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第百三十六章 次が、ある

「……おちゃ、を。ください」


男が言った。

日本語だった。


***


七月五日。月曜日。

警察病院の、個室だった。


***


西経七十五度は、鷲尾さんと同じ病院にいた。


階が、二つ違うだけだった。

赤城さんが、そうしていた。


***


病室に入ったのは、『ジョン』と共さんだった。


俺とメレオスは、廊下にいた。

扉は、少しだけ開いていた。


***


男は、ベッドの上で、上半身を起こしていた。


夏至の山より、小さく見えた。

窓の外を、見ていた。


***


『ジョン』が、英語で話した。


短かった。

円卓のことだった。


畳まれた、と言ったらしかった。

全員が、手を上げた、と。


***


男は、窓を見たまま、聞いていた。


最後まで、聞いていた。


***


共さんが、一歩、前に出た。


何も、言わなかった。

胸のポケットから、手帳を出した。


開いて、男の前に差し出した。


***


白い、一本だった。


***


男は、長いこと、見ていた。


窓から、目を離して。

手帳だけを、見ていた。


***


「……長かった」


英語だった。

『ジョン』が、小さく訳した。


***


「私も、で、ございます」


共さんが言った。


***


それから、男が言った。


ゆっくりだった。

一つずつ、思い出しながら、言っていた。


***


「……おちゃ、を。ください」


***


七十年代の、はじめ。

東京で、覚えた日本語らしかった。


五十年、使っていなかった日本語らしかった。


***


円卓で、一人だけ、茶を飲まなかった男だった。


***


共さんは、病室の湯沸かしで、湯を沸かした。


急須は、なかった。

紙コップに、ティーバッグだった。


***


共さんは、目を閉じた。


三分、数えた。


***


男は、紙コップを、両手で持った。


飲んだ。

全部、飲んだ。


***


「……うまかった、と」


『ジョン』が、訳した。


訳さなくても、分かった。


***


廊下で、メレオスが言った。


「……茶じゃのぉ。全部」


***


同じ日の、午後だった。


二つ上の階の、個室だった。


***


鷲尾さんは、ベッドの上で、背筋を伸ばしていた。


窓の台に、白い花はもうなかった。

定規が、一本、置いてあった。


***


俺は、風呂敷の包みを、ベッドの上に置いた。


白い面だった。

額に、線の紋様があった。


東経百三十五度の、面だった。


***


「お返し、します」


***


鷲尾さんは、包みを見た。


開けなかった。

両手を、上に置いた。


「お預かり、いたします」


***


「卓は。畳まれました」


「……そうで、ございますか」


***


鷲尾さんは、窓を見た。


いつもの、窓だった。

今日は、少し長く、見ていた。


***


「椅子は」


「まっすぐ、でした。最後まで」


「……結構です」


***


赤城さんが、鞄から、帳面を出した。


鷲尾さんの書斎から、持ってきていた。

百四十年ぶんの、帳面だった。


***


席に就いた年と、欠けた年が、並んでいた。


最後のページに、一行だけ、空いていた。


***


二月に、赤城さんが「書くな」と言った一行だった。

「書きそうな、顔を、している」と言われた一行だった。


***


鷲尾さんは、帳面を膝の上に置いた。


定規を、当てた。

左から、まっすぐ。


***


ペンを、取った。


***


『七月二日 卓を、畳む』


***


字は、震えていなかった。


線から、一ミリも、出ていなかった。


***


「……書いて、しまいました」


鷲尾さんは言った。


「最後の、一行で、ございます」


***


赤城さんは、何も言わなかった。


帳面を受け取って、閉じた。

角を、そろえた。


***


「秋に、退院いたします」


鷲尾さんは言った。


「それで。職を、退きます」


***


「……早くないか」


赤城さんが言った。


「定規を。まっすぐ、引けるうちに」


鷲尾さんは、定規を窓の台に戻した。


「退きとう、ございます」


***


七月六日。火曜日。

実家の、居間だった。


***


零度は、ロンドンへ帰る前の日に、寄った。


『ブル』が、連れてきた。

杖は、ついたままだった。


***


母が、急須を持ってきた。


茶葉は、山盛りだった。

黒い茶だった。


***


零度は、全部、飲んだ。


二杯目も、飲んだ。

羊羹を、一切れ、食べた。


***


「次は。いつ、いらっしゃるの」


母が聞いた。


三回目だった。


***


零度は、今度は、黙らなかった。


英語で、短く、答えた。


***


『ブル』が、訳した。


「……柚子の、ころに、と」


***


冬至だった。


じいちゃんが、五十五年、庭で北に手を合わせた日だった。

ゆず湯の、湯が見えなくなる日だった。


***


「じゃあ」


母は言った。


「羊羹と、ゆず湯ね」


***


零度は、うなずいた。


それから、俺の肩のほうにも、うなずいた。


***


「……来るか」


メレオスが、小さく言った。


「来るが、ええ。柚子は、浮かべすぎるがのぉ」


***


帰りぎわ、玄関だった。


零度が先に、車へ向かった。

『ブル』が、靴を履いていた。


***


「小沢殿」


『ブル』が、小声で言った。


「文の。最後の、一行で、ござる」


***


五月の、零度の手紙だった。


『ブル』が、訳さなかった一行だった。


***


「山では。私を、背負って、くれ」


***


「……そう、書いて、ござった」


『ブル』は、帽子をかぶった。


「二十年前は。逆で、ござった」


***


それだけ言って、『ブル』は出ていった。


車の窓から、零度が、こっちを見ていた。


***


車が、角を曲がった。


母は、まだ門の前に立っていた。


***


「次が、あるのよ」


母が言った。


「うまかった、って言う人には」


***


冷蔵庫に、羊羹が一本、入っていた。


冬のぶんだった。


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