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第三十四章 帰れと言われた男

朝の0課は、いつも通りだった。


***


「だから、純米と吟醸は、別物なんだって」

『ジョン』が、デスク越しに力説していた。

「米の削り方が違うんだ。削れば削るほど、雑味が消える」


***


「データも同じですよ」

通信機から、『ギーク』の声が割り込んだ。

「削れば削るほど、余計なものが消えて、本当のことだけ残るんです」

「それは、ちょっと違う気がする」


***


いつもの、どうでもいい言い合いだった。

俺は、コーヒーを片手に、それを聞き流していた。


***


『ジョン』のスマホが、机の上で震えた。

画面を見た瞬間、その顔から、軽さが消えた。

一秒もかからずに、元の顔に戻る。

見間違いかと思うくらい、短かった。


***


朝から、三度目だった。

俺は、何も聞かなかった。


***


昼前、課長が会議室に全員を呼んだ。

『ジョン』だけが、少し遅れて入ってきた。


***


「うん、うん。先に、言っておこうか」

課長が、『ジョン』のほうを見た。

「言っていいかな」

「……どうぞ」


***


「本国から、帰国命令が出た」

『ジョン』が、自分で言った。

「期限は、七十二時間。理由は、書いてない」


***


会議室が、静かになった。

『レスラー』が、腕を組んだまま、低く唸った。

「書いてなくても、分かるやつだな」


***


「照合の件、ですよね」

『ギーク』の声が、珍しく小さかった。

「CIAのデータ、許可なしで突き合わせたから」

「頼んだのは、こっちだ。お前のせいじゃない」

『ジョン』が、すぐに言った。


***


「悪い話は、もう一つ、あります」

『ギーク』が、気を取り直すように続けた。

「防衛省の倉庫の、例の古い資料。紋様の輪郭が一致したやつ」

「あれが、どうした」

「消えました。閲覧記録ごと」


***


「消えた?」

俺の声が、思わず大きくなった。

「昨日の夜まではあったんです。今朝見たら、最初から存在しなかったことになってました」


***


「消し方が、きれいすぎるんですよ」

『ギーク』が、悔しそうに言った。

「『常世会』の逃走車のときと、同じ手つきです」


***


同じ日に、二つ。

偶然だと思える人間は、この部屋にはいなかった。


***


昼休み、俺は屋上に出た。

先客がいた。

『ジョン』が、フェンスにもたれて、空を見ていた。


***


「小沢も、サボりか」

「休憩です」

「同じだろ」


***


しばらく、二人とも黙っていた。

遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。


***


「帰れば、たぶん、二度とこの件には触らせてもらえない」

『ジョン』が、ぽつりと言った。

「経歴も、家族も、向こうに握られてる。前にも、言ったな」


***


「帰るんですか」

「分からない」

即答だった。答えになっていない答えだった。


***


「三年前、間に合わなかった話、しただろ」

「相棒の人の」

「ああ」

『ジョン』が、フェンスを握る手に、少しだけ力を込めた。


***


「ここで帰ったら、また、間に合わない気がするんだ」

「……」

「もう、ああいうのは嫌なんだよ」


***


俺は、何も言えなかった。

言えることが、なかった。

『ジョン』も、答えを求めているようには見えなかった。


***


午後、通信機が鳴った。

「見つけました!」

『ギーク』の声が、いつもの早口に戻っていた。


***


「倉庫から資料を運び出した車です。業者を装ってますけど、ナンバーが、一週間前に抹消されてるやつでした」

「行き先は」

「湾岸の、使われてない倉庫。今、防犯カメラで追えてるのは、そこまでです」


***


「うん、うん」

課長が、珍しく、すぐに頷いた。

「『レスラー』くん、『ホラー』くん、小沢くん。行ってくれるかな」


***


「俺も行く」

『ジョン』が、椅子から立ち上がっていた。

「『ジョン』くん、君は」

「帰国まで、まだ六十九時間ある」

課長は、少しだけ考えて、「うん」とだけ言った。


***


湾岸の倉庫は、夕方の光の中で、錆びた箱みたいに見えた。

シャッターの隙間から、細い煙が上がっている。


***


「燃やしてやがる」

『レスラー』が、低い声で言った。

「資料ごと、なかったことにする気だな」


***


『ホラー』が、シャッターの前で、足を止めた。

髪の隙間から、じっと中を見ている。


***


「……一人」

「一人?」

「人じゃないものを、連れてる人がいます」


***


「連れてる、って」

「隠り山の、あれとは違います」

『ホラー』の声が、硬くなった。

「外にいるんじゃない。中に、入ってる」


***


背中が、冷たくなった。

聞き返す前に、『レスラー』が手で合図を出した。

「行くぞ。『オザケン』、俺の後ろだ」


***


シャッターを蹴り開けた。

中にいたのは、作業着の男たちが、六人。

ドラム缶の中で、紙の束が燃えていた。


***


「公安だ。動くな」

『レスラー』の声が、倉庫に響いた。

男たちは、動いた。

全員が、迷いなく、懐に手を入れた。


***


銃声が、倉庫の壁に跳ね返った。

『レスラー』が、コンテナの陰に俺を突き飛ばす。

『ジョン』が、反対側の柱の陰から撃ち返した。


***


「素人じゃないな」

『ジョン』が、弾倉を替えながら言った。

「動き方が、訓練されてる。うちの国の、どこかで見たことがある型だ」


***


男の一人が、腕を振り上げた。

その手の甲に、見覚えのある線があった。

隠り山の、祠の石に残っていた、三つ目の紋様だった。


***


「『オザケン』、ドラム缶!」

『ホラー』が叫んだ。

紙の束が、どんどん灰になっていく。


***


俺は、手をかざした。

風を、ドラム缶の真上に叩きつける。

炎が押し潰されて、燃えかけの紙が、床に散った。


***


「今のは……」

男たちの一人が、初めて、動きを止めた。

その隙に、『レスラー』が突っ込んだ。

二人まとめて、床に叩きつける。


***


残りの男たちが、散った。

『ジョン』が、一人の足を撃ち抜く。

もう一人を、『レスラー』が、コンテナに押しつけて締め落とした。


***


一人だけ、動かない男がいた。

倉庫の奥で、ただ、立っていた。

銃も、構えていない。

倉庫の奥は暗かった。

天窓の光を背にして、顔は輪郭しか見えなかった。


***


「あの人です」

『ホラー』が、俺の袖を引いた。

「中に、入ってるのは」


***


男が、こっちを見た。

目が、合った気がした。

人間の目なのに、人間が見ている感じがしなかった。


***


男が、ゆっくりと、腕を上げた。

その先にいたのは、柱の陰から身を乗り出した、『ジョン』だった。


***


男の手には、何も握られていなかった。

それなのに、『ジョン』の足元のコンクリートが、音を立てて裂けた。


***


「『ジョン』!」

考えるより先に、体が動いていた。

『ジョン』の前に飛び出して、両手を床に叩きつける。


***


「むん――ッ!」

床から、土の壁がせり上がった。

見えない何かが、壁にぶつかって、砕けた。

破片が、頬をかすめる。


***


壁の向こうで、男が、首を傾げた。

面白いものを見つけた子供みたいな、仕草だった。


***


俺は、火を灯した。

いつもなら、迷わず放つ大きさだった。

だが、手が、止まった。


***


中にいるのが何であれ、外側は、人間だった。

燃やせば、その人間ごと燃える。


***


一瞬の迷いだった。

その一瞬で、男は、倉庫の裏口から消えていた。


***


「追うな!」

『レスラー』が、叫んだ。

「深追いするな。あれは、普通じゃない」


***


倉庫の中に、焦げた紙の匂いと、硝煙の匂いだけが残った。

捕まえた男たちは、五人。

誰一人、何も喋ろうとしなかった。


***


俺は、土の壁の前に、座り込んでいた。

手のひらが、まだ、じんじんと熱い。


***


「『オザケン』」

『ジョン』が、隣にしゃがんだ。

崩れかけの土の壁を、こん、と拳で叩く。


***


「今のも、気功か?」


***


俺は、しばらく黙っていた。

土の壁を、見た。

床を、見た。

それから、『ジョン』の顔を見た。


***


「……魔法です」


***


『ジョン』は、目を丸くしなかった。

驚きもしなかった。

ただ、にやっと笑った。


***


「知ってた」

「……ですよね」

「ウィンドカッターのときから、知ってた」


***


「0課の中で、聞かされてなかったの、俺だけだろ」

「……はい」

「順番、ちゃんと守ったからな。俺は」

『ジョン』が、少しだけ得意げに言った。


***


「帰国の件、どうするんですか」

聞くと、『ジョン』は、立ち上がって、膝の埃を払った。


***


「目の前で、魔法で命を助けられたんだ」

「……」

「これで帰ったら、一生、酒がまずくなる」


***


「帰らないってことですか」

「帰る理由が、なくなった」

『ジョン』が、スマホを取り出して、画面を見ないまま、ポケットに戻した。

「本国には、あとで、うまく言い訳を考える」


***


『レスラー』が、捕まえた男を立たせながら、鼻で笑った。

「言い訳の下手そうな顔だな」

「うるさいよ」


***


『ホラー』が、床に散った、燃え残りの紙を拾い集めていた。

ほとんどが、黒く焦げて、読めなかった。


***


一枚だけ、端が残っていた。

『ホラー』が、それを、黙って俺に差し出した。


***


黒塗りの行の間に、手書きの字が、一つだけあった。

几帳面な、見覚えのある筆跡だった。


***


「共」


***


倉庫の裏口の向こうで、風が鳴った。

あの男が消えた先から、吹いてくるようだった。


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