第三十九章 由紀の前で、隠せなかった
あの夜から、三日が経った。
あれ以来、男は現れなかった。
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『ギーク』の地図の点も、いつも通りの範囲でしか動かない。
何もないまま張り込みが続くと、それはそれで気が抜けなかった。
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四日目の夜、由紀からメッセージが来た。
「今日、閉め作業やるから遅くなる。先帰ってて平気だから」
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店長が、急な用事で先に上がったらしい。
新人一人に店を任せるのは、褒められた話ではなかった。
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そのとき、別の着信が入った。
『ギーク』からだった。
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「動きました。例の回線、動いてます」
「位置は」
「妹さんの、お店です」
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車の中で、時計を見た。
閉店時刻を、二十分過ぎている。
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シャッターは、まだ半分しか下りていなかった。
いつもより、遅い。
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携帯を鳴らした。
出ない。
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もう一度、鳴らした。
それでも、出ない。
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車を降りた。
歩くつもりが、気づけば走っていた。
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半分開いたシャッターの下を、くぐった。
店内は、レジの明かりだけがついていた。
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「由紀」
返事がなかった。
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奥の事務スペースで、由紀が立っていた。
背を向けて。動かずに。
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その前に、男が立っていた。
四十代くらいの、あの男だった。
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「由紀、下がれ」
由紀は、振り向かなかった。
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「……お兄ちゃん?」
声が、震えていた。
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男は、由紀の顔を、覗き込むように見ていた。
値踏みでも、警戒でもない。
何かを、確かめる目だった。
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「……同じ匂いが、する」
声は低く、抑揚がなかった。
人の声にしては、間が変だった。
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由紀が、後ずさった。
かかとが、陳列棚の脚に引っかかる。
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棚が、揺れた。
男は、指一本、動かしていなかった。
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棚の上の在庫が、由紀の頭の上へ、傾いていく。
触れてもいないのに。
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考えるより先に、土壁を出していた。
棚と由紀のあいだに、分厚い壁が立ち上がる。
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がらがらと、棚が壁にぶつかって止まった。
由紀は、尻もちをついたまま、動けずにいた。
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由紀の目が、俺の手と、目の前の壁を、往復した。
隠しようが、なかった。
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男は、その様子を、面白いものを見るような目で眺めていた。
子供が、初めて見る虫を見るときの目だった。
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「……そうか」
それだけ言って、男は背を向けた。
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裏口の方へ、歩いていく。
急いでいる様子は、なかった。
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追おうとした。
だが、由紀を置いていけなかった。
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裏口の扉が閉まる音がした。
それだけだった。
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駆け寄って、由紀を抱え起こした。
「大丈夫か」
「……足、擦りむいた、だけ」
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由紀の手が、小さく震えていた。
強がる声のほうが、震えより大きかった。
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「今の……」
由紀が、土壁を見上げた。
「お兄ちゃんが、やったんだよね」
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「ああ」
もう、誤魔化す言葉がなかった。
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「魔法とか、そういうの?」
「……そうだ」
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由紀は、しばらく黙っていた。
壁と、俺の顔を、また見比べた。
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「かみさまが、教えたの」
「知ってたのか」
「知らないけど、そんな気は、してた」
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由紀は、震える息を吐いた。
「あの男、なに」
「……分からない」
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嘘ではなかった。
名前は、まだ言えなかった。
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「危ないやつ、なんだよね」
「危ない」
「お兄ちゃんの、仕事に関係ある」
「ある」
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短い答えしか、返せなかった。
それでも、由紀は頷いた。
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「怒らないの」
由紀が、顔を上げた。
「勝手に遅くまで、残ってたこと」
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「怒らない」
「なんで」
「怖い思いをさせたのは、俺のほうだ」
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由紀の目に、初めて涙がにじんだ。
それでも、泣かなかった。
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「店長に、連絡する」
「その前に」
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「もう、店で一人にはしない。しばらく、迎えに来る」
「過保護」
「うるさい」
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軽口が戻ってきたことに、少しだけ、ほっとした。
だが、目はまだ赤かった。
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その場から、課長に電話した。
「妹の店に、例の男が来ました」
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「うん、うん」
相槌のあと、長い間があった。
「……怪我は?」
「かすり傷だけです」
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「そう」
課長の声から、いつもの緩さが消えていた。
「明日、詳しく聞かせて」
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家に帰ると、メレオスがソファで待っていた。
いつもの位置で、いつもより、背筋が伸びていた。
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「由紀に、見せたな」
「……仕方なかった」
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「分かっとる」
責める声ではなかった。
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「その男、何か言うたか」
「……同じ匂いがする、って」
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メレオスの顔から、色が抜けた。
「匂い、じゃと」
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「それだけだ。それだけ言って、消えた」
「……そうか」
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メレオスは、それきり、何も言わなかった。
膝を抱えた手は、震えていなかった。
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震えるより先に、何かを、決めたような顔をしていた。
その顔を、俺はまだ、見たことがなかった。




