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第三十五章 些細な問題、再び

倉庫の翌朝、0課の空気は重かった。


***


捕まえた五人は、一晩たっても、一言も喋らなかった。

名前も、所属も、何も。


***


「指紋、照合なし。顔認証も、なし」

通信機の向こうで、『ギーク』がため息をついた。

「この国に、存在しない人たちです。書類の上では」


***


「手の甲の紋様以外、手がかりなしか」

『レスラー』が、腕を組んだ。

取調室の窓の向こうで、男たちは、同じ姿勢のまま座っていた。


***


『ジョン』は、デスクでスマホを伏せていた。

日本酒の話は、今朝は一度も出なかった。


***


帰国の期限まで、あと四十時間を切っている。

「帰らない」と決めたところで、それで済む話ではないことは、健司にも分かっていた。


***


昼前、課長の机の電話が鳴った。

「うん、うん……はい……ええ……」

いつもの相槌が、途中から、一つずつ減っていった。


***


受話器を置いた課長は、しばらく、何も言わなかった。

「外務省から、だった」


***


「米国大使館から、正式な要請が来たそうだ」

課長が、『ジョン』のほうを見た。

「『ジョン』くんの身柄を、大使館に引き渡してほしい、と」


***


会議室が、静かになった。

「命令、じゃなくて、引き渡し、か」

『ジョン』が、乾いた声で笑った。

「本人に帰る気がないなら、連れて帰る。分かりやすいな」


***


「外務省は、なんて」

俺は聞いた。

「日米関係を考えると、応じざるを得ないだろう、と」

課長の「うん、うん」は、出てこなかった。


***


その日の午後、赤城が来た。

エレベーターの扉が開くと、前置きもなく、会議室に入ってきた。


***


「倉庫の報告を、聞かせてくれ」


***


課長が、順を追って話した。

抹消されたナンバーの車。燃やされかけた資料。手の甲に紋様を入れた、訓練された六人。

『ホラー』が見た、「中に、入っている」男のこと。


***


赤城は、最後まで、表情を変えなかった。

「一人、逃がしたか」

「手を使わずに、コンクリートを裂く相手でした」

『レスラー』が、短く言った。


***


俺は、透明な袋に入った紙切れを、机の上に置いた。

焼け残りの、端のほう。

黒塗りの行の間に、一文字だけ。


***


「倉庫で、見つかりました」


***


赤城の目が、その字の上で止まった。

「共」

几帳面な、あの筆跡だった。


***


長い沈黙だった。

公園のベンチで見た、あの沈黙と、同じ種類のものだった。


***


「……預かっていいか」

「はい」

赤城は、袋を、スーツの内ポケットに、丁寧にしまった。


***


倉庫で逃げた男が、共さんかもしれない。

喉まで、出かかっていた。


***


だが、言えなかった。

「死んだと、聞かされてきた」と言ったときの、赤城の声を思い出した。

根拠は、同じ場所に字があった、というだけだ。

今、この人に、半端な推測をぶつけていいとは、思えなかった。


***


「赤城さん」

先に口を開いたのは、『ジョン』だった。

椅子から立ち上がって、まっすぐ赤城を見ている。


***


「帰りません」


***


赤城は、『ジョン』を、しばらく見ていた。

「身柄の引き渡し要請が来ていることは、知っているな」

「知ってます」

「それでもか」

「それでもです」


***


「続けろ」


***


前にも、聞いた言葉だった。

本国から圧力をかけられた夜、『ジョン』が電話越しにもらった、あの一言だ。


***


赤城は、会議室の電話を引き寄せた。

「課長、スピーカーにしてくれ」

「え、ここで、ですか」

「隠す話でもない」


***


呼び出し音が、三回。

「外務省、北米局です」

「赤城だ。大使館からの要請の件で、話がある」

向こうの声が、一段、硬くなったのが分かった。


***


「大臣、その件でしたら、こちらとしては、応じる方向で調整を」

「応じない」

一言だった。


***


「し、しかし、日米関係への影響を考えますと」

「昨日、都内の倉庫で、公安の捜査員が、武装した集団に襲われた」

赤城の声は、いつも通り、丁寧だった。


***


「集団は、手の甲に同じ紋様を入れた、訓練された人間だった。その動きは、米国側の訓練の型に近い。合同捜査の担当官が、そう証言している」


***


受話器の向こうが、黙った。


***


「その証人を、今、本国に戻せと言うなら、それでもいい」

赤城が、少しだけ、間を置いた。

「その代わり、日本政府として、米国に正式な説明を求めることになる。自国の訓練を受けた人間が、なぜ、日本国内で、日本の捜査員に銃を向けたのか、と」


***


「大臣、それは、さすがに外交問題に」

「外交問題になるかどうかは、向こうが決めることだ」


***


「ですが、先日も、CIAとのパイプの件で、かなり無理を」

「そんなことは、些細な問題だ」


***


俺は、思わず、課長の顔を見た。

課長も、俺を見ていた。


***


前に、課長の口から、伝聞で聞いた言葉だった。

今度は、この耳で、直接聞いた。

外務省の担当者が絶句した理由が、よく分かった。


***


「大使館には、そう伝えてくれ。返事は、今日中に」

赤城は、それだけ言って、電話を切った。


***


「……大臣って、みんなああなんですか」

俺は、小声で聞いた。

「あの人だけだよ」

課長が、小声で返した。


***


返事は、夕方に来た。

課長が受話器を置いて、今度は、ちゃんと「うん、うん」と頷いた。


***


「帰国命令は、取り下げない」

一瞬、会議室の空気が固まった。

「その代わり、『合同捜査のための出向延長』という形で、当面、日本に置く。そういう返事だそうだ」


***


「命令は生きてるけど、帰らなくていい、ってことですか」

「向こうの顔を立てた、落としどころ、だね」


***


『ジョン』が、深く、息を吐いた。

それから、赤城に向かって、頭を下げた。

「……助かりました」


***


「礼なら、倉庫で庇ってくれた人間に言え」

赤城が、俺のほうを見た。

『ジョン』も、つられて、俺を見た。


***


「もう、言われました」

「言ったっけ」

「言ってないですね」

「じゃあ、今言う。ありがとな、小沢」


***


赤城が、ほんの少しだけ、口元を緩めた。

すぐに、いつもの顔に戻る。


***


「『ジョン』くん」

「はい」

「延長は、延長だ。いつまでも持つとは思うな」

「分かってます」


***


赤城が帰ったあと、『ジョン』は、ようやく、スマホを表に返した。

「今夜は、純米にする」

誰に言うでもなく、そう言った。


***


アパートに帰った。

「おかえりじゃ。今日は、また、いろいろあった顔じゃの」

メレオスが、ソファの定位置にいた。


***


俺は、上着も脱がずに、向かいに座った。

「昨日の倉庫の話、まだ、ちゃんとしてなかった」


***


順を追って、話した。

紋様の集団。燃やされかけた資料。

倉庫の奥で、何も持たずに立っていた男。


***


「そいつが、手も使わずに、コンクリートを裂いたんだ」

「……ほう」

「『ホラー』さんが言うには、人の中に、何かが入ってるって」


***


メレオスの目から、いつもの軽さが消えた。


***


「それと、同じ倉庫に、資料の燃え残りがあって」

「うむ」

「そこに、『共』の字があった」


***


俺は、少しだけ、迷った。

赤城には、言えなかったことだ。


***


「あの男、共さんかもしれない」


***


口に出すと、急に、それが本当のことのように思えてきた。

メレオスは、すぐには、何も言わなかった。


***


「健司」

「うん」

「その男が使うたのは、魔法じゃ」


***


「……やっぱり、そうか」

「じゃが、おかしい」

メレオスが、小さな指で、膝をとん、と叩いた。


***


「普通の人間には、火は使えん。お主が使えるのは、伊左衛門の気功の修行があったからじゃ。最初に、そう言うたじゃろう」

「ああ」

「伊左衛門は、気功を、誰にも教えておらん。お主以外にはの」


***


「弟弟子にも、か」

「弟弟子にもじゃ。あやつは、そういうところは、頑固じゃった」


***


俺は、言われたことを、頭の中で並べた。

気功を知らない人間は、魔法を使えない。

共さんは、気功を習っていない。

それなのに、あの男は、魔法を使った。


***


「じゃあ、あれは」

「使うておったのは、その男ではない」

メレオスの声が、低くなった。

「中におる方じゃ」


***


「中にいるのって……」


***


メレオスは、答えなかった。

窓の外を見たまま、膝を抱えている。


***


その手が、少しだけ、震えていた。

俺は、メレオスが震えているところを、初めて見た。


***


「……今日は、もう、寝ろ」

それだけ言って、メレオスは、ふっと、姿を消した。


***


誰もいなくなったソファを、俺は、しばらく見ていた。

隣の部屋の明かりが、一つ、また一つと、消えていった。


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