第三十五章 些細な問題、再び
倉庫の翌朝、0課の空気は重かった。
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捕まえた五人は、一晩たっても、一言も喋らなかった。
名前も、所属も、何も。
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「指紋、照合なし。顔認証も、なし」
通信機の向こうで、『ギーク』がため息をついた。
「この国に、存在しない人たちです。書類の上では」
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「手の甲の紋様以外、手がかりなしか」
『レスラー』が、腕を組んだ。
取調室の窓の向こうで、男たちは、同じ姿勢のまま座っていた。
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『ジョン』は、デスクでスマホを伏せていた。
日本酒の話は、今朝は一度も出なかった。
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帰国の期限まで、あと四十時間を切っている。
「帰らない」と決めたところで、それで済む話ではないことは、健司にも分かっていた。
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昼前、課長の机の電話が鳴った。
「うん、うん……はい……ええ……」
いつもの相槌が、途中から、一つずつ減っていった。
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受話器を置いた課長は、しばらく、何も言わなかった。
「外務省から、だった」
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「米国大使館から、正式な要請が来たそうだ」
課長が、『ジョン』のほうを見た。
「『ジョン』くんの身柄を、大使館に引き渡してほしい、と」
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会議室が、静かになった。
「命令、じゃなくて、引き渡し、か」
『ジョン』が、乾いた声で笑った。
「本人に帰る気がないなら、連れて帰る。分かりやすいな」
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「外務省は、なんて」
俺は聞いた。
「日米関係を考えると、応じざるを得ないだろう、と」
課長の「うん、うん」は、出てこなかった。
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その日の午後、赤城が来た。
エレベーターの扉が開くと、前置きもなく、会議室に入ってきた。
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「倉庫の報告を、聞かせてくれ」
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課長が、順を追って話した。
抹消されたナンバーの車。燃やされかけた資料。手の甲に紋様を入れた、訓練された六人。
『ホラー』が見た、「中に、入っている」男のこと。
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赤城は、最後まで、表情を変えなかった。
「一人、逃がしたか」
「手を使わずに、コンクリートを裂く相手でした」
『レスラー』が、短く言った。
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俺は、透明な袋に入った紙切れを、机の上に置いた。
焼け残りの、端のほう。
黒塗りの行の間に、一文字だけ。
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「倉庫で、見つかりました」
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赤城の目が、その字の上で止まった。
「共」
几帳面な、あの筆跡だった。
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長い沈黙だった。
公園のベンチで見た、あの沈黙と、同じ種類のものだった。
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「……預かっていいか」
「はい」
赤城は、袋を、スーツの内ポケットに、丁寧にしまった。
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倉庫で逃げた男が、共さんかもしれない。
喉まで、出かかっていた。
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だが、言えなかった。
「死んだと、聞かされてきた」と言ったときの、赤城の声を思い出した。
根拠は、同じ場所に字があった、というだけだ。
今、この人に、半端な推測をぶつけていいとは、思えなかった。
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「赤城さん」
先に口を開いたのは、『ジョン』だった。
椅子から立ち上がって、まっすぐ赤城を見ている。
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「帰りません」
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赤城は、『ジョン』を、しばらく見ていた。
「身柄の引き渡し要請が来ていることは、知っているな」
「知ってます」
「それでもか」
「それでもです」
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「続けろ」
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前にも、聞いた言葉だった。
本国から圧力をかけられた夜、『ジョン』が電話越しにもらった、あの一言だ。
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赤城は、会議室の電話を引き寄せた。
「課長、スピーカーにしてくれ」
「え、ここで、ですか」
「隠す話でもない」
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呼び出し音が、三回。
「外務省、北米局です」
「赤城だ。大使館からの要請の件で、話がある」
向こうの声が、一段、硬くなったのが分かった。
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「大臣、その件でしたら、こちらとしては、応じる方向で調整を」
「応じない」
一言だった。
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「し、しかし、日米関係への影響を考えますと」
「昨日、都内の倉庫で、公安の捜査員が、武装した集団に襲われた」
赤城の声は、いつも通り、丁寧だった。
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「集団は、手の甲に同じ紋様を入れた、訓練された人間だった。その動きは、米国側の訓練の型に近い。合同捜査の担当官が、そう証言している」
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受話器の向こうが、黙った。
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「その証人を、今、本国に戻せと言うなら、それでもいい」
赤城が、少しだけ、間を置いた。
「その代わり、日本政府として、米国に正式な説明を求めることになる。自国の訓練を受けた人間が、なぜ、日本国内で、日本の捜査員に銃を向けたのか、と」
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「大臣、それは、さすがに外交問題に」
「外交問題になるかどうかは、向こうが決めることだ」
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「ですが、先日も、CIAとのパイプの件で、かなり無理を」
「そんなことは、些細な問題だ」
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俺は、思わず、課長の顔を見た。
課長も、俺を見ていた。
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前に、課長の口から、伝聞で聞いた言葉だった。
今度は、この耳で、直接聞いた。
外務省の担当者が絶句した理由が、よく分かった。
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「大使館には、そう伝えてくれ。返事は、今日中に」
赤城は、それだけ言って、電話を切った。
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「……大臣って、みんなああなんですか」
俺は、小声で聞いた。
「あの人だけだよ」
課長が、小声で返した。
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返事は、夕方に来た。
課長が受話器を置いて、今度は、ちゃんと「うん、うん」と頷いた。
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「帰国命令は、取り下げない」
一瞬、会議室の空気が固まった。
「その代わり、『合同捜査のための出向延長』という形で、当面、日本に置く。そういう返事だそうだ」
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「命令は生きてるけど、帰らなくていい、ってことですか」
「向こうの顔を立てた、落としどころ、だね」
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『ジョン』が、深く、息を吐いた。
それから、赤城に向かって、頭を下げた。
「……助かりました」
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「礼なら、倉庫で庇ってくれた人間に言え」
赤城が、俺のほうを見た。
『ジョン』も、つられて、俺を見た。
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「もう、言われました」
「言ったっけ」
「言ってないですね」
「じゃあ、今言う。ありがとな、小沢」
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赤城が、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
すぐに、いつもの顔に戻る。
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「『ジョン』くん」
「はい」
「延長は、延長だ。いつまでも持つとは思うな」
「分かってます」
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赤城が帰ったあと、『ジョン』は、ようやく、スマホを表に返した。
「今夜は、純米にする」
誰に言うでもなく、そう言った。
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アパートに帰った。
「おかえりじゃ。今日は、また、いろいろあった顔じゃの」
メレオスが、ソファの定位置にいた。
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俺は、上着も脱がずに、向かいに座った。
「昨日の倉庫の話、まだ、ちゃんとしてなかった」
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順を追って、話した。
紋様の集団。燃やされかけた資料。
倉庫の奥で、何も持たずに立っていた男。
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「そいつが、手も使わずに、コンクリートを裂いたんだ」
「……ほう」
「『ホラー』さんが言うには、人の中に、何かが入ってるって」
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メレオスの目から、いつもの軽さが消えた。
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「それと、同じ倉庫に、資料の燃え残りがあって」
「うむ」
「そこに、『共』の字があった」
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俺は、少しだけ、迷った。
赤城には、言えなかったことだ。
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「あの男、共さんかもしれない」
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口に出すと、急に、それが本当のことのように思えてきた。
メレオスは、すぐには、何も言わなかった。
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「健司」
「うん」
「その男が使うたのは、魔法じゃ」
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「……やっぱり、そうか」
「じゃが、おかしい」
メレオスが、小さな指で、膝をとん、と叩いた。
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「普通の人間には、火は使えん。お主が使えるのは、伊左衛門の気功の修行があったからじゃ。最初に、そう言うたじゃろう」
「ああ」
「伊左衛門は、気功を、誰にも教えておらん。お主以外にはの」
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「弟弟子にも、か」
「弟弟子にもじゃ。あやつは、そういうところは、頑固じゃった」
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俺は、言われたことを、頭の中で並べた。
気功を知らない人間は、魔法を使えない。
共さんは、気功を習っていない。
それなのに、あの男は、魔法を使った。
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「じゃあ、あれは」
「使うておったのは、その男ではない」
メレオスの声が、低くなった。
「中におる方じゃ」
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「中にいるのって……」
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メレオスは、答えなかった。
窓の外を見たまま、膝を抱えている。
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その手が、少しだけ、震えていた。
俺は、メレオスが震えているところを、初めて見た。
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「……今日は、もう、寝ろ」
それだけ言って、メレオスは、ふっと、姿を消した。
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誰もいなくなったソファを、俺は、しばらく見ていた。
隣の部屋の明かりが、一つ、また一つと、消えていった。




