第二十九章 半分だけの約束
ジョンへの圧力騒ぎから、数日が経った。表向き、0課の日常は、いつも通りに戻っていた。
夜、アパートに帰ると、メレオスが手帳を膝に乗せたまま、ソファで難しい顔をしていた。
「おかえりじゃ」
声が、いつもより低い。
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「進んだのか、解読」
「進んだ、というほどでもないが」
メレオスが、手帳の一点を指でなぞった。
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「ここじゃ。読めたのは、ここだけじゃ」
覗き込むと、擦れかけた文字が並んでいた。
「――山」
上の一文字が、破れて読めない。
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「山、としか」
「いや。もう少し、ある」
メレオスが、隣の文字を指す。
小さく、「四十五年」とだけ、書いてあった。
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「昭和の書き方じゃ。伊左衛門が、若い頃の暦じゃな」
「五十年くらい前ってことか」
頭の中に、数日前に聞いた『ジョン』の声が蘇った。
『五十年前、うちの国は、何かを失敗してる』
数字が、重なった気がした。
「偶然か」
「偶然にしては、出来すぎとる」
メレオスの声に、いつもの茶化しがなかった。
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翌朝、地下の会議室は、いつも通りに見えて、いつも通りではなかった。
『ジョン』は、缶コーヒーを開けていた。だが、飲むペースがいつもより早い。
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「本国から、また何か?」
俺が聞くと、『ジョン』は肩をすくめた。
「今のところ、静かなもんだ。静かすぎて、逆に気味が悪い」
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『ギーク』が、モニターの向こうから口を挟む。
「監視、強化されてません? 昨日から、変なアクセスログ増えてますよ」
「見張られてる自覚は、あるさ」
『ジョン』が、軽く笑って流した。だが、目は笑っていなかった。
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「うん、うん」
課長が、湯呑みを両手で包みながら、輪に入ってきた。
「今日、赤城さんが、様子を見に来るって」
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「心配、ってことすか」
『レスラー』が、腕を組んだ。
「確認、だろうな。あの人がここに来るときは、大体、確認だ」
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『ホラー』が、湯呑みを置いたまま、何も言わずにうなずいた。それだけで、場の空気が少し引き締まった。
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俺は、鞄の中の手帳を、意識した。
赤城が来る。手帳の答えは、まだ半分も出ていない。
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午後、赤城は、予告通りに来た。
物腰は、いつも通り丁寧だった。丁寧なまま、部屋の温度を少し下げる、あの感じも変わらない。
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「『ジョン』くんの件は、聞いている。よく、耐えてくれた」
『ジョン』に、短くねぎらいの言葉をかける。『ジョン』は、「光栄です」とだけ返した。
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一通りの報告が終わったあと、俺は、意を決した。
「赤城さん。一つ、見てほしいものが」
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鞄から、手帳を取り出す。
赤城の目が、一瞬、細くなった。
「それは」
「祖父の、古い手帳です。実家の蔵から出てきました」
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ページを開き、あの記号と、「――山」「四十五年」の文字を見せる。
会議室が、静かになった。
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赤城は、しばらく、何も言わなかった。
指先で、破れた一文字の跡を、そっとなぞる。
「……隠り山、か」
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初めて聞く名前だった。だが、赤城の口から出ると、それだけで、ただの地名ではなくなった。
「知ってるんですか」
「聞き覚えは、ある」
赤城が、珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
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「山中に、旧陸軍の演習場跡がある。今は、地図にも載っていない場所だ」
「演習場」
「詳しいことは、俺も、直接は知らない」
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「じゃあ、なんで」
「師匠の口から、一度だけ、聞いたことがあるからだ」
赤城の声が、少し落ちた。
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「若い頃、酒の席で、な。それきり、二度と、口にされなかった」
「何て、言ってたんですか」
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赤城は、俺をまっすぐ見た。
「『あの山は、覚えていたほうがいい。忘れると、また誰かが行くことになる』――それだけだ」
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会議室に、沈黙が落ちた。
「意味、分かります?」
「分からない」
赤城が、静かに首を振る。
「だが、忘れなかったから、今、こうして話している」
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それだけ言うと、赤城は、手帳をそっと俺に返した。
「この先は、俺のほうでも、確認する」
「教えて、もらえますか」
「分かったことは、伝える。だが」
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一拍、置いて、赤城が続けた。
「俺が知っていることも、たぶん、半分にも満たない」
その言葉は、いつもの余裕のある声とは、少し違って聞こえた。
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アパートに帰ると、メレオスが、また手帳を広げていた。
「赤城の反応、聞かせてくれんか」
俺は、隠り山のこと、演習場のこと、赤城の言葉を、順番に話した。
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メレオスの表情が、少しずつ、変わっていった。
「隠り山、という字面には、覚えがある」
「知ってるのか」
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「名までは、知らん。だが、伊左衛門が、若い頃、一度だけ、寝言で呟いたことがある。名前とは、別の日にな」
「寝言、多いな、じいちゃん」
「本人も、覚えとらんかったじゃろう。だからこそ、寝言に出た」
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メレオスが、手帳のページを、もう一度、めくった。
ページの端を、じっと見つめる。
急に、動きが止まった。
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「……これは」
「どうした」
メレオスの指が、地名の脇の、小さな一文字を示した。
伊左衛門の乱雑な字とは、明らかに違う、几帳面な筆跡だった。
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「共」
たった一文字。
「伊左衛門の字じゃない」
メレオスの声が、初めて、はっきりと揺れた。
「これは……誰の字じゃ」
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答えは、出なかった。
手帳のページが、また、風もないのに、かすかに揺れた。
赤城への確認は、まだ半分しか、進んでいない。
そして今、新しい「半分」が、手帳の中から、もう一つ、顔を出した。
隠すことに慣れた大人が二人、教えてくれたのは、地名と、年号だけだった。
答えではなく、次の謎の、入り口だった。




