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第百三十三章 紙の、輪

「四度目じゃ」


営林署の老人が言った。

ゲートの前の、軽トラの横だった。


***


六月二十一日。月曜日。

夏至の、午後三時だった。


***


「三度も来るやつは、初めてじゃった」

「四度は。もう、知らん」


老人は、水筒の蓋に、お茶を注いだ。


一杯目を赤城さんに。

二杯目を俺に。


三杯目を、俺の足元に置いた。


***


「……ほう」


メレオスが言った。

しゃがんで、飲んだ。


***


「きのうの、外人さんは」


老人は、山を見ていた。


「まだ、出て、こん」

「杖、ついとった。あの足で、よう、登った」


***


山は、緑だった。


冬至のときは、枯れた木と、雪の残りだった。

今は、葉が重なって、空が細かった。


蛙が、うるさかった。


***


『ホラー』が、前髪を上げた。

山道の両側を、見た。


***


冬至の日には、影が、並んで見送っていた。


「今日は。誰も、並んでません」


***


それから、山の上のほうを見た。


「……上に。一人だけ」


***


六人で、登った。


俺と、メレオスと、『ホラー』。

赤城さんと、『ジョン』。

零度と、『ブル』。


***


赤城さんは、登山靴だった。


冬至と、同じ靴だった。

紐の結び方まで、同じだった。


***


一時間で、零度の足が止まった。


杖が、土に刺さったまま、動かなかった。


***


『ブル』が、零度の前にしゃがんだ。


背中を、向けた。


***


零度は、少し黙った。


それから、『ブル』の背に乗った。


***


「拙者の、背は」


『ブル』は、立ち上がった。


「二十年ぶりで、ござる」


***


逆だったのかもしれない、と思った。


二十年前は、『ブル』が背負われる側だったのかもしれない。

誰も、聞かなかった。


***


日が、傾かなかった。


いつまでも、明るかった。

一年で、一番、長い昼だった。


***


窪地に着いたのは、六時すぎだった。


祠の跡だった。

冬至の夜に、二十六人を縛った場所だった。


***


男が、一人、座っていた。


***


窪みの縁に、折りたたみの椅子を置いていた。


小さい老人だった。

杖を、横に置いていた。


背広を、着ていた。


***


窪みのまわりに、紙が並んでいた。


黄ばんだ紙だった。

一枚ずつ、石で押さえてあった。


輪に、なっていた。


***


「……五十年前の、紙だ」


『ジョン』が、低く言った。


「俺の、前の、担当者の」

「消された、紙だ」


***


紙で、山を知った男だった。


その紙で、山に、輪を作っていた。


***


男が、顔を上げた。


一番に、『ジョン』を見た。


***


英語だった。


短かった。


「……君か、だ」


『ジョン』が、自分で訳した。


***


『ジョン』は、紙の輪の外で止まった。


何も、言わなかった。

言うことは、紙の上で、全部、済んでいた。


***


男の目が、『ブル』の背中に移った。


零度が、『ブル』の背から下りた。

杖を、ついた。


***


「連れ戻しに、来た」


零度が言った。

『ブル』が、訳した。


***


男は、少し笑った。


「卓は。もう、ない、だ」


『ジョン』が訳した。


「あなたが、畳んだ、だ」


***


「まだ、畳んで、おらぬ」


零度が言った。


「畳む、前に。そなたを、連れ戻す」


***


男は、答えなかった。


紙の輪を、見ていた。


***


それから、一つだけ、聞いた。


***


「あの、日本人は」


「年を、取りましたか、だ」


***


誰も、答えなかった。


***


答えは、ここになかった。


実家の庭に、あった。

共さんの胸の、手帳の中に。


***


同じころ。

小沢家の、庭だった。


***


夕方の七時だった。

空は、まだ白かった。


由紀が、庭の真ん中に立っていた。

北を、向いていた。


***


その横に、共さんがいた。


手帳を、胸に当てていた。


***


縁側に、母が湯呑みを二つ置いた。


「冷めないうちに、ね」


それだけ言って、台所に戻った。


***


『レディー』は、門の横で、爪を見ていた。

『レスラー』は、塀の外に立っていた。


塀より、頭が、少し高かった。


***


山の、夜だった。


***


日が、やっと沈んだ。


八時だった。

夏の夜は、すぐには暗くならなかった。


***


男は、ずっと、椅子に座っていた。


誰も、紙の輪の内側に、入らなかった。

入れなかった。


***


「……入れんのじゃ」


メレオスが、小さく言った。


「あの輪は。戸の、手前の、輪じゃ」

「入ったら。あの男と、同じ側に、立つ」


***


時間が、遅かった。


零度は、杖に両手を重ねて、立っていた。

一度も、座らなかった。


***


十一時を、過ぎた。


星が、出ていた。

冬至の夜より、ずっと、少なかった。


***


十一時半。


一年で、一番、短い夜の。

一番、暗い時間だった。


***


男が、立った。


杖を、使わなかった。

椅子に手をついて、自分で立った。


***


紙の輪の、内側に。

窪みの、縁に。


一歩、下りた。


***


音が、した。


***


戸の、音だった。


閉まっている戸が。

外から、押されている音だった。


***


庭で、由紀が顔を上げた。


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