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第三十三章 半分の続き

隠り山から戻って、五日が経っていた。

「共」の一文字は、頭の隅に居座ったままだった。


***


「知っている字だ」――それだけで、赤城は電話を切った。

それ以来、連絡はない。


***


0課の会議室で、俺は書類のふりをした紙を睨んでいた。

中身は、何も頭に入ってこなかった。


***


「『オザケン』さん、聞いてます?」

通信機から、『ギーク』の声が飛んだ。

「あ、聞いてる聞いてる」


***


「聞いてなかったですよね、今」

図星だった。

課長が、苦笑いで助け舟を出す。

「まあまあ、結果だけ聞こうか」


***


「はい。まず、石の成分。特に変わったものじゃないです。この辺の山でよく採れる、ただの花崗岩」

「じゃあ、彫り跡のほうは」

『ホラー』が、先を促した。


***


「それが、ちょっと変で」

『ギーク』の声が、いつもより一段低くなった。

「風化の進み方から見て、彫られたのは、五十年前より、ずっと新しいです」


***


「……どれくらい」

俺の声が、思わず尖った。

「精度は出ないですけど、たぶん、十年とか、二十年とか。そのくらいのオーダーです」


***


会議室が、静かになった。

五十年前の対決の跡だと、疑いもしなかった場所だった。


***


「五十年前に彫られたにしては新しすぎる、ってことか」

『ジョン』が、腕を組んだ。

「誰かが、あとから彫り直したか。あるいは――」


***


「あとから、もう一度、来た」

『ホラー』が、静かに続きを引き取った。

場の空気が、また一段冷えた。


***


「もう一つ、いいですか」

『ギーク』が、続けた。

「手帳の『共』と、石の『共』。筆跡の癖まで、ほぼ同じ人物のものだと思います」


***


「二回とも、同じ一文字だけ」

『ホラー』が、髪の隙間から呟いた。

「地名でも、記号でもない。これ、たぶん、名前か、呼び名です」


***


「誰かが、自分の代わりに、その字だけを残していった、ってことか」

課長が、腕を組んだ。

「サインみたいなものかもしれないね」


***


「紋様の照合は?」

課長が、話を先に進めた。

「そっちも、収穫ありです。CIAのデータと、国内の古い記録、両方とも部分一致しました」


***


「国内の、古い記録?」

「防衛省の倉庫に眠ってた、年代不明の資料です。黒塗りだらけで、ほとんど読めないですけど、紋様の輪郭だけは一致してます」


***


「本国の許可、まだ取れてないんですけど、」

『ジョン』が、ばつが悪そうに付け足した。

「今、絶賛、取ってる最中です」


***


情報が増えるほど、赤城の「知っている字だ」の一言が、重くなっていく気がした。

「共」は、地名でも記号でもなく、誰かの名前らしい。

それが分かっただけで、聞くべきことが変わった。


***


俺は、会議のあと、一人で電話をかけた。

赤城の声は、いつも通り丁寧だった。


***


「健司くんか。『ギーク』君の解析結果は、聞いている」

「それなら、話が早いです」

「何の話かな」


***


「共って、名前か呼び名らしいって、うちのほうでも分かりました」

「……そこまで、分かったか」

「共って人が、誰なのか。今度こそ、聞かせてください」


***


電話越しに、一瞬、間があった。

「今は言えない、と言ったはずだが」


***


「彫り跡、五十年前のものにしては新しすぎるそうです。誰かが、あとで、もう一度あの山に行ったかもしれない、って」


***


今度の間は、さっきより長かった。

「……直接、会って話そう」

赤城の声が、初めて、迷いを含んでいるように聞こえた。


***


指定されたのは、議員会館ではなく、近くの小さな公園だった。

夜、人けのないベンチに、赤城は先に座っていた。


***


「わざわざこんな所で、すみません」

「こういう話は、庁舎でするものじゃない」

赤城が、隣を軽く手で示した。

俺は、素直に座った。


***


「単刀直入に聞きます」

「ああ」

「共は、誰ですか」


***


赤城は、しばらく夜空を見ていた。

丁寧な物腰の下で、何かを量っているような沈黙だった。


***


「伊左衛門さんの、弟弟子だ」

初めて出てきた、具体的な言葉だった。


***


「弟弟子……」

「祖父様より、五つほど下だったと聞いている。俺が入門するより前の話だ」


***


「その人が、隠り山に一緒にいたんですか」

「五十年前、伊左衛門さんと二人で、あの山に入った」


***


「――戻ってきたのは、伊左衛門さん一人だった」

赤城の声が、初めて、揺れた。


***


俺は、しばらく、言葉が出なかった。

「じゃあ、共さんは……」

「死んだと、聞かされてきた。入門したときから、ずっとだ」


***


「でも」

「ああ」

赤城が、俺の言おうとしたことを、先に引き取った。


***


「彫り跡が、十年やそこらしか経っていないというなら」

「死んだ人間には、できない話だ」

夜の公園に、その一言だけが、やけにはっきりと響いた。


***


「長いこと、信じてきたことが、今日、揺らいだ」

赤城が、初めて、丁寧さの奥にあるものを、隠さずに見せた。


***


「大丈夫、ですか」

気づけば、そう聞いていた。

相手は大臣で、兄弟子で、いつも一枚上手な人間のはずだった。


***


「大丈夫かどうかは、俺にも分からない」

赤城は、短く笑った。

だが、いつもの余裕のある笑い方ではなかった。


***


「共の、名字だけでも」

「それは、まだ、言えない」

「さっきより、後退してませんか」


***


「名前を出せば、探す人間が動く。生きているなら、なおさらだ」

赤城の声に、初めて、俺を突き放すのではなく、守ろうとする響きがあった。


***


「俺に、何ができますか」

「今は、待て。俺のほうでも、もう一度、確かめる」


***


赤城は、それだけ言うと、ベンチから立ち上がった。

いつもの、隙のない背筋に戻っていた。


***


「健司くん」

「はい」

「今日、聞いたことは、しばらく、ここだけの話にしてほしい」


***


俺は、頷いた。

赤城は、夜道を、一人で歩いていった。


***


アパートに戻ると、メレオスが、いつもの調子でソファにいた。

「遅かったのぉ」


***


俺は、順を追って話した。

共のこと。弟弟子だったこと。戻らなかったはずだったこと。


***


メレオスは、最後まで、黙って聞いていた。

話し終えても、しばらく、何も言わなかった。


***


「……共、か」

「知ってるのか」

「いや」

メレオスは、首を振った。


***


「伊左衛門から、その名は、聞いたことがない」

「隠してたってことか」

「隠していたというより――」


***


「話す機会が、なかったのかもしれん。それとも」

メレオスの声が、小さくなった。

「話せんかったのか、じゃな」


***


窓の外では、隣の部屋の明かりが、一つ、また一つと消えていった。

共という名前だけが、まだ、消えずに残っていた。


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