第百三十五章 共
「席を、返す、だ」
『ジョン』が言った。
飛行機の中だった。
***
七月一日。木曜日。
ロンドンへ向かう、夜の便だった。
***
『ジョン』は、膝の上の鞄を開けた。
白い面が、一つ入っていた。
額に、線の紋様があった。
***
「きのう。病院で、渡された」
『ジョン』は、面に触らなかった。
「あいつが、そう言った。英語で、一言だけ」
***
紙で消した男が、紙で消された男に、自分の席を預けていた。
***
「……重いか」
肩の上で、メレオスが聞いた。
「軽い」
『ジョン』は、鞄を閉じた。
「紙と、同じだ」
***
七月二日。金曜日。
グリニッジは、曇っていた。
***
緑の戸の前に、庭師が立っていた。
共さんの顔を見た。
何も言わずに、戸を大きく開けた。
三月と、同じだった。
***
赤城さんは、背広だった。
「顔が、割れている」と言っていた人だった。
今日は、隠していなかった。
***
四十二段、下りた。
円い卓。明かりが一つ。
椅子が、七つ。
白い面が、五つ。
***
空いた椅子の前に、『ジョン』が立った。
鞄から、面を出した。
卓の上に、置いた。
***
席が、返された。
***
座る前に、床を見た。
椅子は、まっすぐだった。
***
共さんが、ポットを持った。
目を、閉じた。
三分、数えた。
***
『ホラー』が、皿を配った。
羊羹だった。
駅前の、和菓子屋のだった。
***
母が、持たせた。
「次のぶんよ」
冷蔵庫の、一本だった。
***
零度が、一切れ、食べた。
それから、茶を飲んだ。
少し、笑った。
***
「決を、採ります」
零度が言った。
耳の中で、です、ますになった。
「この卓を。畳むか、どうか」
***
その前に。
共さんが、一歩、前に出た。
***
「一つ。申し上げても、よろしゅう、ございますか」
『ブル』が、英語で訳した。
零度が、うなずいた。
***
共さんは、胸のポケットから、手帳を出した。
開いた。
***
写真が、一枚。
首が、十一度、傾いていた。
その隣に、白い一本。
***
共さんは、手帳を、卓の上に置いた。
五つの面が、それを見た。
***
「年を、取りました」
***
「五十六年、ぶりに」
***
卓が、静かになった。
南の席の面が、少しだけ、前に出た。
***
「取らなかったのでは、ございません」
共さんは言った。
いつもと、同じ声だった。
「取らせて、もらえなかったので、ございます」
***
「あれが、私の中に、おりました」
「あれが、出ていって。私の時計は、動きはじめました」
***
「皆さまが、百四十年。探して、おられたものは」
共さんは、少しだけ、首を傾げた。
十一度より、ずっと、浅かった。
「檻で、ございました」
***
『ブル』が、訳した。
訳し終えて、黙った。
***
共さんは、返された面のほうを、向いた。
卓の上の、西経七十五度の面だった。
***
「あの方に。お伝え、くださいませ」
「答えは。これで、ございます、と」
***
『ジョン』が、うなずいた。
一回だった。
***
「では」
零度が言った。
「決を、採ります」
「畳むことに、賛成の、方は」
***
零度の手が、上がった。
一拍も、遅れなかった。
***
俺の、手も、上がった。
「……うん」
一回だった。
面の機械が、英語にしなかった。
『ギーク』が、そのまま、通した。
***
新しい西経百二十度が、上げた。
五月に、小さくうなずいた面が、上げた。
黙っていた面も、上げた。
***
南の席だけが、上がらなかった。
***
一拍。
***
南の席の面が、共さんの手帳を、見ていた。
白い一本を、見ていた。
***
手が、上がった。
一拍、遅れて。
***
昔、同じ卓で、一拍遅れて手を上げた人がいた。
扉を開ける、決のときだった。
その人は、今、北の席で、黙ってそれを見ていた。
***
「……畳みます」
零度が言った。
***
最初に面を外したのは、零度だった。
小さい、年寄りの顔だった。
坂の上の寺で、見た顔だった。
***
一つずつ、面が外れた。
普通の顔だった。
みんな、年を取っていた。
***
南の席は、女の人だった。
白い髪を、後ろでまとめていた。
共さんの手帳を、まだ、見ていた。
***
新しい西経百二十度は、面を外して、『ジョン』を見た。
『ジョン』も、見た。
二人とも、何も、言わなかった。
***
俺も、面を外した。
鷲尾さんの、面だった。
返しに、行かなければならなかった。
***
共さんが、卓の上に、かがんだ。
手帳の、すぐ横だった。
木目に、何か、刻んであった。
***
二画だった。
几帳面な、二画だけの、何か。
***
五十六年の、どこかで。
あれの奥から、共さんが一度だけ、出てきて残した字だった。
書き始めの、二画だった。
***
共さんは、指で、その二画をなぞった。
それから。
続きを、書いた。
***
指だった。
木には、何も、残らなかった。
でも、全員が、見ていた。
***
『共』
***
「……書き終えました」
共さんは言った。
「長う、かかりました」
***
肩の上で、メレオスが、何も言わなかった。
ただ、羊羹の皿を、共さんのほうへ、少し押した。




