第三十六章 かみさまが静かな日
「行くから」
いつものその一言が、由紀から届いたのは、俺が夜の呼び出しを受けた直後だった。
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タイミングまで、いつも通りだった。
留守番役という肩書きは、いつの間にか、由紀の生活の一部になっている。
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「お邪魔しまーす。かみさま、いる?」
鍵を回す音のあと、まっすぐリビングへ向かう足音。
俺は、その背中に「俺もいるんだが」と言いかけて、やめた。
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「おう、来たか」
ソファの定位置で、メレオスが胡座を組み直した。
「今日は、何を持ってきた」
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「これ」
由紀が、鞄からスマホを取り出した。
画面には、派手なキャラクターが並んだゲームが立ち上がっている。
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「ガチャ、というやつです。かみさま、運試ししてみる?」
「運試し……ほう」
メレオスの目が、わずかに光った気がした。
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「わしは神じゃぞ。運なぞ、支配する側じゃ」
「支配する側の人、大抵ここで爆死するんだよね」
「言うたな。やってみせるわ」
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由紀が画面をタップする。
星の演出。効果音。
出てきたのは、一番下のレアリティだった。
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「……もう一回」
「かみさま、財布持ってないでしょ」
「わしの威厳で払う」
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俺は、着替えながらそれを見ていた。
神様が課金の誘惑と戦っている絵面は、なかなか見られるものではない。
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「じゃあ、俺は出るから」
「はーい、いってらっしゃい」
返事は、画面を見たまま。俺より、ガチャの結果のほうが優先順位が高いらしい。
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玄関で靴を履きながら、俺は小さくため息をついた。
それでも、行き先が家の中である安心感は、あった。
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扉が閉まる音を聞いてから、由紀はスマホを置いた。
「――で、かみさまはさ」
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「なんじゃ」
「健司お兄ちゃんの子供の頃、見てたんでしょ」
「うむ、見ておったのぉ」
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「じいちゃんの守護霊だったから、っていうのは聞いたけど。具体的に、何を見た」
メレオスの口の端が、にやりと上がった。
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「聞きたいか」
「聞きたい」
食いつきが早かった。兄への忠誠心は、ここでは働かないらしい。
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「小学生の健司は、合気道の受け身がとにかく下手でな」
「うん」
「畳に顔から突っ込んで、鼻血を出して、それでも稽古をやめんかった」
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「あ、それ聞いたことある」
「泣きながら『もうやだ、もうやめる』言うて、次の日にはケロッと道場に来る。それの繰り返しじゃった」
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「かわいい」
「頑固というより、忘れっぽいだけじゃったがな」
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由紀は、腹を抱えて笑った。
「保存版。今度からかうときのネタにする」
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「わしの話が、兄弟喧嘩の武器になっとる」
「かみさまが弾薬庫みたいなもんだから」
「悪い気はせんが、複雑じゃな」
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しばらく、そんな話が続いた。
稽古着のまま井戸端会議に混ざろうとして伊左衛門に怒られた話。
虫が苦手なくせに、健司が虫取り網を持って庭を走り回っていた話。
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由紀は、笑いながら、スマホにメモを取っていた。
「これ、由紀ノートってタイトルつけとこ」
「物騒な資料じゃな」
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ふと、由紀が話題を変えた。
「そういえば、あの山の話。その後、どうなったの」
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軽い調子だった。
世間話の続きのつもりの一言だった。
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メレオスの返事が、一拍、遅れた。
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「……ああ。あの話か」
声の温度が、さっきまでと違っていた。
由紀の目が、すっと細くなる。
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「なに、その間」
「なんでもない」
「なんでもない人の間じゃないけど、今の」
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メレオスは、視線をテレビのほうへ逃がした。
「進んどるような、進んどらんような。そういう話じゃ」
「それ、答えになってない」
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「わしにも、まだ、よう分からんことが多いだけじゃ」
いつもの茶化しが、どこにも見当たらなかった。
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由紀は、それ以上、突っ込まなかった。
突っ込む代わりに、キッチンへ立った。
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「麦茶、おかわりいる?」
「……もらう」
グラスを運びながら、由紀はちらりとメレオスを見た。
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膝を抱えた小さな背中は、いつもより、少しだけ丸まって見えた。
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「かみさま」
「なんじゃ」
「別に、話したくないなら、いいけど」
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由紀は、グラスをテーブルに置いた。
「あたし、鈍くないから。なんかあったのは、分かる」
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メレオスは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと、いつもの調子を無理やり引っ張り出すように言った。
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「心配せんでええ。わしは神じゃぞ」
「神様でも、しょげるんだ」
「しょげてなぞ、おらん」
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口ぶりだけは、いつもの調子だった。
けれど、目は笑っていなかった。
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由紀は、それ以上聞かずに、隣に座り直した。
「じゃあ、次のガチャ、あたしが回したげる。かみさまの運、ちょっと信用できないし」
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「言うたな」
「言った」
画面の中で、また星が散った。
今度は、上から二番目のレアリティだった。
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「おお!」
「ほら、あたしの手のほうが良かったでしょ」
「認めん。次じゃ、次」
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さっきよりは、声に張りが戻っていた。
それが、無理をして戻したものだと、由紀には分かっていた。
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夜、俺が帰ると、リビングは静かだった。
メレオスは、いつもの位置でうたた寝をしている。
神は寝ん、と言い張っていたくせに。
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由紀は、入れ替わりに帰り支度をして、玄関に出た。
靴を履きながら、声を落として言った。
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「お兄ちゃん」
「ん?」
「かみさま、今日ちょっと様子変だったよ」
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「……そう、か」
「山の話、ちょっと聞いただけなのに、急に静かになった」
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由紀は、それ以上、何も聞いてこなかった。
聞いても、答えが返ってこないことを、もう分かっている顔だった。
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「何かあったら、ちゃんと言ってよ」
「……ああ」
「あたしにじゃなくても、いいから」
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その言い方に、俺は少しだけ驚いた。
自分を蚊帳の外にすることを、由紀のほうから許した言葉だった。
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「じゃあね」
由紀は、いつも通りの声で言って、玄関を出ていった。
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閉まった扉を、俺はしばらく見ていた。
リビングから、寝息と、麦茶のグラスが触れ合う小さな音が聞こえていた。




