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第三十六章 かみさまが静かな日

「行くから」


いつものその一言が、由紀から届いたのは、俺が夜の呼び出しを受けた直後だった。


***


タイミングまで、いつも通りだった。

留守番役という肩書きは、いつの間にか、由紀の生活の一部になっている。


***


「お邪魔しまーす。かみさま、いる?」

鍵を回す音のあと、まっすぐリビングへ向かう足音。

俺は、その背中に「俺もいるんだが」と言いかけて、やめた。


***


「おう、来たか」

ソファの定位置で、メレオスが胡座を組み直した。

「今日は、何を持ってきた」


***


「これ」

由紀が、鞄からスマホを取り出した。

画面には、派手なキャラクターが並んだゲームが立ち上がっている。


***


「ガチャ、というやつです。かみさま、運試ししてみる?」

「運試し……ほう」

メレオスの目が、わずかに光った気がした。


***


「わしは神じゃぞ。運なぞ、支配する側じゃ」

「支配する側の人、大抵ここで爆死するんだよね」

「言うたな。やってみせるわ」


***


由紀が画面をタップする。

星の演出。効果音。

出てきたのは、一番下のレアリティだった。


***


「……もう一回」

「かみさま、財布持ってないでしょ」

「わしの威厳で払う」


***


俺は、着替えながらそれを見ていた。

神様が課金の誘惑と戦っている絵面は、なかなか見られるものではない。


***


「じゃあ、俺は出るから」

「はーい、いってらっしゃい」

返事は、画面を見たまま。俺より、ガチャの結果のほうが優先順位が高いらしい。


***


玄関で靴を履きながら、俺は小さくため息をついた。

それでも、行き先が家の中である安心感は、あった。


***


扉が閉まる音を聞いてから、由紀はスマホを置いた。

「――で、かみさまはさ」


***


「なんじゃ」

「健司お兄ちゃんの子供の頃、見てたんでしょ」

「うむ、見ておったのぉ」


***


「じいちゃんの守護霊だったから、っていうのは聞いたけど。具体的に、何を見た」

メレオスの口の端が、にやりと上がった。


***


「聞きたいか」

「聞きたい」

食いつきが早かった。兄への忠誠心は、ここでは働かないらしい。


***


「小学生の健司は、合気道の受け身がとにかく下手でな」

「うん」

「畳に顔から突っ込んで、鼻血を出して、それでも稽古をやめんかった」


***


「あ、それ聞いたことある」

「泣きながら『もうやだ、もうやめる』言うて、次の日にはケロッと道場に来る。それの繰り返しじゃった」


***


「かわいい」

「頑固というより、忘れっぽいだけじゃったがな」


***


由紀は、腹を抱えて笑った。

「保存版。今度からかうときのネタにする」


***


「わしの話が、兄弟喧嘩の武器になっとる」

「かみさまが弾薬庫みたいなもんだから」

「悪い気はせんが、複雑じゃな」


***


しばらく、そんな話が続いた。

稽古着のまま井戸端会議に混ざろうとして伊左衛門に怒られた話。

虫が苦手なくせに、健司が虫取り網を持って庭を走り回っていた話。


***


由紀は、笑いながら、スマホにメモを取っていた。

「これ、由紀ノートってタイトルつけとこ」

「物騒な資料じゃな」


***


ふと、由紀が話題を変えた。

「そういえば、あの山の話。その後、どうなったの」


***


軽い調子だった。

世間話の続きのつもりの一言だった。


***


メレオスの返事が、一拍、遅れた。


***


「……ああ。あの話か」

声の温度が、さっきまでと違っていた。

由紀の目が、すっと細くなる。


***


「なに、その間」

「なんでもない」

「なんでもない人の間じゃないけど、今の」


***


メレオスは、視線をテレビのほうへ逃がした。

「進んどるような、進んどらんような。そういう話じゃ」

「それ、答えになってない」


***


「わしにも、まだ、よう分からんことが多いだけじゃ」

いつもの茶化しが、どこにも見当たらなかった。


***


由紀は、それ以上、突っ込まなかった。

突っ込む代わりに、キッチンへ立った。


***


「麦茶、おかわりいる?」

「……もらう」

グラスを運びながら、由紀はちらりとメレオスを見た。


***


膝を抱えた小さな背中は、いつもより、少しだけ丸まって見えた。


***


「かみさま」

「なんじゃ」

「別に、話したくないなら、いいけど」


***


由紀は、グラスをテーブルに置いた。

「あたし、鈍くないから。なんかあったのは、分かる」


***


メレオスは、しばらく黙っていた。

それから、ふっと、いつもの調子を無理やり引っ張り出すように言った。


***


「心配せんでええ。わしは神じゃぞ」

「神様でも、しょげるんだ」

「しょげてなぞ、おらん」


***


口ぶりだけは、いつもの調子だった。

けれど、目は笑っていなかった。


***


由紀は、それ以上聞かずに、隣に座り直した。

「じゃあ、次のガチャ、あたしが回したげる。かみさまの運、ちょっと信用できないし」


***


「言うたな」

「言った」

画面の中で、また星が散った。

今度は、上から二番目のレアリティだった。


***


「おお!」

「ほら、あたしの手のほうが良かったでしょ」

「認めん。次じゃ、次」


***


さっきよりは、声に張りが戻っていた。

それが、無理をして戻したものだと、由紀には分かっていた。


***


夜、俺が帰ると、リビングは静かだった。

メレオスは、いつもの位置でうたた寝をしている。

神は寝ん、と言い張っていたくせに。


***


由紀は、入れ替わりに帰り支度をして、玄関に出た。

靴を履きながら、声を落として言った。


***


「お兄ちゃん」

「ん?」

「かみさま、今日ちょっと様子変だったよ」


***


「……そう、か」

「山の話、ちょっと聞いただけなのに、急に静かになった」


***


由紀は、それ以上、何も聞いてこなかった。

聞いても、答えが返ってこないことを、もう分かっている顔だった。


***


「何かあったら、ちゃんと言ってよ」

「……ああ」

「あたしにじゃなくても、いいから」


***


その言い方に、俺は少しだけ驚いた。

自分を蚊帳の外にすることを、由紀のほうから許した言葉だった。


***


「じゃあね」

由紀は、いつも通りの声で言って、玄関を出ていった。


***


閉まった扉を、俺はしばらく見ていた。

リビングから、寝息と、麦茶のグラスが触れ合う小さな音が聞こえていた。


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