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第二十九章 半分だけの約束

ジョンへの圧力騒ぎから、数日が経った。表向き、0課の日常は、いつも通りに戻っていた。


夜、アパートに帰ると、メレオスが手帳を膝に乗せたまま、ソファで難しい顔をしていた。


「おかえりじゃ」


声が、いつもより低い。


***


「進んだのか、解読」

「進んだ、というほどでもないが」

メレオスが、手帳の一点を指でなぞった。


***


「ここじゃ。読めたのは、ここだけじゃ」


覗き込むと、擦れかけた文字が並んでいた。


「――山」


上の一文字が、破れて読めない。


***


「山、としか」

「いや。もう少し、ある」

メレオスが、隣の文字を指す。


小さく、「四十五年」とだけ、書いてあった。


***


「昭和の書き方じゃ。伊左衛門が、若い頃の暦じゃな」

「五十年くらい前ってことか」


頭の中に、数日前に聞いた『ジョン』の声が蘇った。


『五十年前、うちの国は、何かを失敗してる』


数字が、重なった気がした。


「偶然か」

「偶然にしては、出来すぎとる」


メレオスの声に、いつもの茶化しがなかった。


***


翌朝、地下の会議室は、いつも通りに見えて、いつも通りではなかった。


『ジョン』は、缶コーヒーを開けていた。だが、飲むペースがいつもより早い。


***


「本国から、また何か?」


俺が聞くと、『ジョン』は肩をすくめた。


「今のところ、静かなもんだ。静かすぎて、逆に気味が悪い」


***


『ギーク』が、モニターの向こうから口を挟む。


「監視、強化されてません? 昨日から、変なアクセスログ増えてますよ」

「見張られてる自覚は、あるさ」

『ジョン』が、軽く笑って流した。だが、目は笑っていなかった。


***


「うん、うん」

課長が、湯呑みを両手で包みながら、輪に入ってきた。

「今日、赤城さんが、様子を見に来るって」


***


「心配、ってことすか」

『レスラー』が、腕を組んだ。


「確認、だろうな。あの人がここに来るときは、大体、確認だ」


***


『ホラー』が、湯呑みを置いたまま、何も言わずにうなずいた。それだけで、場の空気が少し引き締まった。


***


俺は、鞄の中の手帳を、意識した。


赤城が来る。手帳の答えは、まだ半分も出ていない。


***


午後、赤城は、予告通りに来た。


物腰は、いつも通り丁寧だった。丁寧なまま、部屋の温度を少し下げる、あの感じも変わらない。


***


「『ジョン』くんの件は、聞いている。よく、耐えてくれた」


『ジョン』に、短くねぎらいの言葉をかける。『ジョン』は、「光栄です」とだけ返した。


***


一通りの報告が終わったあと、俺は、意を決した。


「赤城さん。一つ、見てほしいものが」


***


鞄から、手帳を取り出す。


赤城の目が、一瞬、細くなった。


「それは」

「祖父の、古い手帳です。実家の蔵から出てきました」


***


ページを開き、あの記号と、「――山」「四十五年」の文字を見せる。


会議室が、静かになった。


***


赤城は、しばらく、何も言わなかった。


指先で、破れた一文字の跡を、そっとなぞる。


「……隠り山、か」


***


初めて聞く名前だった。だが、赤城の口から出ると、それだけで、ただの地名ではなくなった。


「知ってるんですか」

「聞き覚えは、ある」

赤城が、珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。


***


「山中に、旧陸軍の演習場跡がある。今は、地図にも載っていない場所だ」

「演習場」

「詳しいことは、俺も、直接は知らない」


***


「じゃあ、なんで」

「師匠の口から、一度だけ、聞いたことがあるからだ」

赤城の声が、少し落ちた。


***


「若い頃、酒の席で、な。それきり、二度と、口にされなかった」

「何て、言ってたんですか」


***


赤城は、俺をまっすぐ見た。


「『あの山は、覚えていたほうがいい。忘れると、また誰かが行くことになる』――それだけだ」


***


会議室に、沈黙が落ちた。


「意味、分かります?」

「分からない」

赤城が、静かに首を振る。

「だが、忘れなかったから、今、こうして話している」


***


それだけ言うと、赤城は、手帳をそっと俺に返した。


「この先は、俺のほうでも、確認する」

「教えて、もらえますか」

「分かったことは、伝える。だが」


***


一拍、置いて、赤城が続けた。


「俺が知っていることも、たぶん、半分にも満たない」


その言葉は、いつもの余裕のある声とは、少し違って聞こえた。


***


アパートに帰ると、メレオスが、また手帳を広げていた。


「赤城の反応、聞かせてくれんか」


俺は、隠り山のこと、演習場のこと、赤城の言葉を、順番に話した。


***


メレオスの表情が、少しずつ、変わっていった。


「隠り山、という字面には、覚えがある」

「知ってるのか」


***


「名までは、知らん。だが、伊左衛門が、若い頃、一度だけ、寝言で呟いたことがある。名前とは、別の日にな」

「寝言、多いな、じいちゃん」

「本人も、覚えとらんかったじゃろう。だからこそ、寝言に出た」


***


メレオスが、手帳のページを、もう一度、めくった。


ページの端を、じっと見つめる。


急に、動きが止まった。


***


「……これは」

「どうした」


メレオスの指が、地名の脇の、小さな一文字を示した。


伊左衛門の乱雑な字とは、明らかに違う、几帳面な筆跡だった。


***


「共」


たった一文字。


「伊左衛門の字じゃない」

メレオスの声が、初めて、はっきりと揺れた。

「これは……誰の字じゃ」


***


答えは、出なかった。


手帳のページが、また、風もないのに、かすかに揺れた。


赤城への確認は、まだ半分しか、進んでいない。


そして今、新しい「半分」が、手帳の中から、もう一つ、顔を出した。


隠すことに慣れた大人が二人、教えてくれたのは、地名と、年号だけだった。


答えではなく、次の謎の、入り口だった。


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