第二十五章 消せなかった事件
朝、地下の会議室に、『ジョン』のノートパソコンの起動音が響いていた。
「おはよう、みんな」
すっかり自分の席のような顔で、缶コーヒーを開けている。
「そのデスク、まだ仮のつもりだったんですけど」
『ギーク』が、モニター越しに睨む。
「もう三日も座ってると、仮じゃなくなるんだよ、こっちの国では」
「日本の慣習、語るの早すぎません?」
軽口の応酬に、課長が「うん、うん」と挟んでくる。いつもの朝だった。
そこへ、内線が鳴った。
課長が受話器を取り、二言、三言のやり取りのあと、表情を変えた。
「……分かりました。すぐ向かわせます」
受話器を置いた声から、いつもの緩さが消えていた。
「新しい現場だ。埼玉の山中で、変死体。近くで、若い女性の行方不明届けも出ている」
『ホラー』が、真っ先に顔を上げた。
「紋章、ですか」
「まだ分からない。だが、状況が似すぎてる」
行方不明者がいる。その一言で、部屋の温度が変わった。前の現場とは違う。まだ、間に合うかもしれない話だった。
『ジョン』が、画面から顔を上げた。
「待って。行方不明者がいる、って言った?」
「はい。遺体は、まだ一体だけです」
『ホラー』が答える。
『ジョン』の顔から、軽さが抜けていた。
「その手口、知ってる」
低い声だった。
「三年前、うちが追ってた事件と同じだ。生贄は、一体ずつ増える。最後に、一番若いのが本番になる」
「本番、というのは」
俺が聞くと、『ジョン』は少し黙ってから答えた。
「儀式の、仕上げだ。三年前は、間に合わなかった」
ただの資料の話ではなかった。実感のこもった声だった。
『レディー』が、爪を見るのをやめて、『ジョン』を見た。
「間に合わなかった、って」
「担当してた相棒が、確保に踏み込んで、儀式のあとの現場に着いた。もう遅かった」
「相棒は、それから」
「辞めた。今は、ワイオミングで牧場やってる」
淡々とした付け足しだった。生きてはいる。ただ、無事ではなかった、という言い方だった。
「行きましょう」
課長が、いつもの緩い声のまま、即座に言った。
「編成は、いつも通りで。『ジョン』くん、君も来るかい」
「もちろん」
『ジョン』が、缶コーヒーを一気に飲み干した。
「今度こそ、間に合わせる」
短い一言に、三年分の何かが乗っていた気がした。
***
移動中の車内、『ギーク』の声が通信機から飛んでくる。
「現場周辺のカメラ、片っ端から拾ってます。おかしな車、絞り込み中です」
「そっちのアクセス経路、教えてくれよ。うちの本部にも使えそうだ」
『ジョン』が、興味津々で聞く。
「企業秘密です」
「けちだな」
「あなたの国の情報機関に、一回入られてる身なので」
言ってから、『ギーク』の声が、一瞬止まった。
「……あー、いや、今のは、一般論です」
「一般論にしては、具体的だったな」
『ジョン』が、探るような声を出す。
「気のせいです」
強引に流された。俺は、その様子を横目に見ながら、少しだけ笑った。この話は、まだ終わらない気がした。
***
山道を登った先に、それはあった。
古い炭焼き小屋の跡。周りに、見覚えのある形の跡が、土に刻まれている。
「まだ、間に合ってます」
小屋の奥から、『ホラー』の声がした。
縛られた女性が一人、意識はあるが、放心していた。周りを、覆面の男たちが四、五人、囲んでいる。
「多いな」
『レスラー』が、拳を鳴らした。
「多いですね」
答えたのは、『ジョン』だった。拳銃を構える手つきに、迷いがなかった。デスクで軽口を叩いていた男とは、別人の動きだった。
「『オザケン』、風」
『レスラー』の合図で、指先に気を集める。狭い範囲、精密に。ロープだけを断つ、あの時と同じ加減。
女性を縛る縄が、音もなく切れた。
『ジョン』の視線が、一瞬、縄の断面に留まった。
「……今の、刃物じゃないよな」
低い声で、俺にだけ聞こえるように言う。
「気功です」
反射的に、いつもの答えが出た。
「気功で、縄だけ切れるのか」
「……訓練の賜物です」
『ジョン』は、それ以上は追わなかった。だが、視線だけは、しばらく俺の指先から離れなかった。
『レディー』が、影のように動いて、覆面の一人の腕を極める。残りは、『レスラー』と『ジョン』で片づいた。数分もかからなかった。
小屋の奥、円の中心に、あの紋章が刻まれていた。だが、線の本数が違う。『ギーク』が見つけたのと同じ、あの「別の紋章」だった。
『ホラー』が、しばらく、それを見つめていた。
「これ、『常世会』のものじゃないです。でも、根っこは同じ」
誰も、それ以上は言わなかった。言わなくても、伝わっていた。
***
救急車に運ばれていく女性を見送りながら、『ジョン』が、珍しく黙っていた。
「間に合いましたね」
俺が声をかけると、『ジョン』は、ようやくいつもの軽さを少しだけ戻した。
「ああ。三年分、取り返した気分だ」
「相棒の人にも、言ってやったらどうですか」
「言うわけないだろ。あいつは、もうこの世界にいない人間だ。牧場の話しか、したがらない」
それでも、少しだけ笑っていた。今度こそ、間に合ったことが、嬉しいのだと分かった。
「五十年前の記録の話をしたとき、お前、顔色が変わったろ」
ふいに、『ジョン』が言った。
「……」
「東アジアで、あいつらを止めた誰かがいた。それが、お前の身内だったとしたら」
「詳しいことは、俺も知らないです」
「かもな。でも」
『ジョン』が、車に乗り込みながら、続けた。
「その誰かが、うちの先輩たちを、何人か助けてたのかもな。会ったこともないのに」
それだけ言って、それ以上は続けなかった。俺も、聞き返さなかった。
***
アパートに帰ると、メレオスが、ソファでこっちを見ていた。
「おかえりじゃ。今日は、悪くない顔をしとるな」
「今日は、間に合った」
「ほう。それは、よかったのぉ」
「別の紋章が、また出た。線の本数が違う、あれだ」
メレオスの目が、少しだけ細くなった。
「根っこは同じ、か」
「『ホラー』も、そう言ってた」
「じゃろうな」
それだけ言って、メレオスは、いつもの軽い調子に戻った。だが、目の奥だけは、まだ何かを考えている。そんな気がした。
線は、少しずつ繋がっている。
まだ、全部には届かない。
だが、今日は、間に合った。
それだけで、十分だった。




