第三十章 指切りの答え
夜、アパートのリビングで、メレオスが手帳を睨んでいた。
「隠り山、隠り山……」
同じ二文字を、もう何十回も呟いている。
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「進んでるのか、それ」
「進んでおる。少しずつじゃ」
「少しずつ、ってレベルが低すぎないか」
メレオスは、答えずに、手帳のページを爪でなぞった。
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そのとき、インターホンが鳴った。
無視した。今日は誰も来る予定がない。
もう一度、鳴った。今度は、長押しだった。
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「出んのか」
「宗教か保険の勧誘だろ」
三度目は、インターホンではなく、ドアを直接叩く音だった。
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「お兄ちゃん、いるの分かってるから」
由紀の声だった。
心臓が、跳ねた。
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「ちょっ、待――」
言い終わる前に、鍵の回る音がした。
「何かあったときのため」に、と親が持たせた合鍵を、由紀はまだ持っていた。
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ドアが開く。
メレオスは、いつもの調子で、手帳から顔を上げただけだった。
消える気配が、まるでなかった。
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俺は、身構えた。
悲鳴か。それとも、腰が抜けるか。
由紀の反応は、そのどちらでもなかった。
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「なに、この子かわいいー」
靴を片方だけ脱いだ姿勢のまま、由紀が駆け寄ってきた。
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「え」
俺の思考が、完全に止まった。
「え、じゃないでしょ。誰、この子。お兄ちゃん、こんな小さい親戚いたっけ」
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由紀は、もう、メレオスの正面にしゃがみこんでいた。
服装をじっくり観察する目が、完全に、子猫を見つける目だった。
「その服、コスプレ?金髪もウィッグ?」
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「わしは、神であるぞよ」
メレオスが、胸を張って名乗った。
いつもの決め台詞だった。
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「かみさま」
由紀が、繰り返した。
「かみさま、って呼べばいいの。ねえ、かみさま」
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「うける。かみさま、なのに、なんか、ぬいぐるみっぽい」
「ぬいぐるみとは何じゃ!わしは実体であるぞ!」
メレオスの声が、初めて大きくなった。
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「実体なんだ。触ってもいい?」
「触るな!いや、待て、触っても構わんが」
すでに、由紀の手が、メレオスの頭に伸びていた。
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「わっ、ふわふわ」
「子供扱いするなと言うておるのに、頭をなでるでない!」
嫌がる声の割に、逃げる様子はまったくなかった。
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俺は、そのやり取りを、突っ立って見ているしかなかった。
想定していた展開が、ひとつも来なかった。
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「……怖くないのか」
やっと、言葉が出た。
由紀が、メレオスの頭から手を離さないまま、こっちを見た。
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「怖い要素、どこにあるの」
「いや、その、神様だぞ。実在の」
「うちに祀ってある神棚の神様より、よっぽど話しかけやすいじゃん」
理屈は、由紀なりに通っているらしかった。
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「それより」
由紀の目が、急に、真面目な色に変わった。
「お兄ちゃんが、誰もいないところに喋ってた理由、これだったんだ」
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「……うん」
「気のせいとか、仕事のストレスとか、全部、嘘だったんだ」
「悪い」
素直に、頭を下げた。
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由紀は、しばらく、こっちを見ていた。
怒っている顔ではなかった。むしろ、少し、ほっとしているような顔だった。
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「まあ、いいよ。おかしくなったんじゃなくて、よかった」
「そこ、心配してたのか」
「心配してたに決まってるでしょ」
いつもの強気な声が、少しだけ、震えていた。
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メレオスが、二人のやり取りを見ながら、ぽつりと言った。
「消えようとは、思わなんだ」
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「なんでだよ、いつも都合が悪いと消えるのに」
「今更、隠れる意味もないと思うたのでな」
いつもの茶化した口調ではなかった。
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「『あの娘が』と、この前も言うておった。会わせる日が来るかもしれんとな。
――今日だったというだけの話じゃ」
メレオスは、それだけ言うと、また、いつもの調子に戻った。
「ぶわっはは、まあ、驚かれんかったのは、案外、悪くない気分じゃ」
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由紀が、ソファの隅に置いてあった手帳に気づいた。
「それ、おじいちゃんの手帳だよね」
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「約束、覚えてるよね」
由紀が、指を差し出してきた。
蔵で見せた、あの指切りのポーズだった。
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「何か分かったら、教えてって言ったやつ」
「……ああ」
俺は、指を絡めながら、迷った。
隠り山のこと、四十五年前のこと、赤城の言葉。全部話すべきなのか、まだ分からない。
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「今、分かってるのは、山の名前がひとつと、年号だけだ。それ以上は、まだ何も」
「山の名前」
「隠り山、って場所らしい」
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由紀の目が、興味と何かの気配を帯びた。
「じゃあ、あたしも手伝う」
「いや、それは」
「指切りしたのは、お兄ちゃんだけじゃないでしょ。おじいちゃんの手帳、見つけたのはあたしだから」
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理屈としては、正しかった。
だからこそ、厄介だった。
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メレオスが、手帳を、そっと閉じた。
「会わせてよかったかどうかは……これから、分かることじゃろうな」
窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。
一つの秘密が消えた夜に、新しい厄介事が、静かに増えていた。




