第三十三章 半分の続き
隠り山から戻って、五日が経っていた。
「共」の一文字は、頭の隅に居座ったままだった。
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「知っている字だ」――それだけで、赤城は電話を切った。
それ以来、連絡はない。
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0課の会議室で、俺は書類のふりをした紙を睨んでいた。
中身は、何も頭に入ってこなかった。
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「『オザケン』さん、聞いてます?」
通信機から、『ギーク』の声が飛んだ。
「あ、聞いてる聞いてる」
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「聞いてなかったですよね、今」
図星だった。
課長が、苦笑いで助け舟を出す。
「まあまあ、結果だけ聞こうか」
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「はい。まず、石の成分。特に変わったものじゃないです。この辺の山でよく採れる、ただの花崗岩」
「じゃあ、彫り跡のほうは」
『ホラー』が、先を促した。
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「それが、ちょっと変で」
『ギーク』の声が、いつもより一段低くなった。
「風化の進み方から見て、彫られたのは、五十年前より、ずっと新しいです」
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「……どれくらい」
俺の声が、思わず尖った。
「精度は出ないですけど、たぶん、十年とか、二十年とか。そのくらいのオーダーです」
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会議室が、静かになった。
五十年前の対決の跡だと、疑いもしなかった場所だった。
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「五十年前に彫られたにしては新しすぎる、ってことか」
『ジョン』が、腕を組んだ。
「誰かが、あとから彫り直したか。あるいは――」
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「あとから、もう一度、来た」
『ホラー』が、静かに続きを引き取った。
場の空気が、また一段冷えた。
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「もう一つ、いいですか」
『ギーク』が、続けた。
「手帳の『共』と、石の『共』。筆跡の癖まで、ほぼ同じ人物のものだと思います」
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「二回とも、同じ一文字だけ」
『ホラー』が、髪の隙間から呟いた。
「地名でも、記号でもない。これ、たぶん、名前か、呼び名です」
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「誰かが、自分の代わりに、その字だけを残していった、ってことか」
課長が、腕を組んだ。
「サインみたいなものかもしれないね」
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「紋様の照合は?」
課長が、話を先に進めた。
「そっちも、収穫ありです。CIAのデータと、国内の古い記録、両方とも部分一致しました」
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「国内の、古い記録?」
「防衛省の倉庫に眠ってた、年代不明の資料です。黒塗りだらけで、ほとんど読めないですけど、紋様の輪郭だけは一致してます」
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「本国の許可、まだ取れてないんですけど、」
『ジョン』が、ばつが悪そうに付け足した。
「今、絶賛、取ってる最中です」
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情報が増えるほど、赤城の「知っている字だ」の一言が、重くなっていく気がした。
「共」は、地名でも記号でもなく、誰かの名前らしい。
それが分かっただけで、聞くべきことが変わった。
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俺は、会議のあと、一人で電話をかけた。
赤城の声は、いつも通り丁寧だった。
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「健司くんか。『ギーク』君の解析結果は、聞いている」
「それなら、話が早いです」
「何の話かな」
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「共って、名前か呼び名らしいって、うちのほうでも分かりました」
「……そこまで、分かったか」
「共って人が、誰なのか。今度こそ、聞かせてください」
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電話越しに、一瞬、間があった。
「今は言えない、と言ったはずだが」
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「彫り跡、五十年前のものにしては新しすぎるそうです。誰かが、あとで、もう一度あの山に行ったかもしれない、って」
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今度の間は、さっきより長かった。
「……直接、会って話そう」
赤城の声が、初めて、迷いを含んでいるように聞こえた。
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指定されたのは、議員会館ではなく、近くの小さな公園だった。
夜、人けのないベンチに、赤城は先に座っていた。
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「わざわざこんな所で、すみません」
「こういう話は、庁舎でするものじゃない」
赤城が、隣を軽く手で示した。
俺は、素直に座った。
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「単刀直入に聞きます」
「ああ」
「共は、誰ですか」
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赤城は、しばらく夜空を見ていた。
丁寧な物腰の下で、何かを量っているような沈黙だった。
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「伊左衛門さんの、弟弟子だ」
初めて出てきた、具体的な言葉だった。
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「弟弟子……」
「祖父様より、五つほど下だったと聞いている。俺が入門するより前の話だ」
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「その人が、隠り山に一緒にいたんですか」
「五十年前、伊左衛門さんと二人で、あの山に入った」
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「――戻ってきたのは、伊左衛門さん一人だった」
赤城の声が、初めて、揺れた。
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俺は、しばらく、言葉が出なかった。
「じゃあ、共さんは……」
「死んだと、聞かされてきた。入門したときから、ずっとだ」
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「でも」
「ああ」
赤城が、俺の言おうとしたことを、先に引き取った。
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「彫り跡が、十年やそこらしか経っていないというなら」
「死んだ人間には、できない話だ」
夜の公園に、その一言だけが、やけにはっきりと響いた。
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「長いこと、信じてきたことが、今日、揺らいだ」
赤城が、初めて、丁寧さの奥にあるものを、隠さずに見せた。
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「大丈夫、ですか」
気づけば、そう聞いていた。
相手は大臣で、兄弟子で、いつも一枚上手な人間のはずだった。
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「大丈夫かどうかは、俺にも分からない」
赤城は、短く笑った。
だが、いつもの余裕のある笑い方ではなかった。
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「共の、名字だけでも」
「それは、まだ、言えない」
「さっきより、後退してませんか」
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「名前を出せば、探す人間が動く。生きているなら、なおさらだ」
赤城の声に、初めて、俺を突き放すのではなく、守ろうとする響きがあった。
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「俺に、何ができますか」
「今は、待て。俺のほうでも、もう一度、確かめる」
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赤城は、それだけ言うと、ベンチから立ち上がった。
いつもの、隙のない背筋に戻っていた。
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「健司くん」
「はい」
「今日、聞いたことは、しばらく、ここだけの話にしてほしい」
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俺は、頷いた。
赤城は、夜道を、一人で歩いていった。
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アパートに戻ると、メレオスが、いつもの調子でソファにいた。
「遅かったのぉ」
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俺は、順を追って話した。
共のこと。弟弟子だったこと。戻らなかったはずだったこと。
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メレオスは、最後まで、黙って聞いていた。
話し終えても、しばらく、何も言わなかった。
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「……共、か」
「知ってるのか」
「いや」
メレオスは、首を振った。
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「伊左衛門から、その名は、聞いたことがない」
「隠してたってことか」
「隠していたというより――」
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「話す機会が、なかったのかもしれん。それとも」
メレオスの声が、小さくなった。
「話せんかったのか、じゃな」
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窓の外では、隣の部屋の明かりが、一つ、また一つと消えていった。
共という名前だけが、まだ、消えずに残っていた。




