第三十二章 まだ消えていない
風が止んだ、その直後だった。
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「来ました」
『ホラー』の声だった。
短い、公園のときと同じ一言。
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木立の四方から、影が滲むように湧いた。
輪郭がおかしい。人の形をしていない。
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黒い霧のようなものが、集まって来た。
『ジョン』が拳銃を構え、撃った。
弾は、そのまま影を素通りした。
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「効かない」
『ジョン』の声から、軽さが消えていた。
弾倉を確かめる手が、一瞬だけ止まる。
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「『オザケン』!火炎!」
『ホラー』が叫んだ。
いつもの静かな声からは、想像もつかない大きさだった。
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俺は、四方に散った影へ、順番に手をかざした。
(加減はいらん)
頭の中で、メレオスの声がした気がした。
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「むん――ッ!」
一つ目の影が、悲鳴のような音を立てて弾けた。
すぐ隣から、二つ目が迫る。
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「むんっ!」
「まだ来る!」
『ジョン』が、空になった弾倉を叩き込みながら怒鳴った。
影は、減った数よりも多く湧いてくる。
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切りがなかった。
祠の跡を中心に、木立そのものが、影を生み続けているようだった。
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「退きます!」
『ホラー』の判断は早かった。
俺の腕を、初めて強く引いた。
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三人で、来た道を駆け下りた。
背後で、影が唸るような音を立てている。
振り返る余裕は、なかった。
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錆びたゲートが見えたところで、初めて足を止めた。
追ってくる気配が、ない。
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「……来ませんね」
『ホラー』が、木立の奥を見たまま言った。
「境目が、あるみたいです」
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「山から出られない、ってことか」
『ジョン』が、息を整えながら聞いた。
「多分」
短い答えだった。
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営林署の老人は、もう車の中にいた。
こちらを見ようともしなかった。
見なくても、分かっているような態度だった。
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車に乗り込んでから、『ホラー』が、ようやく口を開いた。
「あの祠に居た物の、残滓でしょうね」
「残滓」
「本体じゃない。抜け殻の、切れ端みたいなものです」
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抜け殻。
伊左衛門が追い返した「あれ」の、燃えかすのようなもの。
そう考えると、辻褄が合う気がした。
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「『オザケン』」
『ジョン』が、助手席から振り返った。
「あれ、ファイアボールだよね」
「気功です」
即答した。
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「気功、ねぇ」
納得していない目だった。
「この間のウィンドカッターと言い……」
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ブツブツ言っているのが聞こえたが、聞こえないふりをした。
『ホラー』は、窓の外を見たまま、何も言わなかった。
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会議室に戻ると、課長が待っていた。
写真と、ポケットに突っ込んできた石片を、机に並べる。
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「うん、うん……これは、赤城さんに直接、見てもらったほうがいいね」
課長の声から、いつもの緩さが半分抜けていた。
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電話がつながる。
スピーカーから、赤城の声が響いた。
写真を、俺がスマホ越しに送る。
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しばらく、返事がなかった。
「……『メリディアン』、か」
初めて、赤城の口から、その名前が出た。
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「今まで、確信は持ってなかった」
「だが、この紋様は、間違いない」
丁寧な声の奥に、初めて、隠しきれない硬さがあった。
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石片に彫られた「共」の字の写真も、送った。
今度の沈黙は、さっきより長かった。
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「……この字は」
言いかけて、止まった。
「赤城さん?」
「……知っている字だ」
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「誰のですか」
「今は、言えない」
短く、はっきりと拒まれた。
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「俺が知っていることも、半分にも満たない――そう言っただろう」
「今回のことで、その半分が、もう少し減った」
それだけ言って、電話は切れた。
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課長が、写真と石片を、透明の袋に入れた。
「これ、『ギーク』くんに回そうか」
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通信機がつながる。
「はいはーい、『ギーク』です」
いつもの、早口の声だった。
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「現地には行かせてないけれど、写真と石のデータの解析をお願いできるかな」
「行ってないのに私に振るの、露骨ですね」
笑いながらの、嫌味だった。
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「石の成分と、彫り跡の年代。あと、この紋様の照合。CIAのサーバーとも、今回は突き合わせてもらえますか」
『ジョン』が、横から付け足した。
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「本国の許可、取れてます?」
「取れてないけど、今取る」
「気が早いですね」
呆れた声のわりに、もうキーボードを叩く音がしていた。
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「肉まん、次は十個で」
「値上げ、早すぎませんか」
課長が、頼りない笑いのまま、反論した。
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「命がけの現場データですから」
「行ってないですよね」
「気持ちの話です」
通信が切れた。
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アパートに帰った。
「おかえりじゃ」
メレオスが、ソファの定位置にいた。
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「今日も、何かあったな」
「顔でも見えるのか」
「疲れ方が、いつもと違う」
否定できなかった。
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順を追って、話した。
影のこと。逃げたこと。境目のこと。
『ホラー』の言った「残滓」という言葉も。
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メレオスは、しばらく、黙っていた。
いつもの茶化しが、出てこなかった。
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「残滓、か」
「抜け殻の、燃えかすみたいなもんだって、『ホラー』は言ってた」
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「消えたはずのものが、まだ、山に残っておるということは……」
メレオスの声が、いつもより低かった。
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「伊左衛門は、追い返した、と言うておった」
「殺さずに、な」
「それが」
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「本当に、追い返しただけで、済んでおったのかどうか」
「今日、少し、分からんくなった」
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「どういう意味だよ」
聞いても、メレオスは、すぐには答えなかった。
窓の外を見たまま、しばらく黙っている。
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「あやつ、まだ、どこかで生きておるのやもしれん」
小さな声だった。
だが、はっきりと、聞こえた。
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窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。




