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第百二十九章 牛は、元気だった

「牛は、元気だった」


『ジョン』が言った。

0課の扉を、開けるなりだった。


***


四月二十六日。月曜日。

0課の朝だった。


『ジョン』は、五日、いなかった。


***


「……それだけ、ですか」


「それから、話す」


『ジョン』は、自分の机に鞄を置いた。

名札が、まだ二重のかぎかっこだった。


***


五日前の、ことだった。


『ジョン』は、旅券がなかった。

三月に、紙から消された男だった。


***


赤城さんが、一日で、紙を一枚取ってきた。


自分の国の旅券がない人に、日本が出す紙だった。

判子は、四か所だった。


「二度目ですね」


加藤さんが言った。


***


家では、ケイトさんが「説明を」と言った。


「牛を、見に行く」


ケイトさんは、少し考えて、「オーケー」と言った。

それから、領収書は全部取っておけ、と言った。


***


エミリーは、牛の写真を頼んだ。


***


「入れたのか。向こうに」


『レスラー』が聞いた。


「入れた」


***


「審査官が。俺の、顔を見た」

「紙を、見た。画面を、見た」


「それから。通した」


***


「画面に、何て、出てたんですか」


『ギーク』が、画面の向こうから聞いた。


「知らない。見せては、くれない」


『ジョン』は、少し黙った。


「ただ。審査官は、驚いて、いなかった」


***


「誰かが、先に。電話を、していた」


***


誰が、とは、言わなかった。


ニューヨークの空港で、エミリーに手を振った人がいた。

『ジョン』も、それを、知っていた。


***


「ワイオミングは。遠かった」


***


「空港から、車で、四時間だ」

「途中から。道が、なくなる」


***


「牧場の、柵に。あいつが、もたれていた」


「三年ぶりだ」


「……何て」


「遅い、と」


***


ケイトさんと、同じだった。


『ジョン』は、会う人みんなに、遅いと言われる人らしかった。


***


「牛を、見せられた」


「三十頭、いた」

「一頭ずつ、名前を、言われた」


***


「覚えたんですか」


「茶色いのが、ジョージだ」


それだけ、覚えていた。


***


「それから。ポーチで、コーヒーを、飲んだ」


『ジョン』は、自分の机の上で、指を組んだ。


「そこで、聞いた」


***


部屋が、静かになった。


***


「三年前。あいつを、止めた、男がいる」

「あいつの、娘の、学校の、写真を。封筒で、送ってきた、男だ」


***


「その男が。西経、七十五度だ」


***


「何者だ」


課長が、聞いた。

うん、とは、言わなかった。


***


「CIAの、作戦本部」

「上から、三番目くらいの、席だ」


***


「若いころは。東京に、いた」


『ジョン』が言った。


「七十年代の、はじめだ」


***


七十年代の、はじめ。


昭和四十五年の冬至と、同じころだった。


***


「五十年前の、件の。担当者が、いた、だろう」


「紙ごと、消された、人」


俺が言った。

『ジョン』が、三月に、自分と同じだと言った人だった。


***


「消したのは。その男だ」

「若いころの、最初の、仕事だった、そうだ」


***


「……紙で、消す」


『ジョン』は言った。


「五十年前に、それを、覚えた男だ」

「俺も。それで、消された」


***


加藤さんが、手帳を開いた。


何も、書かなかった。

ペンを、持ったままだった。


***


「名前は」


課長が、もう一度聞いた。


「あいつは、言わなかった」

「俺も。聞かなかった」


***


「聞けば。あいつの、家族が。また、写真を、もらう」


***


それ以上、誰も、聞かなかった。


***


「もう一つ、ある」


『ジョン』は、指をほどいた。


***


「去年の、秋から。病院に、通っている」

「昔の、仲間から。あいつが、聞いた」


***


「何の、病気だ」


「そこまでは、知らない」

「ただ」


***


「次の、冬は。越せない、そうだ」


***


冬至までは、待てない。


だから、夏至だった。

一番短い夜に、無理をする理由だった。


***


「……それで、共さんか」


『レディー』が言った。

爪を、見ていなかった。


「年を、取らなかった、人」


***


共さんは、自分の机にいた。


書類の角を、そろえていた。

胸のポケットに、手帳があった。


***


俺は、黙っていた。


メレオスも、黙っていた。

『ホラー』も、黙っていた。


***


あの手帳の中に、白い一本が挟まっていた。


探しているものは、もう、なかった。

病気の男は、それを知らなかった。


***


課長が、立った。


ホワイトボードの『三 正体』の横に、書いた。


『CIA 作戦本部』

『七十年代 東京』

『病気 冬は越せない』


***


一番下に、もう一行、書いた。


『夏至』


***


「うん」


一回だった。


「赤城さんに、上げるね。全部」


***


昼休みに、『ジョン』はスマホを出した。


牛の写真だった。

茶色い、大きいのが、こっちを見ていた。


***


「ジョージですか」


「ジョージだ」


***


「エミリーに、送る」


『ジョン』は、写真を送った。


一分後に、返事が来た。

ひらがなだった。


***


『もー』


***


『ジョン』は、目元を、指で押さえた。


相棒から、初めて牛の写真が来た朝と、同じ押さえ方だった。


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