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第三十章 指切りの答え

夜、アパートのリビングで、メレオスが手帳を睨んでいた。


「隠り山、隠り山……」


同じ二文字を、もう何十回も呟いている。


***


「進んでるのか、それ」

「進んでおる。少しずつじゃ」

「少しずつ、ってレベルが低すぎないか」


メレオスは、答えずに、手帳のページを爪でなぞった。


***


そのとき、インターホンが鳴った。


無視した。今日は誰も来る予定がない。


もう一度、鳴った。今度は、長押しだった。


***


「出んのか」

「宗教か保険の勧誘だろ」


三度目は、インターホンではなく、ドアを直接叩く音だった。


***


「お兄ちゃん、いるの分かってるから」


由紀の声だった。


心臓が、跳ねた。


***


「ちょっ、待――」


言い終わる前に、鍵の回る音がした。


「何かあったときのため」に、と親が持たせた合鍵を、由紀はまだ持っていた。


***


ドアが開く。


メレオスは、いつもの調子で、手帳から顔を上げただけだった。


消える気配が、まるでなかった。


***


俺は、身構えた。


悲鳴か。それとも、腰が抜けるか。


由紀の反応は、そのどちらでもなかった。


***


「なに、この子かわいいー」

靴を片方だけ脱いだ姿勢のまま、由紀が駆け寄ってきた。


***


「え」

俺の思考が、完全に止まった。

「え、じゃないでしょ。誰、この子。お兄ちゃん、こんな小さい親戚いたっけ」


***


由紀は、もう、メレオスの正面にしゃがみこんでいた。


服装をじっくり観察する目が、完全に、子猫を見つける目だった。


「その服、コスプレ?金髪もウィッグ?」


***


「わしは、神であるぞよ」

メレオスが、胸を張って名乗った。


いつもの決め台詞だった。


***


「かみさま」

由紀が、繰り返した。

「かみさま、って呼べばいいの。ねえ、かみさま」


***


「うける。かみさま、なのに、なんか、ぬいぐるみっぽい」

「ぬいぐるみとは何じゃ!わしは実体であるぞ!」

メレオスの声が、初めて大きくなった。


***


「実体なんだ。触ってもいい?」

「触るな!いや、待て、触っても構わんが」


すでに、由紀の手が、メレオスの頭に伸びていた。


***


「わっ、ふわふわ」

「子供扱いするなと言うておるのに、頭をなでるでない!」


嫌がる声の割に、逃げる様子はまったくなかった。


***


俺は、そのやり取りを、突っ立って見ているしかなかった。


想定していた展開が、ひとつも来なかった。


***


「……怖くないのか」


やっと、言葉が出た。


由紀が、メレオスの頭から手を離さないまま、こっちを見た。


***


「怖い要素、どこにあるの」

「いや、その、神様だぞ。実在の」

「うちに祀ってある神棚の神様より、よっぽど話しかけやすいじゃん」


理屈は、由紀なりに通っているらしかった。


***


「それより」

由紀の目が、急に、真面目な色に変わった。

「お兄ちゃんが、誰もいないところに喋ってた理由、これだったんだ」


***


「……うん」

「気のせいとか、仕事のストレスとか、全部、嘘だったんだ」

「悪い」


素直に、頭を下げた。


***


由紀は、しばらく、こっちを見ていた。


怒っている顔ではなかった。むしろ、少し、ほっとしているような顔だった。


***


「まあ、いいよ。おかしくなったんじゃなくて、よかった」

「そこ、心配してたのか」

「心配してたに決まってるでしょ」


いつもの強気な声が、少しだけ、震えていた。


***


メレオスが、二人のやり取りを見ながら、ぽつりと言った。


「消えようとは、思わなんだ」


***


「なんでだよ、いつも都合が悪いと消えるのに」

「今更、隠れる意味もないと思うたのでな」


いつもの茶化した口調ではなかった。


***


「『あの娘が』と、この前も言うておった。会わせる日が来るかもしれんとな。

 ――今日だったというだけの話じゃ」

メレオスは、それだけ言うと、また、いつもの調子に戻った。

「ぶわっはは、まあ、驚かれんかったのは、案外、悪くない気分じゃ」


***


由紀が、ソファの隅に置いてあった手帳に気づいた。


「それ、おじいちゃんの手帳だよね」


***


「約束、覚えてるよね」

由紀が、指を差し出してきた。


蔵で見せた、あの指切りのポーズだった。


***


「何か分かったら、教えてって言ったやつ」

「……ああ」


俺は、指を絡めながら、迷った。


隠り山のこと、四十五年前のこと、赤城の言葉。全部話すべきなのか、まだ分からない。


***


「今、分かってるのは、山の名前がひとつと、年号だけだ。それ以上は、まだ何も」

「山の名前」

「隠り山、って場所らしい」


***


由紀の目が、興味と何かの気配を帯びた。


「じゃあ、あたしも手伝う」

「いや、それは」

「指切りしたのは、お兄ちゃんだけじゃないでしょ。おじいちゃんの手帳、見つけたのはあたしだから」


***


理屈としては、正しかった。


だからこそ、厄介だった。


***


メレオスが、手帳を、そっと閉じた。


「会わせてよかったかどうかは……これから、分かることじゃろうな」


窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。


一つの秘密が消えた夜に、新しい厄介事が、静かに増えていた。


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