第百三十六章 次が、ある
「……おちゃ、を。ください」
男が言った。
日本語だった。
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七月五日。月曜日。
警察病院の、個室だった。
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西経七十五度は、鷲尾さんと同じ病院にいた。
階が、二つ違うだけだった。
赤城さんが、そうしていた。
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病室に入ったのは、『ジョン』と共さんだった。
俺とメレオスは、廊下にいた。
扉は、少しだけ開いていた。
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男は、ベッドの上で、上半身を起こしていた。
夏至の山より、小さく見えた。
窓の外を、見ていた。
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『ジョン』が、英語で話した。
短かった。
円卓のことだった。
畳まれた、と言ったらしかった。
全員が、手を上げた、と。
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男は、窓を見たまま、聞いていた。
最後まで、聞いていた。
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共さんが、一歩、前に出た。
何も、言わなかった。
胸のポケットから、手帳を出した。
開いて、男の前に差し出した。
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白い、一本だった。
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男は、長いこと、見ていた。
窓から、目を離して。
手帳だけを、見ていた。
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「……長かった」
英語だった。
『ジョン』が、小さく訳した。
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「私も、で、ございます」
共さんが言った。
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それから、男が言った。
ゆっくりだった。
一つずつ、思い出しながら、言っていた。
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「……おちゃ、を。ください」
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七十年代の、はじめ。
東京で、覚えた日本語らしかった。
五十年、使っていなかった日本語らしかった。
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円卓で、一人だけ、茶を飲まなかった男だった。
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共さんは、病室の湯沸かしで、湯を沸かした。
急須は、なかった。
紙コップに、ティーバッグだった。
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共さんは、目を閉じた。
三分、数えた。
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男は、紙コップを、両手で持った。
飲んだ。
全部、飲んだ。
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「……うまかった、と」
『ジョン』が、訳した。
訳さなくても、分かった。
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廊下で、メレオスが言った。
「……茶じゃのぉ。全部」
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同じ日の、午後だった。
二つ上の階の、個室だった。
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鷲尾さんは、ベッドの上で、背筋を伸ばしていた。
窓の台に、白い花はもうなかった。
定規が、一本、置いてあった。
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俺は、風呂敷の包みを、ベッドの上に置いた。
白い面だった。
額に、線の紋様があった。
東経百三十五度の、面だった。
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「お返し、します」
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鷲尾さんは、包みを見た。
開けなかった。
両手を、上に置いた。
「お預かり、いたします」
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「卓は。畳まれました」
「……そうで、ございますか」
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鷲尾さんは、窓を見た。
いつもの、窓だった。
今日は、少し長く、見ていた。
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「椅子は」
「まっすぐ、でした。最後まで」
「……結構です」
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赤城さんが、鞄から、帳面を出した。
鷲尾さんの書斎から、持ってきていた。
百四十年ぶんの、帳面だった。
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席に就いた年と、欠けた年が、並んでいた。
最後のページに、一行だけ、空いていた。
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二月に、赤城さんが「書くな」と言った一行だった。
「書きそうな、顔を、している」と言われた一行だった。
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鷲尾さんは、帳面を膝の上に置いた。
定規を、当てた。
左から、まっすぐ。
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ペンを、取った。
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『七月二日 卓を、畳む』
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字は、震えていなかった。
線から、一ミリも、出ていなかった。
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「……書いて、しまいました」
鷲尾さんは言った。
「最後の、一行で、ございます」
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赤城さんは、何も言わなかった。
帳面を受け取って、閉じた。
角を、そろえた。
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「秋に、退院いたします」
鷲尾さんは言った。
「それで。職を、退きます」
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「……早くないか」
赤城さんが言った。
「定規を。まっすぐ、引けるうちに」
鷲尾さんは、定規を窓の台に戻した。
「退きとう、ございます」
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七月六日。火曜日。
実家の、居間だった。
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零度は、ロンドンへ帰る前の日に、寄った。
『ブル』が、連れてきた。
杖は、ついたままだった。
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母が、急須を持ってきた。
茶葉は、山盛りだった。
黒い茶だった。
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零度は、全部、飲んだ。
二杯目も、飲んだ。
羊羹を、一切れ、食べた。
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「次は。いつ、いらっしゃるの」
母が聞いた。
三回目だった。
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零度は、今度は、黙らなかった。
英語で、短く、答えた。
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『ブル』が、訳した。
「……柚子の、ころに、と」
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冬至だった。
じいちゃんが、五十五年、庭で北に手を合わせた日だった。
ゆず湯の、湯が見えなくなる日だった。
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「じゃあ」
母は言った。
「羊羹と、ゆず湯ね」
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零度は、うなずいた。
それから、俺の肩のほうにも、うなずいた。
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「……来るか」
メレオスが、小さく言った。
「来るが、ええ。柚子は、浮かべすぎるがのぉ」
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帰りぎわ、玄関だった。
零度が先に、車へ向かった。
『ブル』が、靴を履いていた。
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「小沢殿」
『ブル』が、小声で言った。
「文の。最後の、一行で、ござる」
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五月の、零度の手紙だった。
『ブル』が、訳さなかった一行だった。
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「山では。私を、背負って、くれ」
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「……そう、書いて、ござった」
『ブル』は、帽子をかぶった。
「二十年前は。逆で、ござった」
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それだけ言って、『ブル』は出ていった。
車の窓から、零度が、こっちを見ていた。
***
車が、角を曲がった。
母は、まだ門の前に立っていた。
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「次が、あるのよ」
母が言った。
「うまかった、って言う人には」
***
冷蔵庫に、羊羹が一本、入っていた。
冬のぶんだった。




