第三十四章 帰れと言われた男
朝の0課は、いつも通りだった。
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「だから、純米と吟醸は、別物なんだって」
『ジョン』が、デスク越しに力説していた。
「米の削り方が違うんだ。削れば削るほど、雑味が消える」
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「データも同じですよ」
通信機から、『ギーク』の声が割り込んだ。
「削れば削るほど、余計なものが消えて、本当のことだけ残るんです」
「それは、ちょっと違う気がする」
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いつもの、どうでもいい言い合いだった。
俺は、コーヒーを片手に、それを聞き流していた。
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『ジョン』のスマホが、机の上で震えた。
画面を見た瞬間、その顔から、軽さが消えた。
一秒もかからずに、元の顔に戻る。
見間違いかと思うくらい、短かった。
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朝から、三度目だった。
俺は、何も聞かなかった。
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昼前、課長が会議室に全員を呼んだ。
『ジョン』だけが、少し遅れて入ってきた。
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「うん、うん。先に、言っておこうか」
課長が、『ジョン』のほうを見た。
「言っていいかな」
「……どうぞ」
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「本国から、帰国命令が出た」
『ジョン』が、自分で言った。
「期限は、七十二時間。理由は、書いてない」
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会議室が、静かになった。
『レスラー』が、腕を組んだまま、低く唸った。
「書いてなくても、分かるやつだな」
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「照合の件、ですよね」
『ギーク』の声が、珍しく小さかった。
「CIAのデータ、許可なしで突き合わせたから」
「頼んだのは、こっちだ。お前のせいじゃない」
『ジョン』が、すぐに言った。
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「悪い話は、もう一つ、あります」
『ギーク』が、気を取り直すように続けた。
「防衛省の倉庫の、例の古い資料。紋様の輪郭が一致したやつ」
「あれが、どうした」
「消えました。閲覧記録ごと」
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「消えた?」
俺の声が、思わず大きくなった。
「昨日の夜まではあったんです。今朝見たら、最初から存在しなかったことになってました」
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「消し方が、きれいすぎるんですよ」
『ギーク』が、悔しそうに言った。
「『常世会』の逃走車のときと、同じ手つきです」
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同じ日に、二つ。
偶然だと思える人間は、この部屋にはいなかった。
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昼休み、俺は屋上に出た。
先客がいた。
『ジョン』が、フェンスにもたれて、空を見ていた。
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「小沢も、サボりか」
「休憩です」
「同じだろ」
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しばらく、二人とも黙っていた。
遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。
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「帰れば、たぶん、二度とこの件には触らせてもらえない」
『ジョン』が、ぽつりと言った。
「経歴も、家族も、向こうに握られてる。前にも、言ったな」
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「帰るんですか」
「分からない」
即答だった。答えになっていない答えだった。
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「三年前、間に合わなかった話、しただろ」
「相棒の人の」
「ああ」
『ジョン』が、フェンスを握る手に、少しだけ力を込めた。
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「ここで帰ったら、また、間に合わない気がするんだ」
「……」
「もう、ああいうのは嫌なんだよ」
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俺は、何も言えなかった。
言えることが、なかった。
『ジョン』も、答えを求めているようには見えなかった。
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午後、通信機が鳴った。
「見つけました!」
『ギーク』の声が、いつもの早口に戻っていた。
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「倉庫から資料を運び出した車です。業者を装ってますけど、ナンバーが、一週間前に抹消されてるやつでした」
「行き先は」
「湾岸の、使われてない倉庫。今、防犯カメラで追えてるのは、そこまでです」
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「うん、うん」
課長が、珍しく、すぐに頷いた。
「『レスラー』くん、『ホラー』くん、小沢くん。行ってくれるかな」
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「俺も行く」
『ジョン』が、椅子から立ち上がっていた。
「『ジョン』くん、君は」
「帰国まで、まだ六十九時間ある」
課長は、少しだけ考えて、「うん」とだけ言った。
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湾岸の倉庫は、夕方の光の中で、錆びた箱みたいに見えた。
シャッターの隙間から、細い煙が上がっている。
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「燃やしてやがる」
『レスラー』が、低い声で言った。
「資料ごと、なかったことにする気だな」
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『ホラー』が、シャッターの前で、足を止めた。
髪の隙間から、じっと中を見ている。
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「……一人」
「一人?」
「人じゃないものを、連れてる人がいます」
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「連れてる、って」
「隠り山の、あれとは違います」
『ホラー』の声が、硬くなった。
「外にいるんじゃない。中に、入ってる」
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背中が、冷たくなった。
聞き返す前に、『レスラー』が手で合図を出した。
「行くぞ。『オザケン』、俺の後ろだ」
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シャッターを蹴り開けた。
中にいたのは、作業着の男たちが、六人。
ドラム缶の中で、紙の束が燃えていた。
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「公安だ。動くな」
『レスラー』の声が、倉庫に響いた。
男たちは、動いた。
全員が、迷いなく、懐に手を入れた。
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銃声が、倉庫の壁に跳ね返った。
『レスラー』が、コンテナの陰に俺を突き飛ばす。
『ジョン』が、反対側の柱の陰から撃ち返した。
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「素人じゃないな」
『ジョン』が、弾倉を替えながら言った。
「動き方が、訓練されてる。うちの国の、どこかで見たことがある型だ」
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男の一人が、腕を振り上げた。
その手の甲に、見覚えのある線があった。
隠り山の、祠の石に残っていた、三つ目の紋様だった。
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「『オザケン』、ドラム缶!」
『ホラー』が叫んだ。
紙の束が、どんどん灰になっていく。
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俺は、手をかざした。
風を、ドラム缶の真上に叩きつける。
炎が押し潰されて、燃えかけの紙が、床に散った。
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「今のは……」
男たちの一人が、初めて、動きを止めた。
その隙に、『レスラー』が突っ込んだ。
二人まとめて、床に叩きつける。
***
残りの男たちが、散った。
『ジョン』が、一人の足を撃ち抜く。
もう一人を、『レスラー』が、コンテナに押しつけて締め落とした。
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一人だけ、動かない男がいた。
倉庫の奥で、ただ、立っていた。
銃も、構えていない。
倉庫の奥は暗かった。
天窓の光を背にして、顔は輪郭しか見えなかった。
***
「あの人です」
『ホラー』が、俺の袖を引いた。
「中に、入ってるのは」
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男が、こっちを見た。
目が、合った気がした。
人間の目なのに、人間が見ている感じがしなかった。
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男が、ゆっくりと、腕を上げた。
その先にいたのは、柱の陰から身を乗り出した、『ジョン』だった。
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男の手には、何も握られていなかった。
それなのに、『ジョン』の足元のコンクリートが、音を立てて裂けた。
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「『ジョン』!」
考えるより先に、体が動いていた。
『ジョン』の前に飛び出して、両手を床に叩きつける。
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「むん――ッ!」
床から、土の壁がせり上がった。
見えない何かが、壁にぶつかって、砕けた。
破片が、頬をかすめる。
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壁の向こうで、男が、首を傾げた。
面白いものを見つけた子供みたいな、仕草だった。
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俺は、火を灯した。
いつもなら、迷わず放つ大きさだった。
だが、手が、止まった。
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中にいるのが何であれ、外側は、人間だった。
燃やせば、その人間ごと燃える。
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一瞬の迷いだった。
その一瞬で、男は、倉庫の裏口から消えていた。
***
「追うな!」
『レスラー』が、叫んだ。
「深追いするな。あれは、普通じゃない」
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倉庫の中に、焦げた紙の匂いと、硝煙の匂いだけが残った。
捕まえた男たちは、五人。
誰一人、何も喋ろうとしなかった。
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俺は、土の壁の前に、座り込んでいた。
手のひらが、まだ、じんじんと熱い。
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「『オザケン』」
『ジョン』が、隣にしゃがんだ。
崩れかけの土の壁を、こん、と拳で叩く。
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「今のも、気功か?」
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俺は、しばらく黙っていた。
土の壁を、見た。
床を、見た。
それから、『ジョン』の顔を見た。
***
「……魔法です」
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『ジョン』は、目を丸くしなかった。
驚きもしなかった。
ただ、にやっと笑った。
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「知ってた」
「……ですよね」
「ウィンドカッターのときから、知ってた」
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「0課の中で、聞かされてなかったの、俺だけだろ」
「……はい」
「順番、ちゃんと守ったからな。俺は」
『ジョン』が、少しだけ得意げに言った。
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「帰国の件、どうするんですか」
聞くと、『ジョン』は、立ち上がって、膝の埃を払った。
***
「目の前で、魔法で命を助けられたんだ」
「……」
「これで帰ったら、一生、酒がまずくなる」
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「帰らないってことですか」
「帰る理由が、なくなった」
『ジョン』が、スマホを取り出して、画面を見ないまま、ポケットに戻した。
「本国には、あとで、うまく言い訳を考える」
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『レスラー』が、捕まえた男を立たせながら、鼻で笑った。
「言い訳の下手そうな顔だな」
「うるさいよ」
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『ホラー』が、床に散った、燃え残りの紙を拾い集めていた。
ほとんどが、黒く焦げて、読めなかった。
***
一枚だけ、端が残っていた。
『ホラー』が、それを、黙って俺に差し出した。
***
黒塗りの行の間に、手書きの字が、一つだけあった。
几帳面な、見覚えのある筆跡だった。
***
「共」
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倉庫の裏口の向こうで、風が鳴った。
あの男が消えた先から、吹いてくるようだった。




