第二十七章 おじいちゃんの字
日曜、実家から電話が来た。
「お兄ちゃん、暇?」
由紀の声は、いつもより少し急いていた。
「暇っていうか、休みだけど」
「じゃあ来て。蔵の片付け、手伝って」
有無を言わせない口調だった。断る選択肢は、最初から用意されていないらしい。
***
実家の裏、伊左衛門の道場だった建物の隣に、古い蔵がある。
もう何年も、開けていなかった場所だった。
「お母さん、ようやく片付ける気になったんだって。おじいちゃんの荷物、ずっとそのままだったから」
由紀が、埃だらけの段ボールを指差した。
「俺一人でやらされるかと思った」
「二人でも大変だから、来てもらったの」
理由は、単純明快だった。
***
段ボールの中身は、古い巻物や、木刀や、色褪せた写真だった。
道場の看板、門下生の名簿らしきもの。
見慣れない過去が、次々に出てくる。
「じいちゃん、なんでこんなに物、溜め込んでたんだ」
「昭和の人だから」
由紀の返事は、身も蓋もなかった。
***
奥の棚から、由紀が古い手帳を一冊、引っ張り出した。
革の表紙が、すっかり黒ずんでいる。
「これ、なんだろ」
パラパラとめくって、由紀が眉をひそめた。
「字が、汚すぎて読めない」
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俺が覗き込むと、確かに、判読不能な文字が続いていた。
日付らしきものと、稽古の記録。
その合間に、時々、文字とは違う何かが挟まっている。
丸と線を組み合わせた、記号のようなもの。
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心臓が、跳ねた。
見覚えのある形だった。
線の本数までは、はっきりしない。だが、輪郭だけは、あの紋章に似ていた。
「お兄ちゃん、どうしたの、急に固まって」
「……いや、なんでもない」
反射的に、いつもの誤魔化しが口から出た。
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「なんでもなくはないでしょ」
由紀が、手帳を持ったまま、こっちをじっと見た。
「その顔、見たことある。赤城さんの名前出したときと、同じ顔」
由紀の観察眼は、相変わらず鋭かった。
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「これ、仕事に関係あるやつ?」
「仕事っていうか……」
言葉を選んでいるうちに、由紀が畳みかけてきた。
「警察関係だって言うわりに、お兄ちゃんの仕事、最近ずっと変じゃない?」
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「変って」
「顔つき。帰ってくる時間。あと」
由紀が、一拍、置いた。
「たまに、誰もいないところに向かって喋ってる」
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心臓が、また跳ねた。
「……いつの話だ」
「この前、実家に来たとき。玄関で、独り言、言ってたでしょ」
覚えがなかった。だが、否定できる自信もなかった。
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「気のせいだろ」
「気のせいにしては、はっきり喋ってた。『分かってるって』とか」
由紀の記憶力は、こういうときばかり、恐ろしく正確だった。
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「……仕事のストレスだよ、たぶん」
苦しい返しだった。自分でも、そう思う。
由紀は、しばらく、じっとこっちを見ていたが、それ以上は追わなかった。
代わりに、手帳を、俺の手に押し付けてきた。
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「これ、お兄ちゃんが持ってて」
「いいのか」
「あたしが持ってても、読めないし。お兄ちゃん、おじいちゃんの字、少しは読めるでしょ」
道場の稽古ノートを、何年も見せられてきた特権だった。
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「何か分かったら、教えてよ」
「分かったらな」
「約束」
由紀が、指を差し出してきた。
子供の頃のままの、指切りのポーズだった。
こういうところは、社会人になっても変わらない。
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蔵の片付けは、日が暮れる前に終わった。
帰りの電車で、俺は、鞄の中の手帳が、やけに重く感じた。
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アパートに帰ると、メレオスが、いつも通り、ソファでこっちを見ていた。
「おかえりじゃ。今日は、実家に行っとったんじゃな」
「蔵の片付け、由紀に呼ばれた」
鞄から、手帳を取り出す。
「これ、見てくれ」
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メレオスの表情が、変わった。
手帳を覗き込んだまま、しばらく、何も言わなかった。
「……伊左衛門の字じゃ」
「読めるのか」
「読めんこともない。悪筆にも、付き合いの長さというやつがある」
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メレオスが、ページをめくる手を止めた。
その記号のあたりだった。
「これは」
「紋章に、似てないか」
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「似ておる、というより」
メレオスの声が、低くなった。
「これは、あやつが、自分で描いたものじゃ。何度も、描き直した跡がある」
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「じいちゃんが、自分で」
「思い出そうとしとったんじゃろうな。うまく思い出せんまま、何度も、描いておった」
メレオスが、手帳を、そっと閉じた。
「寝言で名前を呟いたのと、同じ頃かもしれん」
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「これ、由紀が見つけたんだ」
その一言に、メレオスの目が、少し丸くなった。
「あの娘が」
「勘もいい。最近の俺のこと、色々、気づき始めてる」
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「ほう」
メレオスが、面白がるような、それでいて少し心配そうな顔をした。
「いずれ、会わせる日が来るかもしれんのぉ」
「まだ早い」
即答した。自分でも、驚くくらい、速かった。
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「そうかそうか。まあ、お主が決めることじゃ」
メレオスは、それ以上、押してこなかった。
代わりに、もう一度、手帳の記号を見つめた。
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「この手帳、しばらく、わしに預からせてくれんか」
「読み込むのか」
「伊左衛門が、何を思い出そうとしとったのか。わしにも、まだ分からんことが、多すぎる」
珍しく、真剣な声だった。
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手帳を、メレオスに渡す。
由紀との約束が、頭の中で、小さく引っかかっていた。
何か分かったら、教えてよ。
何を、どこまで、教えられるのか。
まだ、答えは出ていなかった。
***
窓の外は、もう暗くなっていた。
由紀に見抜かれかけている距離と、まだ誰も知らない手帳の中身。
二つの謎が、同じ夜に、少しずつ近づいてきている気がした。




