第十二章 視えないもの
四日目の朝も、ネクタイは一度で決まらない。
地下に降りた。
六、三、一、六。閉じるボタン、長押し。
会議室に、課の人間が揃っていた。
『ホラー』の椅子だけ、いつもより前に出ている。
「今日の担当は、『ホラー』だ」
課長が言った。
奥の席の男が、初めて自分から資料を配った。
めくる手が、少し早い。
***
資料の一枚目に、地図がある。
二枚目に、写真。
三枚目に、短い一行があった。
「――行方不明者、今月三人」
「同じ公園の近くだ」
『ホラー』の声だった。
低い。
思っていたより、低い。
初めて聞いた。
「え」
思わず声が出た。
『レディー』も、爪から目を上げている。
加藤さんは、資料を持ったまま止まっている。
「しゃべるんだ、お前」
『レスラー』が言う。
軽い言い方だが、目は真剣だった。
「いつもは、しゃべらないんですか」
「必要なとき以外は、な」
課長が、頼りない笑いのまま、答えになっていない答えをした。
***
「三人とも、深夜、同じ道を通っている」
『ホラー』が続ける。
「防犯カメラには、何も映っていない」
『ホラー』は、資料の三枚目を、指で押さえた。
「何も、映っていない」
俺は、資料をもう一度見た。
地図。写真。それだけだ。
現場の異常も、争った跡もない。
「正規の警察は、事件性なしで処理した」
「うちが、拾った」
課長が言葉を継いだ。
「小沢くんも、行ってもらう」
***
夜、公園に着いた。
人気は、ない。街灯だけが、間延びして立っている。
『レスラー』が拳銃を確かめている。
『レディー』は、木の陰から通りを見張っている。
『ホラー』は、俺の隣にいた。
いつもより、近い。
「見えたら、教えてください」
「何がです」
「小沢さんには、まだ見えないと思います」
まだ、という言い方が引っかかった。
***
風もないのに、街灯が一つ、揺れた。
『ホラー』が、俺の腕を、初めてつかんだ。
「来ました」
姿そのものは、何も見えない。
街灯の下に、影が伸びているだけだ。
だが、影の形が、おかしい。
手が、四本ある。
何なのかは、分からない。
見えているのは、影の異常さだけだ。
中身までは、俺には視えていない。
影が、こちらへ来る。
***
『レスラー』が撃った。
狙いは、影の輪郭だけだ。
本体らしきものは、この男にも見えていない。
動きの異常さだけを追って、引き金を引いている。
弾が、影を素通りした。
音だけが、公園に響いた。
「効かない!」
「気功で何とかしろ!」
言われても、気功ではない。
魔法だ。
だが、そんなことを言っている場合ではない。
火を出した。
いつもの、小さい火だ。
影の端が、少し焦げて、すぐ戻った。
足りない。
『ホラー』の声が、耳元で聞こえた。
「加減しないでください」
「え」
「加減している限り、視えないものには効きません」
初めて、命令された。
初めて、この人から。
***
イメージを、抑えなかった。
野球ボールでも、メロンでもない。
リビングで加減を忘れて出した、あの火の玉のイメージだ。いや、それより大きく。
「むん――!!」
ドワッ!
火の玉が、影を丸ごと包んだ。
影が、悲鳴のような音を立てて、消えた。
街灯が、元どおり止まった。
公園が、静かになる。
***
膝が、笑っていた。
「今の、何だ」
『レスラー』が、俺を見た。
「気功――」
言いかけて、止めた。
『ホラー』が、俺を見ていた。
髪の隙間から、まっすぐに。
「今のは、気功じゃないですよね」
『ホラー』が、初めて、その言葉を口にした。
誤魔化しの、行き場がなくなった。
「……」
「言わなくていいです」
「いずれ、分かりますから」
そう言って、また下を向いた。
いつもの、床を見る人に戻った。
***
『レディー』が、木の陰から出てきた。
「ふーん」
いつもの音だ。
だが、続きが違った。
「あんたの言い訳、そろそろ通らないわよ」
図星だった。
何も、言い返せなかった。
***
車の中で、誰も何も言わなかった。
『ホラー』だけが、窓の外を見ていた。
「小沢さん」
しばらくして、また声がした。
「これから、こういうのが増えます」
「気功じゃ通らないものが」
「はい」
短い返事だった。
だが、初めて、自分から話しかけられた。
***
アパートに帰った。
「おかえりじゃ」
メレオスが、ソファにいる。
「今日、何かあったな」
「何で分かる」
「顔が違う」
説明する気力が、まだ出てこない。
「相手は、人間じゃなかった」
メレオスの顔から、笑いが消えた。
「視えたか」
「視えてない。俺には見えなかった。『ホラー』が見てた」
「なるほどのぉ」
「知ってるのか」
「知っておる」
今度は、はぐらかさなかった。
「あれは、この世に紛れた者たちよ。伊左衛門の弟子たちも、正規の警察も、手が出せん理由がそれじゃ」
「なんで教えてくれなかった」
「聞かれなかったからのぉ」
いつもの返事だ。
だが、今日は、腹は立たなかった。
「加減するな、と言われた」
「言うじゃろうな」
「大きい火を出した」
「初めての、本気の一発じゃったな」
メレオスが、久しぶりに笑った。
***
今日は、体ではなく、頭が疲れた。
憂鬱だ。
だが、少しだけ、違う憂鬱だ。




