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第三十九章 由紀の前で、隠せなかった

あの夜から、三日が経った。

あれ以来、男は現れなかった。


***


『ギーク』の地図の点も、いつも通りの範囲でしか動かない。

何もないまま張り込みが続くと、それはそれで気が抜けなかった。


***


四日目の夜、由紀からメッセージが来た。

「今日、閉め作業やるから遅くなる。先帰ってて平気だから」


***


店長が、急な用事で先に上がったらしい。

新人一人に店を任せるのは、褒められた話ではなかった。


***


そのとき、別の着信が入った。

『ギーク』からだった。


***


「動きました。例の回線、動いてます」

「位置は」

「妹さんの、お店です」


***


車の中で、時計を見た。

閉店時刻を、二十分過ぎている。


***


シャッターは、まだ半分しか下りていなかった。

いつもより、遅い。


***


携帯を鳴らした。

出ない。


***


もう一度、鳴らした。

それでも、出ない。


***


車を降りた。

歩くつもりが、気づけば走っていた。


***


半分開いたシャッターの下を、くぐった。

店内は、レジの明かりだけがついていた。


***


「由紀」

返事がなかった。


***


奥の事務スペースで、由紀が立っていた。

背を向けて。動かずに。


***


その前に、男が立っていた。

四十代くらいの、あの男だった。


***


「由紀、下がれ」

由紀は、振り向かなかった。


***


「……お兄ちゃん?」

声が、震えていた。


***


男は、由紀の顔を、覗き込むように見ていた。

値踏みでも、警戒でもない。

何かを、確かめる目だった。


***


「……同じ匂いが、する」

声は低く、抑揚がなかった。

人の声にしては、間が変だった。


***


由紀が、後ずさった。

かかとが、陳列棚の脚に引っかかる。


***


棚が、揺れた。

男は、指一本、動かしていなかった。


***


棚の上の在庫が、由紀の頭の上へ、傾いていく。

触れてもいないのに。


***


考えるより先に、土壁を出していた。

棚と由紀のあいだに、分厚い壁が立ち上がる。


***


がらがらと、棚が壁にぶつかって止まった。

由紀は、尻もちをついたまま、動けずにいた。


***


由紀の目が、俺の手と、目の前の壁を、往復した。

隠しようが、なかった。


***


男は、その様子を、面白いものを見るような目で眺めていた。

子供が、初めて見る虫を見るときの目だった。


***


「……そうか」

それだけ言って、男は背を向けた。


***


裏口の方へ、歩いていく。

急いでいる様子は、なかった。


***


追おうとした。

だが、由紀を置いていけなかった。


***


裏口の扉が閉まる音がした。

それだけだった。


***


駆け寄って、由紀を抱え起こした。

「大丈夫か」

「……足、擦りむいた、だけ」


***


由紀の手が、小さく震えていた。

強がる声のほうが、震えより大きかった。


***


「今の……」

由紀が、土壁を見上げた。

「お兄ちゃんが、やったんだよね」


***


「ああ」

もう、誤魔化す言葉がなかった。


***


「魔法とか、そういうの?」

「……そうだ」


***


由紀は、しばらく黙っていた。

壁と、俺の顔を、また見比べた。


***


「かみさまが、教えたの」

「知ってたのか」

「知らないけど、そんな気は、してた」


***


由紀は、震える息を吐いた。

「あの男、なに」

「……分からない」


***


嘘ではなかった。

名前は、まだ言えなかった。


***


「危ないやつ、なんだよね」

「危ない」

「お兄ちゃんの、仕事に関係ある」

「ある」


***


短い答えしか、返せなかった。

それでも、由紀は頷いた。


***


「怒らないの」

由紀が、顔を上げた。

「勝手に遅くまで、残ってたこと」


***


「怒らない」

「なんで」

「怖い思いをさせたのは、俺のほうだ」


***


由紀の目に、初めて涙がにじんだ。

それでも、泣かなかった。


***


「店長に、連絡する」

「その前に」


***


「もう、店で一人にはしない。しばらく、迎えに来る」

「過保護」

「うるさい」


***


軽口が戻ってきたことに、少しだけ、ほっとした。

だが、目はまだ赤かった。


***


その場から、課長に電話した。

「妹の店に、例の男が来ました」


***


「うん、うん」

相槌のあと、長い間があった。

「……怪我は?」

「かすり傷だけです」


***


「そう」

課長の声から、いつもの緩さが消えていた。

「明日、詳しく聞かせて」


***


家に帰ると、メレオスがソファで待っていた。

いつもの位置で、いつもより、背筋が伸びていた。


***


「由紀に、見せたな」

「……仕方なかった」


***


「分かっとる」

責める声ではなかった。


***


「その男、何か言うたか」

「……同じ匂いがする、って」


***


メレオスの顔から、色が抜けた。

「匂い、じゃと」


***


「それだけだ。それだけ言って、消えた」

「……そうか」


***


メレオスは、それきり、何も言わなかった。

膝を抱えた手は、震えていなかった。


***


震えるより先に、何かを、決めたような顔をしていた。

その顔を、俺はまだ、見たことがなかった。


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