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第十三章 『レスラー』の過去

朝、地下に降りる。


六、三、一、六。閉じるボタン、長押し。


会議室に、いつもの面子が揃っていた。


課長が、写真ではなく地図を配る。


「都内のオフィスビル。三階に、複数人が立てこもっている」


いつもとは温度が違う。


「人質は、六人。犯人は、武装した三人組」


課長の声は、いつもと同じ柔らかさなのに、なぜか重い。


『レディー』は、爪を見ていない。


いつもは机の上で塗っているマニキュアの瓶が、今日は閉じたままだ。


『ホラー』は、資料を一枚だけめくって、すぐ課長に返した。


「今回は、人間ですよね」

「そうだ」

「なら、俺の出番じゃないです」


短い。だが、迷いのない声だった。


前回、公園で初めて聞いた声を、また思い出す。


加藤さんが、防弾ベストの数を数えている。


「今日は人数多いから、判子はあとでまとめてね」


事務的な声が、少しだけ、いつもよりはやい。


「小沢くんも行ってもらう」


課長が言った。


わかっている。行かない、という選択肢はない。


***


移動中の車内。


『レスラー』が、俺の防弾ベストのベルトを、もう一度締め直した。


「緩い。死ぬぞ」


いつもの「たぶんな」がない。


「今日、なんか雰囲気違いますね」


言ってから、しまったと思う。緊張してるときに聞くセリフじゃない。


だが、『レスラー』は、窓の外を見たまま答えた。


「俺、昔、傭兵やってた」


耳を疑った。


「へ?」

「アフリカと、中東と、あと何ヶ所か」

「傭兵って、あれですよね。FPSゲームでよく見る、あの」

「知らんそんなゲーム」


真顔で返された。


「向こうで、何度か死にかけた」


短い言葉に、重みがある。


聞いていいのか分からない。


「大臣に拾われて、日本に戻ってきた。それで、ここだ」


「なんで、辞めたんですか」


「仲間を、守れなかった」


それ以上、聞けなかった。


『レスラー』は、それきり黙って前を見ている。


俺も、黙って窓の外を見た。


***


ビルの近く。


すでに正規の警察が、遠巻きに規制線を張っている。


うちの課は、その内側に、こっそり入る。


存在しない部署である。当然だ。


「三階、東側の会議室に人質がいる」


『レディー』が、双眼鏡を覗きながら言った。


いつもの「ふーん」がない。


「窓から、動きが見える。犯人、二人はこっち側。もう一人は、奥」


声が、はっきりしている。


いつもと違う、と思う。だが、今は考えている暇がない。


「よし。俺が正面から行く」


『レスラー』が言った。


「『オザケン』は、後ろで援護。『レディー』は、裏の非常階段から回れ」


課長は現場にいない。今日の指揮は、『レスラー』だ。


「行くぞ」


***


非常階段を、駆け上がる。


心臓が、うるさい。


三階の扉の前で、『レスラー』が手で合図を出す。


一、二、三。


扉が、蹴破られた。


中は、白い煙が充満している。


発煙筒だ。何も見えない。


「『レディー』、視界は」

「悪い。誰が誰だか、分からない」


まずい。人質を巻き込む。


風だ。


「むん」


イメージは、換気扇。強く、狭く。


煙が、渦を巻いて窓の外へ流れていく。


一瞬で、視界が晴れた。


「見える!」


『レディー』の声。


会議室の隅で、六人がロープで縛られている。


犯人の一人が、こっちに銃を向けた。


もう時間がない。


だが、人質のロープを、先に何とかしないと。


風の刃だ。イメージは、ドア一枚分の細さ。


「ウィンドカッター」


風の技の名前を口に出したのは、初めてだった。


透明な刃が飛び、人質のロープだけを断つ。


人質の一人が、驚いた顔でこっちを見た。


「誰だ!お前らは!」


犯人が叫んで、発砲した。


弾が、俺の耳のそばを抜けた。


風で、崩す。


体勢を崩すだけの、押すイメージ。


「むん!」


犯人の足元が、突然、押された。


体が傾いた瞬間、『レスラー』が懐に飛び込んで、殴り倒した。


一発だった。


「やっぱ、動きが違うな。すごい」


思ったことが、口から出た。


***


もう一人の犯人が、人質の方へ銃を向けた。


間に合わない。


そう思った瞬間、影が動いた。


『レディー』だ。


いつの間に、その場所にいたのか、分からない。


化粧の濃い顔が、無表情でその男の腕を極めている。


一瞬で、銃が床に落ちた。


「え」


声が出た。


『レディー』の動きは、素人のそれじゃない。


低い姿勢で、足音が全くしない。


化粧を落とせば、たぶん誰だか分からなくなるくらい、雰囲気が変わっていた。


「見てないで、残りやりなさいよ」


いつもの声に、戻っていた。


***


奥にいた最後の一人が、人質を盾にして、部屋の隅に追い詰められていた。


「近づくな!こいつがどうなってもいいのか!」


『レスラー』が、俺を見た。


「『オザケン』」

「はい」

「加減するな。時間がない」


『ホラー』と、同じ言葉だった。


火だ。人質を巻き込まない、最小の範囲で。


「むん――!」


犯人の手元だけを狙って、拳大の火が弾けた。


熱さに、銃を落として、犯人が飛び退く。


その隙に、『レスラー』が距離を詰めて、押さえ込んだ。


***


静かになった。


人質が、六人とも無事に立ち上がっていく。


煙の匂いと、焦げた匂いが、部屋に残っている。


「気功です」


言ってから、言い訳するタイミングを、完全に間違えたと思った。


『レディー』が、こっちを見た。


「今の風、気功なの」

「気功です」

「ロープだけ切って、人は切らなかったじゃない」

「気功です」


三回目のごまかしだった。だが、今回は、あまり効いていない気がした。


『レスラー』が、拘束した犯人を見ながら、ぽつりと言った。


「お前、それただの気功じゃないだろ」


図星をさされて、何も言えなかった。


「……」

「まあ、いい。今日は、助かった」


それ以上、突っ込んでこなかった。


***


正規の警察に、人質と犯人を引き渡す。


うちの課の名前は、どこにも残らない。


車の中で、『レスラー』が窓の外を見ながら言った。


「昔の部隊にも、お前みたいなのがいたら、良かったのにな」


軽い言い方だが、目は真剣だった。


「傭兵に、魔法、いや気功使いいるんですか」

「いねぇよ、普通は」


そうだよな。


***


地下に戻ると、課長が待っていた。


「うん、うん。人質は全員無事」

「よくやった」


いつもの「かも」がない、珍しい言い方だった。


「『レディー』の動きも、良かったですね」


言ってみた。


『レディー』は、爪を見た。マニキュアの瓶は、まだ閉じたままだった。


「ふーん」


いつもの音だが、今日は何かを、はぐらかす音に聞こえた。


***


アパートに帰った。


「おかえりじゃ。今日はでかいのが来たようじゃな」


メレオスが、ソファでくつろいでいる。


「風の魔法、初めて実戦で使った」

「ほう。地下の訓練が、役に立ったか」


「『レスラー』が、昔傭兵だったって聞いた」

「知っておった」

「なんで教えない」

「聞かれなかったからのぉ」


いつもの返事だ。


「『レディー』の動きも、素人じゃなかった」

「あれもか」


メレオスが、面白そうな顔をした。


「あの女子、何者じゃろうなぁ」

「知らないのか」

「知らん。知らんものは知らん」

「使えない守護神だ」

「役に立たんでええ。神様じゃからのぉ」


まったく、いつも通りだった。


***


今日は、体より、頭の中が疲れた。


『レスラー』の過去。『レディー』の正体。


課の謎は、増える一方だ。


明日も、何か資料が配られるのだろう。


憂鬱だ。


だが、少しだけ、誇らしい憂鬱だった。


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