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第二十八章 問い合わせた代償

朝、地下の会議室に、『ジョン』がいなかった。


「珍しいですね。あの人、いつも一番乗りなのに」

『ギーク』が、モニターから顔を上げて言う。


「うん、うん。連絡もないね」

課長が、スマホを見ながら首をかしげた。


***


十時を過ぎても、『ジョン』のデスクは空いたままだった。


缶コーヒーも、開いていない。


「電話、してみます」


俺が、席を立ちかけたところで、エレベーターの音がした。


***


扉が開くと、『ジョン』が立っていた。


いつもの軽さが、どこにもなかった。


無精髭が、少し伸びている。昨夜、眠っていないような顔だった。


「……大丈夫ですか」

「ああ」


短い返事だった。いつもの「調子いいぜ」がなかった。


***


『ジョン』は、自分のデスクに座ると、缶コーヒーを開けもせずに、机に置いた。


しばらく、誰も、声をかけられなかった。


沈黙を破ったのは、課長だった。


「何かあった?」


***


「昨日、本国に、問い合わせを入れた」

『ジョン』が、ゆっくりと口を開いた。

「『メリディアン』の件を」


会議室の空気が、変わった。


***


「非公式なルートで、な。昔の伝手を頼った」

『ジョン』が、両手で顔をこすった。

「返事は、来た。数時間で」


「早いわね」

『レディー』が、爪を見るのをやめて言う。


***


「早すぎだ」

『ジョン』が、首を振った。

「普通、五十年前の黒塗りファイルに触れると、返事は数週間、来ない。もしくは、来ない」


「今回は」

「三時間で、電話が来た」


***


『ジョン』が、缶コーヒーを、ようやく開けた。だが、口をつけなかった。


「相手は、名乗らなかった。だが、声に聞き覚えがあった。昔の上司の、そのまた上の、上司だ」

「何を、言われたんです」


俺が聞くと、『ジョン』は、少し黙ってから答えた。


***


「『その名前を、二度と口にするな』」


短い一言だった。だが、部屋の温度を、確実に下げた。


***


「脅しか」

『レスラー』が、眉をひそめる。


「脅しじゃない」

『ジョン』が、力なく笑った。

「あっちは、脅す必要すらないんだ。俺の経歴、家族、今の立場――全部、握ってる側だからな」


***


「それで、どうしたんですか」

「『分かりました』って、答えた」

『ジョン』が、自嘲するように言う。

「それしか、言えなかった」


***


『ホラー』が、湯呑みを置いた。


「でも、来た。今日、ここに」

「ああ」

『ジョン』が、うなずいた。

「命令には、従う。でも、辞めろとは、言われてない」


***


「屁理屈じゃないですか」

『ギーク』が、口を挟む。


「屁理屈で、生き延びるのが仕事だ」

『ジョン』が、初めて、少しだけ、いつもの軽さを取り戻した。


***


「本国が、そこまで隠したがる理由、心当たりは」

課長が、静かに聞いた。


『ジョン』は、しばらく、答えなかった。


***


「一つだけ、ある」

ようやく、口を開いた。

「五十年前、うちの国は、何かを、失敗してる」


「失敗、というと」

「詳細は、俺も知らない。ただ、その時代の担当者は、全員、記録から消えてる。異動じゃない。存在そのものが、なかったことになってる」


***


会議室が、静かになった。


「それって」

俺は、思わず聞いた。

「消された、ってことですか」


「そこまでは言ってない」

『ジョン』が、慎重に言葉を選んだ。

「ただ、記録がない、というのは、それ自体が、答えみたいなもんだ」


***


「日本側にも、同じような圧力、来ると思う?」

『レディー』が聞く。


「時間の問題だろうな」

『ジョン』の答えは、あっさりしていた。

「合同捜査は、もう公式に始まってる。俺一人を黙らせても、意味がない」


***


赤城の名前が、俺の頭に浮かんだ。


「赤城さんには」

「もう、伝えてある。今朝、真っ先に電話した」

『ジョン』が言う。


「大臣は、なんて」

「『続けろ』の一言だった」


***


「それだけ、ですか」

「それだけだ。あの人、頼もしいのか、無鉄砲なのか、いまだに分からん」


『ジョン』が、初めて、少しだけ笑った。今日、初めての笑顔だった。


***


「『ジョン』さんは」

『ギーク』が、めずらしく、まっすぐに聞いた。

「怖くないんですか」


***


『ジョン』は、すぐには答えなかった。


缶コーヒーを、一口、飲んだ。


「怖いさ」


短い答えだった。


***


「三年前、相棒が壊れるのを見た。今度は、国そのものが、俺を黙らせようとしてる」

『ジョン』が、天井を見上げた。

「怖くないわけ、ないだろ」


***


「じゃあ、なんで」


俺が聞くと、『ジョン』は、こっちを見た。


いつもの、にやついた顔ではなかった。


***


「お前らを見てるとな」

『ジョン』が言った。

「国だの、機密だのより、目の前で誰かを助けることのほうが、まだ、まともに見える」


***


課長が、湯呑みを片手に、いつもの調子で言った。


「うん、うん。いい部署でしょ、ここ」


場違いなほど、軽い声だった。だが、誰も、水を差さなかった。


***


「一つ、言えることがある」

『ジョン』が、話をまとめるように言った。

「『メリディアン』は、うちの国にとっても、日本にとっても、都合の悪い名前だ。両方の政府が、隠したがってる」


***


「つまり」

『レスラー』が、腕を組んだ。

「俺たちが今、追いかけてるのは、敵の組織だけじゃない、ってことか」


『ジョン』は、答えなかった。


答える代わりに、静かに、うなずいた。


***


アパートに帰ると、メレオスが、ソファでこっちを見ていた。


伊左衛門の手帳を、まだ膝の上に広げたままだった。


「おかえりじゃ。今日も、忙しない顔をしとるな」

「『ジョン』が、本国に問い合わせて、圧力かけられたって」


***


メレオスの手が、止まった。


「圧力、か」

「『メリディアン』の名前、出すなって言われたらしい」


***


メレオスは、しばらく、黙っていた。


手帳の記号を、指でなぞる。


「向こうの国も、隠しておる、というわけか」

「じいちゃんも、日本側も。そっちの国も。みんな、隠してる」


***


「隠しごとが、これだけ集まると」

メレオスが、珍しく、静かな声で言った。

「一つ、確かなことがある」


「なんだ」


***


「隠すに値するだけの、何かが、まだ生きておるということじゃ」


その一言が、部屋の温度を、少しだけ下げた気がした。


***


手帳のページが、風もないのに、かすかに揺れた。


メレオスも、俺も、それには、気づかなかった。


***


謎は、まだ、答えを出さない。


だが、隠そうとする力が、あちこちから伸びてきている。


それ自体が、もう、一つの答えだった。


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