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第四十一章 数字が合わない

『ギーク』の部屋のドアは、今日は三つ目の鍵で開いた。

前回より、二つ少ない。信用されたのかもしれない。


***


「肉まん」

「はい」

袋を渡すと、『ギーク』は中をのぞいて、動かなくなった。


***


「……二個」

「二個です」

「十個って言いましたよね」


***


「言ってないです」

「言わなくても十個です。そういう契約です」

「契約書、見せてください」


***


『ギーク』は答えずに、一個目にかぶりついた。

交渉は、決裂したまま棚上げになった。


***


モニターの一枚に、例の二百十四件が並んでいた。

今日は、位置ではなく、数字の列だった。


***


「免許証の番号です。契約のときに控えた分」

「全部、偽造なんですよね」

「はい。二百十四枚、全部偽物」


***


「で、偽物の番号って、普通、どこにも登録がないんです。架空だから」

「まあ、そうか」

「二百十三件は、その通りでした。ちゃんと、どこにもない」


***


「……残りの一件は」

『ギーク』が、二個目の肉まんに手を伸ばしかけて、やめた。


***


「あるんです。一件だけ」

「本物の番号ってことですか」

「本物の、古い番号です」


***


画面の一行が、赤く反転した。

八月契約。例の、一本だけ生きている回線だった。


***


「偽造するなら、全部でたらめにすればいいのに。一枚だけ、実在する番号が混ざってる」

「うっかり、とか」

「この人たち、二百十三回うっかりしないのに?」


***


言われてみれば、その通りだった。

消し方の癖まで揃える連中が、一枚だけ間違えるとは思えなかった。


***


「照会、かけたいんです。でも古すぎて、紙から電子化した原簿のほうで」

「かければいいじゃないですか」

「課長の判子がいります。明日です」


***


「……それで呼んだんですか、今日」

「数字が合わないのが、気持ち悪くて。一人で抱えてたくなかったので」

それから、小さく付け足した。

「あと、肉まん」


***


帰りの車の中で、あの一行を何度も思い出した。

由紀の留守番に間に合うように、少しだけ、アクセルを踏んだ。


***


翌朝。

『ギーク』が、始業前から0課の席にいた。


***


「出社日じゃない日に出社するの、人生で初めてです」

誰も褒めなかった。

加藤さんだけが、黙って温かいお茶を置いた。


***


昼前、照会が返ってきた。

会議室のモニターに、古い書類のスキャンが映る。


***


「番号、一致しました」

『ギーク』の声は、いつもの早口ではなかった。


***


「失効が、昭和四十五年」

「昭和」

『レスラー』が、思わず繰り返した。


***


「生年月日は、昭和八年」

「……名前は」

俺が聞くと、『ギーク』は画面を拡大した。


***


氏名の欄が、黒く潰されていた。

黒塗りの上から、小さな判子がいくつも押してある。


***


「消されてます。でも」

『ギーク』が、首をかしげた。

「これだけ、手つきが違うんです」


***


「いつもの、同じ手つきじゃないのか」

「全然違います。向こうの消し方は、跡を残さない。こっちは、跡しか残ってない」

「どういうことだ」


***


「紙の時代に、役所の人が、判子ついて、ちゃんと手続きして消したやつです」

「丁寧、ってことですか」

「すごく丁寧です。怖いくらい」


***


課長の「うん、うん」が、一回で止まった。

「それは、上の許可がないと、できない消し方だね」


***


『ジョン』が、腕を組んだ。

「うちの国でも同じだ。本当に消したいものは、こういう消し方をする」

「本当に、消したいもの」

「死んだ人間なら、死亡で閉じればいいだけだからな」


***


誰も、続きを言わなかった。

昭和四十五年、この国の誰かが、一人の人間を、死亡ではなく「なかったこと」にした。


***


「あと、これ」

『ギーク』が、もう一枚、画像を出した。

「契約した代理店が、本人確認書類を、紙で控えてました」


***


偽造の免許証の、コピーだった。

写真の男は、四十代くらいに見えた。


***


息が止まった。

由紀の店で、由紀の顔を覗き込んでいた、あの男だった。


***


「……店に来た男です」

俺が言うと、『レディー』が、すっと目を細めた。


***


「計算、合わないんですよ」

『ギーク』が、指を折った。

「昭和八年生まれなら、今、九十三。写真は、どう見ても四十そこそこ」


***


「番号だけ盗んだんだろ。死んだ爺さんの」

『レスラー』が言った。

「死んだことに、なってないんです。この人」

『ギーク』が、小さく返した。


***


『ホラー』が、写真にだけ顔を近づけた。

長いこと、黙って見ていた。


***


「……写真だと、中身は写らないんですね」

それだけ言って、また髪の奥に目を戻した。


***


俺は、黙って数えていた。

誰にも言えない引き算だった。


***


じいちゃんは、九十八で死んだ。

その五つ下なら、九十三。


***


昭和四十五年。

じいちゃんの手帳にあった、「四十五年」。


***


じいちゃんと二人で山に入って、戻らなかった人。

死んだと、聞かされてきた人。


***


共さんだ。


***


倉庫のことを、思い出した。

暗がりの奥で、面白いものを見つけた子供みたいに、首を傾げた男。


***


張り込みの夜、どこかで見た気がした目。

どこでだったか、今なら分かる。


***


倉庫の男も、店の男も、同じ人間だった。

そしてその人は、五十年前から、一つも年を取っていない。


***


「小沢」

『ジョン』の声で、我に返った。

「顔色が悪いぞ」

「……寝不足です」


***


赤城との約束があった。

今日聞いたことは、しばらく、ここだけの話に。

0課の誰にも、共さんの名前は言えなかった。


***


「うん、うん」

課長が、受話器を置いた。

「赤城さんに上げたよ。明後日、来るそうだ」


***


「何か、言ってました?」

「いや」

課長は、少しだけ首をかしげた。

「電話口で、しばらく黙ってたね。珍しく」


***


夕方、由紀を迎えに行った。

助手席の由紀は、いつもより口数が少なかった。


***


「お兄ちゃん」

「なんだ」

「……なんでもない」


***


最近、由紀のこの「なんでもない」が、増えた気がする。

俺の頭の中も、それどころではなかった。


***


アパートに戻ると、メレオスがソファで膝を抱えていた。

テレビもつけずに、窓のほうを見ていた。


***


「メレオス。話がある」

「なんじゃ、改まって」


***


順を追って話した。

古い免許の番号。昭和八年。昭和四十五年。消された名前。写真の顔。


***


「共さんだと思う」

メレオスは、黙っていた。


***


「前に、倉庫の男が共さんかもしれないって、言ったよな」

「……言うた」

「店に来た男も、同じだった。それで」


***


「共さん、生きてたら九十三のはずなんだ。なのに、四十くらいにしか見えない」

メレオスの肩が、小さく動いた。


***


「……年を、取っておらん、と」

「五十年前の山で消えて、そのまま、止まってるみたいに」


***


メレオスは、答えなかった。

膝を抱えた指先に、力が入っていくのが見えた。


***


「同じ匂い、とは」

独り言のような声だった。

「……そういうことか」


***


「何がだ」

「いや」

メレオスは、首を振った。


***


「健司」

「なんだよ」

「明日、由紀を迎えに行くときにな」


***


「肉まんを買うてこい。わしの分もじゃ」

いつもの、ふんぞり返った声だった。


***


「お前、腹減らないんだろ」

「好きで食うんじゃ。文句あるか」

「……ないよ」


***


その夜、布団の中で、天井を見ていた。

明後日、赤城さんに会う。


***


倉庫の男が共さんかもしれないと、ずっと思っていた。

それを、俺はまだ、赤城さんに一度も言っていない。


***


何から話せばいいのか、分からなかった。

ソファのほうは、朝まで、ずっと静かだった。


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