こうが、静かになった。
***
「山に行く理由を、聞いてもいいか」
「……言えません。まだ」
「まだ、か」
***
責めるような間ではなかった。
何かを、量っている間だった。
***
「一つだけ、先に言わせてください」
「聞こう」
「店に来た男。あの写真の男。……共さん、ですよね」
***
今度の沈黙は、長かった。
***
「手元に、道場の古い集合写真が一枚ある」
赤城の声が、低くなった。
「俺が入門する前のものだ。端に、若い男が一人、写っている」
***
「課長から送られてきた写真を見て、その一枚を、出してきた」
「……」
「同じ顔だった。五十年前の、同じ顔だ」
***
ベランダの手すりが、冷たかった。
***
「倉庫の男が、共さんかもしれないって、ずっと思ってました。言えなくて、すみません」
「それは、明日、聞く」
赤城は、短く言った。
***
「山には、俺も行く」
「大臣が、ですか」
「兄弟子が、だ」
***
「『ホラー』くんを連れて来い。俺には、見えないものが多い」
「……はい」
「健司くん」
***
「言えないことがあるのは、お互い様だ。気にするな」
電話が切れた。
***
部屋に戻ると、由紀が肉まんを一つ、食べ終えていた。
「冷めてた」
「……だろうな」
***
残りの一つは、袋に入ったまま、テーブルの真ん中にあった。
由紀は、それに手をつけなかった。
***
「送る」
「うん」
***
玄関で、由紀が振り返った。
「連れて帰ってきてね。かみさま」
「ああ」
「お兄ちゃんも、だよ」
***
その頃。
地図にない山の、崩れた祠の跡に、小さな影が一つ、座っていた。
ゆうべから、ずっとそこにいた。
***
金色の髪が、月もない暗がりで、わずかに光っていた。
服装は、相変わらず変だった。
***
祠の奥から、黒いものが、いくつも滲み出してきた。
人の形に、なりそこねたような影だった。
***
影は、子供の姿を、襲わなかった。
じわりと近づいて、そこで止まり、道をあけた。
***
覚えている、とでも言うように。
***
「……相変わらず、趣味の悪い歓迎じゃのぉ」
子供は、膝を払って立ち上がった。
***
「伊左衛門」
誰もいない山に向かって、ぽつりと言った。
***
「すまんのぉ。お前との約束、ちいとばかし、破るぞ」
***
影の群れの奥へ、小さな背中が、歩いていった。




