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第三十二章 まだ消えていない

風が止んだ、その直後だった。


***


「来ました」

『ホラー』の声だった。


短い、公園のときと同じ一言。


***


木立の四方から、影が滲むように湧いた。


輪郭がおかしい。人の形をしていない。


***


黒い霧のようなものが、集まって来た。


『ジョン』が拳銃を構え、撃った。


弾は、そのまま影を素通りした。


***


「効かない」

『ジョン』の声から、軽さが消えていた。


弾倉を確かめる手が、一瞬だけ止まる。


***


「『オザケン』!火炎!」

『ホラー』が叫んだ。


いつもの静かな声からは、想像もつかない大きさだった。


***


俺は、四方に散った影へ、順番に手をかざした。


(加減はいらん)


頭の中で、メレオスの声がした気がした。


***


「むん――ッ!」


一つ目の影が、悲鳴のような音を立てて弾けた。


すぐ隣から、二つ目が迫る。


***


「むんっ!」

「まだ来る!」

『ジョン』が、空になった弾倉を叩き込みながら怒鳴った。


影は、減った数よりも多く湧いてくる。


***


切りがなかった。


祠の跡を中心に、木立そのものが、影を生み続けているようだった。


***


「退きます!」

『ホラー』の判断は早かった。


俺の腕を、初めて強く引いた。


***


三人で、来た道を駆け下りた。


背後で、影が唸るような音を立てている。


振り返る余裕は、なかった。


***


錆びたゲートが見えたところで、初めて足を止めた。


追ってくる気配が、ない。


***


「……来ませんね」

『ホラー』が、木立の奥を見たまま言った。

「境目が、あるみたいです」


***


「山から出られない、ってことか」

『ジョン』が、息を整えながら聞いた。

「多分」


短い答えだった。


***


営林署の老人は、もう車の中にいた。


こちらを見ようともしなかった。


見なくても、分かっているような態度だった。


***


車に乗り込んでから、『ホラー』が、ようやく口を開いた。


「あの祠に居た物の、残滓でしょうね」

「残滓」

「本体じゃない。抜け殻の、切れ端みたいなものです」


***


抜け殻。


伊左衛門が追い返した「あれ」の、燃えかすのようなもの。


そう考えると、辻褄が合う気がした。


***


「『オザケン』」

『ジョン』が、助手席から振り返った。

「あれ、ファイアボールだよね」


「気功です」


即答した。


***


「気功、ねぇ」

納得していない目だった。

「この間のウィンドカッターと言い……」


***


ブツブツ言っているのが聞こえたが、聞こえないふりをした。


『ホラー』は、窓の外を見たまま、何も言わなかった。


***


会議室に戻ると、課長が待っていた。


写真と、ポケットに突っ込んできた石片を、机に並べる。


***


「うん、うん……これは、赤城さんに直接、見てもらったほうがいいね」

課長の声から、いつもの緩さが半分抜けていた。


***


電話がつながる。


スピーカーから、赤城の声が響いた。


写真を、俺がスマホ越しに送る。


***


しばらく、返事がなかった。


「……『メリディアン』、か」


初めて、赤城の口から、その名前が出た。


***


「今まで、確信は持ってなかった」

「だが、この紋様は、間違いない」

丁寧な声の奥に、初めて、隠しきれない硬さがあった。


***


石片に彫られた「共」の字の写真も、送った。


今度の沈黙は、さっきより長かった。


***


「……この字は」

言いかけて、止まった。


「赤城さん?」

「……知っている字だ」


***


「誰のですか」

「今は、言えない」

短く、はっきりと拒まれた。


***


「俺が知っていることも、半分にも満たない――そう言っただろう」

「今回のことで、その半分が、もう少し減った」


それだけ言って、電話は切れた。


***


課長が、写真と石片を、透明の袋に入れた。


「これ、『ギーク』くんに回そうか」


***


通信機がつながる。


「はいはーい、『ギーク』です」


いつもの、早口の声だった。


***


「現地には行かせてないけれど、写真と石のデータの解析をお願いできるかな」

「行ってないのに私に振るの、露骨ですね」


笑いながらの、嫌味だった。


***


「石の成分と、彫り跡の年代。あと、この紋様の照合。CIAのサーバーとも、今回は突き合わせてもらえますか」

『ジョン』が、横から付け足した。


***


「本国の許可、取れてます?」

「取れてないけど、今取る」

「気が早いですね」


呆れた声のわりに、もうキーボードを叩く音がしていた。


***


「肉まん、次は十個で」

「値上げ、早すぎませんか」

課長が、頼りない笑いのまま、反論した。


***


「命がけの現場データですから」

「行ってないですよね」

「気持ちの話です」


通信が切れた。


***


アパートに帰った。


「おかえりじゃ」


メレオスが、ソファの定位置にいた。


***


「今日も、何かあったな」

「顔でも見えるのか」

「疲れ方が、いつもと違う」


否定できなかった。


***


順を追って、話した。


影のこと。逃げたこと。境目のこと。


『ホラー』の言った「残滓」という言葉も。


***


メレオスは、しばらく、黙っていた。


いつもの茶化しが、出てこなかった。


***


「残滓、か」

「抜け殻の、燃えかすみたいなもんだって、『ホラー』は言ってた」


***


「消えたはずのものが、まだ、山に残っておるということは……」

メレオスの声が、いつもより低かった。


***


「伊左衛門は、追い返した、と言うておった」

「殺さずに、な」

「それが」


***


「本当に、追い返しただけで、済んでおったのかどうか」

「今日、少し、分からんくなった」


***


「どういう意味だよ」


聞いても、メレオスは、すぐには答えなかった。


窓の外を見たまま、しばらく黙っている。


***


「あやつ、まだ、どこかで生きておるのやもしれん」


小さな声だった。


だが、はっきりと、聞こえた。


***


窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。


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