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第百三十四章 一番、短い夜

戸が、また鳴った。


閉まっている戸を、外から押す音だった。

一回ごとに、少しずつ、大きくなった。


***


男は、窪みの縁に、膝をついていた。


両手を、土についていた。

押しているのは、手ではなかった。


***


「……命じゃ」


メレオスが言った。


「自分の、命で。押しとる」


***


男の顔が、白くなっていった。


一回、戸が鳴るたびに。

少しずつ、白くなった。


***


誰も、紙の輪の内側に、入れなかった。


赤城さんが、輪の前で、拳を握っていた。

『ブル』は、零度の横で、杖を持っていた。


***


『ジョン』が、しゃがんだ。


***


輪の、外側だった。


一番近い紙の、石をどけた。

紙を、一枚、拾った。


***


「これは」


『ジョン』は、紙を見た。


「俺の、前の、男の、紙だ」


***


もう一枚、拾った。


輪の外側を、ゆっくり、歩いた。

一枚ずつ、石をどけて、拾った。


***


「返して、もらう」


***


輪の内側には、一歩も、入らなかった。


外から、一枚ずつ、拾っていった。

輪が、少しずつ、輪でなくなった。


***


紙で、消された男の、紙だった。


紙で、消された男が、拾っていた。


***


男は、振り向いた。


『ジョン』を、見た。

何か、言おうとした。


言わなかった。

言う力が、もう、なかった。


***


最後の一枚を、『ジョン』が拾った。


輪は、なかった。


窪みの縁に、男が一人、膝をついているだけだった。


***


「……今じゃ」


メレオスが言った。


「もう、同じ側では、ない」


***


零度が、杖を『ブル』に預けた。


窪みの縁へ、下りた。

一歩ずつ、下りた。


誰も、手を貸さなかった。

貸せば、断られる人だった。


***


零度は、男の横に、座った。


地面に、直に、座った。


***


英語だった。


『ブル』が、輪の跡の外から、訳した。


***


「答えは、ある」


***


男の手が、止まりかけた。


***


「この山には、ない」

「卓で、見せる」


***


「だから」


零度は、男の肩に、手を置いた。


「生きて、聞け」


***


戸が、鳴った。


まだ、鳴った。

男の命は、止まっても、押す力は、すぐには止まらなかった。


***


俺は、窪みの縁に、手をついた。


地面の下に、戸があった。

冬至の夜に、何度も、触った戸だった。


***


内側から、閉めた。


重かった。


一人では、十分が、限度だった。


***


息を、吸った。


吐いた。


***


庭の、息が、聞こえた気がした。


吸って。

吐いて。


同じ速さだった。


***


「……縁じゃ」


メレオスが、肩の上で言った。


「届いとる」


***


戸が、半分、軽くなった。


***


同じころ。

小沢家の、庭だった。


***


由紀は、北を向いていた。


両手を、合わせていた。

じいちゃんと、同じ合わせ方だった。


***


戸の音は、庭までは聞こえなかった。


でも、由紀には、聞こえていた。


***


「……今度は」


由紀は、小さく言った。


「残さない」


***


閉めた。


四方から、閉めた。

隙間を、一つも、残さなかった。


***


横で、共さんが、目を閉じていた。


手帳を、胸に当てていた。


冬至の夜に、残してもらった隙間の、あとだった。

共さんは、もう、そこを通らなくてよかった。


***


山で、戸が鳴りやんだ。


***


静かになった。


蛙が、鳴いていた。

さっきまで、聞こえていなかった。


***


男が、前に倒れた。


零度が、受けとめた。

九十を越えた腕で、受けとめた。


***


『ホラー』が、男の後ろを見た。


前髪は、上げたままだった。


***


「……まだ」


『ホラー』が言った。


「誰も、来てません」


***


迎えは、まだ、来ていなかった。


***


赤城さんと『ブル』が、男を担いだ。


『ジョン』は、紙の束を、胸に抱えていた。

一枚も、落とさなかった。


***


零度は、『ブル』の背に乗らなかった。


杖をついて、自分で歩いた。

来るときより、遅かった。


誰も、急がせなかった。


***


山を下りる途中で、空が白くなった。


四時、二十五分だった。


***


一年で、一番、短い夜だった。


***


ゲートの前に、軽トラが止まっていた。


その後ろに、課長のワゴン。

その後ろに、救急車。


***


営林署の老人が、男を見た。


担がれている、小さい老人を、見た。


「……生きとるか」


「生きてます」


「ほうか」


***


老人は、水筒の蓋に、お茶を注いだ。


一杯ずつ、全員に配った。

最後の一杯を、俺の足元に置いた。


***


救急車が、行った。


零度と『ブル』が、乗った。

赤城さんも、乗った。


***


俺は、スマホを出した。


実家に、かけた。


***


一回で、出た。


「……閉めた」


由紀だった。


「全部」


***


「うん」


一回だった。


***


電話の向こうで、母の声がした。


由紀が、スマホを渡したらしかった。


***


「お茶。冷めたわよ」


***


「……ごめん」


「帰ってきたら、淹れ直すから」


***


電話を、切った。


足元の、水筒の蓋が、空になっていた。


「……ぬるいのぉ」


メレオスが言った。

少しだけ、笑っていた。


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