第十一章 再び訓練
三日目の朝も、ネクタイは一度で決まらない。
地下に降りた。
六、三、一、六。閉じるボタン、長押し。
会議室には、課長だけがいた。
「今日は現場なしだ。訓練だ」
資料は、出てこない。
危険手当の仕事が、今日は休みらしい。
「地下の訓練場、昨日空けておいた。加減の練習をしてくれ」
「拳銃もだ。天井は撃つなよ」
『レスラー』が、入り口から顔を出した。
車の中で言ったことを、忘れていなかった。
「……はい」
お気楽な承諾である。
訓練なら、倉庫よりましだと思った。
思っただけである。
***
加藤さんが、紙の束を持ってきた。
「小沢さん、これ。訓練場の使用届と、消火器の確認欄。判子、三か所ね」
存在しない部署に、使用届がある。
判子も、三か所ある。
「現場には、出ないの?」
「私は救護と事務だから。出ないわ。湿布なら、あとで持っていく」
戦いには出てこない。
少し、安心した。
少しだけ、置いていかれた気がした。
『レディー』は、自分の机で爪を塗っている。
『ホラー』は、奥の席にいる。
資料の端でも、床でもなく、こちらを見ていない。
***
訓練場は、道場の奥だった。
コンクリートの箱である。
天井は高い。壁は厚い。
「先に銃だ」
『レスラー』が、拳銃を渡してきた。
冷たい。昨日より、少しだけ慣れた。
的が、奥に立っている。人の形ではない。丸い。助かった。
「安全装置。構え。撃て」
撃った。
床ではない。天井でもない。
壁の、的の左だった。
「マシだ。空は撃ってない」
褒め方が、昨日と同じ温度である。
二発目は、的の右。
三発目は、的の下。
的そのものには、当たらない。
「気功の前に、これをやれと言ったのは、こういうことだ」
「気功です」
「分かったよ」
分かってない。
分かってくれたふりは、訓練場でも続いていた。
***
『レディー』が、入り口に立っていた。
腕を組んでいる。
「見てるだけ。邪魔しない」
『ホラー』は、もっと奥の影にいた。
いつ来たか、分からない。
床を見ている。訓練場の床である。
***
「次、気のほうだ。小さくやれよ。倉庫みたいにするな」
『レスラー』が、壁際へ下がる。
距離の取り方が、正直である。
小さく。アパートの宿題だ。
リビングのときより小さく。指より大きく。
ガスコンロの火、ガスコンロの火。
「むん」
火種が、指先に灯った。
あちち。
消火器が、近くにある。
政府の訓練場である。消火器の一つや二つ、あって当然だ。
火が、跳ねた。
消火器の赤い腹に、火が当たる。
消火器が、音を立てて、白く噴いた。
粉が、顔にかかる。
『レスラー』が、噴いたあとの消火器を見ている。
「加減、難しいらしいな」
課長の台詞を、現場で再現された。
***
粉を払う。
指が、まだ熱い。
雷なら、火より小さい。
山では、自分に落ちた。小さくすれば、落ちないはずだ。
はずだ、は、この男には弱い。
「いくぞ。小さく」
バチッ!
的の横が、黒く焦げた。
自分の腕も、跳ねた。
「痛っ!自分の——」
『火の次は雷か。またもや再現じゃな』
頭の中で、メレオスが笑った。
来ていない。来ていないはずだ。
都合のいいときは、声だけ来る。
『レディー』が、口を開いた。
「ふーん。気功って、自分にも当たるの」
「違います」
「当たってるけど」
***
壁だ。
弾を止めた壁を、通路の幅より狭くする。
イメージは、ドア一枚。ドア一枚。
「ストーンウォール」
石壁が、立ち上がった。
ドア一枚ではない。
訓練場の入口を、塞いでいる。
『レディー』の「ふーん」が、壁の向こうから聞こえた。
「出られないんだけど」
「すみません」
石壁を柔らかくする。
石壁が、半分沈んだ。
入口は、開いた。
床に、穴が残った。消しすぎた。
『レスラー』が、穴を覗いている。
「倉庫の壁は、誰がどかすんだと思った。自分でか」
「……はい」
『ホラー』が、穴を見ていた。
髪の隙間から、目が見える。
何も言わない。
穴から、俺へ、視線だけが移る。
背中が、冷たい。
倉庫のときと同じ冷たいである。
***
加藤さんが、遅れて入ってきた。
湿布と、新しい使用届を持っている。
「消火器、一個減ってるって連絡が。あと、床に穴?」
「気功です」
「気功で、床がへこむの」
「へこみました」
「判子、追加ね。破損届。三か所」
戦いには出ない。
後始末の書類は、出してくる。
指に、湿布を貼られた。
癒される。
癒されている場合ではないが、癒される。
課長が、穴の縁に立っていた。
いつ来たか、分からない。頼りない人の、出現の仕方である。
「うん、うん。加減は、まだだね」
「明日は現場かもね。今日は上がってくれ」
かも、がつく。
決定事項ではない。命令に近い、でもない。
この人らしい。
***
帰りのエレベーター。
六、三、一、六。閉じるボタン、長押し。
商店街を抜ける。
コロッケは、昨日の残りがある。今日は買わない。
携帯が鳴った。
妹だ。
「お兄ちゃん。仕事、変わったんでしょ」
実家に、情報が回ったらしい。
円満退社は、本人より先に家族へ着くようだ。
「警察関係だ」
「公安とかじゃないの」
ギクリ、勘が鋭い妹だ。
「警察関係だ」
二回言った。
回数で押すのは、課でも家でも同じである。
「……ふーん」
『レディー』の「ふーん」と、音が似ている。
言わない。
「また行くから。話、聞かせて」
「残業だ」
「毎回そう言わないで」
切れた。
妹は、あきらめていない。
訓練場の穴より、こっちのほうが深い。
***
「加減は、できたか」
リビングに、メレオスがいる。
聞かれてもいないのに、核心を突く。
「消火器を、噴かした」
「ぶわっはは!」
「雷は自分に当たった。壁は入口を塞いだ。床に穴が残った」
「人前で、魔法と言わなんだ。気功で通した。それだけはええ」
「『ホラー』が、穴を見ていた」
「見られておったのぉ」
「その言い方は、禁止だ」
「禁止は、お主が決めるのか」
「決める」
「ほう。守護神に禁止を出すか」
「出す」
メレオスは、腹を抱えて笑った。
役に立たない。今日も、役に立たない。
***
湿布が、指に残っている。
破損届の控えが、ポケットにある。
悪くない職場かもしれない。
穴の空いた訓練場と、消火器の減った箱と、見てくる目がある職場である。
明日は現場かも、だ。
憂鬱だ。




