第四十一章 数字が合わない
『ギーク』の部屋のドアは、今日は三つ目の鍵で開いた。
前回より、二つ少ない。信用されたのかもしれない。
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「肉まん」
「はい」
袋を渡すと、『ギーク』は中をのぞいて、動かなくなった。
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「……二個」
「二個です」
「十個って言いましたよね」
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「言ってないです」
「言わなくても十個です。そういう契約です」
「契約書、見せてください」
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『ギーク』は答えずに、一個目にかぶりついた。
交渉は、決裂したまま棚上げになった。
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モニターの一枚に、例の二百十四件が並んでいた。
今日は、位置ではなく、数字の列だった。
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「免許証の番号です。契約のときに控えた分」
「全部、偽造なんですよね」
「はい。二百十四枚、全部偽物」
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「で、偽物の番号って、普通、どこにも登録がないんです。架空だから」
「まあ、そうか」
「二百十三件は、その通りでした。ちゃんと、どこにもない」
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「……残りの一件は」
『ギーク』が、二個目の肉まんに手を伸ばしかけて、やめた。
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「あるんです。一件だけ」
「本物の番号ってことですか」
「本物の、古い番号です」
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画面の一行が、赤く反転した。
八月契約。例の、一本だけ生きている回線だった。
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「偽造するなら、全部でたらめにすればいいのに。一枚だけ、実在する番号が混ざってる」
「うっかり、とか」
「この人たち、二百十三回うっかりしないのに?」
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言われてみれば、その通りだった。
消し方の癖まで揃える連中が、一枚だけ間違えるとは思えなかった。
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「照会、かけたいんです。でも古すぎて、紙から電子化した原簿のほうで」
「かければいいじゃないですか」
「課長の判子がいります。明日です」
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「……それで呼んだんですか、今日」
「数字が合わないのが、気持ち悪くて。一人で抱えてたくなかったので」
それから、小さく付け足した。
「あと、肉まん」
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帰りの車の中で、あの一行を何度も思い出した。
由紀の留守番に間に合うように、少しだけ、アクセルを踏んだ。
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翌朝。
『ギーク』が、始業前から0課の席にいた。
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「出社日じゃない日に出社するの、人生で初めてです」
誰も褒めなかった。
加藤さんだけが、黙って温かいお茶を置いた。
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昼前、照会が返ってきた。
会議室のモニターに、古い書類のスキャンが映る。
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「番号、一致しました」
『ギーク』の声は、いつもの早口ではなかった。
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「失効が、昭和四十五年」
「昭和」
『レスラー』が、思わず繰り返した。
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「生年月日は、昭和八年」
「……名前は」
俺が聞くと、『ギーク』は画面を拡大した。
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氏名の欄が、黒く潰されていた。
黒塗りの上から、小さな判子がいくつも押してある。
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「消されてます。でも」
『ギーク』が、首をかしげた。
「これだけ、手つきが違うんです」
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「いつもの、同じ手つきじゃないのか」
「全然違います。向こうの消し方は、跡を残さない。こっちは、跡しか残ってない」
「どういうことだ」
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「紙の時代に、役所の人が、判子ついて、ちゃんと手続きして消したやつです」
「丁寧、ってことですか」
「すごく丁寧です。怖いくらい」
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課長の「うん、うん」が、一回で止まった。
「それは、上の許可がないと、できない消し方だね」
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『ジョン』が、腕を組んだ。
「うちの国でも同じだ。本当に消したいものは、こういう消し方をする」
「本当に、消したいもの」
「死んだ人間なら、死亡で閉じればいいだけだからな」
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誰も、続きを言わなかった。
昭和四十五年、この国の誰かが、一人の人間を、死亡ではなく「なかったこと」にした。
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「あと、これ」
『ギーク』が、もう一枚、画像を出した。
「契約した代理店が、本人確認書類を、紙で控えてました」
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偽造の免許証の、コピーだった。
写真の男は、四十代くらいに見えた。
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息が止まった。
由紀の店で、由紀の顔を覗き込んでいた、あの男だった。
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「……店に来た男です」
俺が言うと、『レディー』が、すっと目を細めた。
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「計算、合わないんですよ」
『ギーク』が、指を折った。
「昭和八年生まれなら、今、九十三。写真は、どう見ても四十そこそこ」
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「番号だけ盗んだんだろ。死んだ爺さんの」
『レスラー』が言った。
「死んだことに、なってないんです。この人」
『ギーク』が、小さく返した。
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『ホラー』が、写真にだけ顔を近づけた。
長いこと、黙って見ていた。
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「……写真だと、中身は写らないんですね」
それだけ言って、また髪の奥に目を戻した。
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俺は、黙って数えていた。
誰にも言えない引き算だった。
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じいちゃんは、九十八で死んだ。
その五つ下なら、九十三。
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昭和四十五年。
じいちゃんの手帳にあった、「四十五年」。
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じいちゃんと二人で山に入って、戻らなかった人。
死んだと、聞かされてきた人。
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共さんだ。
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倉庫のことを、思い出した。
暗がりの奥で、面白いものを見つけた子供みたいに、首を傾げた男。
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張り込みの夜、どこかで見た気がした目。
どこでだったか、今なら分かる。
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倉庫の男も、店の男も、同じ人間だった。
そしてその人は、五十年前から、一つも年を取っていない。
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「小沢」
『ジョン』の声で、我に返った。
「顔色が悪いぞ」
「……寝不足です」
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赤城との約束があった。
今日聞いたことは、しばらく、ここだけの話に。
0課の誰にも、共さんの名前は言えなかった。
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「うん、うん」
課長が、受話器を置いた。
「赤城さんに上げたよ。明後日、来るそうだ」
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「何か、言ってました?」
「いや」
課長は、少しだけ首をかしげた。
「電話口で、しばらく黙ってたね。珍しく」
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夕方、由紀を迎えに行った。
助手席の由紀は、いつもより口数が少なかった。
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「お兄ちゃん」
「なんだ」
「……なんでもない」
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最近、由紀のこの「なんでもない」が、増えた気がする。
俺の頭の中も、それどころではなかった。
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アパートに戻ると、メレオスがソファで膝を抱えていた。
テレビもつけずに、窓のほうを見ていた。
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「メレオス。話がある」
「なんじゃ、改まって」
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順を追って話した。
古い免許の番号。昭和八年。昭和四十五年。消された名前。写真の顔。
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「共さんだと思う」
メレオスは、黙っていた。
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「前に、倉庫の男が共さんかもしれないって、言ったよな」
「……言うた」
「店に来た男も、同じだった。それで」
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「共さん、生きてたら九十三のはずなんだ。なのに、四十くらいにしか見えない」
メレオスの肩が、小さく動いた。
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「……年を、取っておらん、と」
「五十年前の山で消えて、そのまま、止まってるみたいに」
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メレオスは、答えなかった。
膝を抱えた指先に、力が入っていくのが見えた。
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「同じ匂い、とは」
独り言のような声だった。
「……そういうことか」
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「何がだ」
「いや」
メレオスは、首を振った。
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「健司」
「なんだよ」
「明日、由紀を迎えに行くときにな」
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「肉まんを買うてこい。わしの分もじゃ」
いつもの、ふんぞり返った声だった。
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「お前、腹減らないんだろ」
「好きで食うんじゃ。文句あるか」
「……ないよ」
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その夜、布団の中で、天井を見ていた。
明後日、赤城さんに会う。
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倉庫の男が共さんかもしれないと、ずっと思っていた。
それを、俺はまだ、赤城さんに一度も言っていない。
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何から話せばいいのか、分からなかった。
ソファのほうは、朝まで、ずっと静かだった。




