第百二十八章 お茶の、相手
「要りません」
共さんが言った。
護衛の話だった。
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四月二十日。火曜日。
0課の朝だった。
ホワイトボードの『二 身辺』の横に、まだ何も書いてなかった。
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「うん、うん」
課長が言った。
「でもね、共さん。向こうは、本気だからね」
「存じて、おります」
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「私は。伊左衛門さんの、道場に。通って、おりました」
共さんは、書類の角をそろえていた。
「受け身は。一度も、褒められませんでしたが」
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受け身以外は、褒められた人だった。
俺より、半歩少ない人だった。
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「試して、みますか」
『レスラー』が、立った。
「手首を、軽く」
「軽く、で、ございますね」
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『レスラー』が、共さんの手首を取った。
軽く、だった。
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天井が、見えたらしかった。
『レスラー』は、床に寝ていた。
音は、ほとんどしなかった。
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「……床、だった」
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共さんは、もう書類の前に戻っていた。
角は、そろったままだった。
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「九十三、だよな」
『ジョン』が、小声で言った。
「戸籍の、上ではな」
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「では」
加藤さんが言った。
「護衛では、なく」
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「お茶の、相手、では」
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共さんの手が、初めて止まった。
「……お茶の、お相手で、ございましたら」
少し、考えた。
「お断りする、理由が。ございません」
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課長が、『二 身辺』の横に書いた。
『昼 『レスラー』くん』
『夜 『ホラー』さん』
『名目 お茶』
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「お茶代は」
「私物です」
加藤さんは、聞かれる前に言った。
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その夜。
共さんの、官舎だった。
庁舎から歩いて十分。
六畳一間と、台所。
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母に、羊羹を持たされていた。
「共さんに。夜は、甘いものよ」
メレオスが、包みの上に座って運んできた。
重さで、包みが少し潰れていた。
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部屋の真ん中に、卓袱台があった。
『ホラー』が、正座していた。
湯呑みが、三つ並んでいた。
全部、空だった。
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「何杯目ですか」
「四杯目、です」
『ホラー』は、前髪を下ろしていた。
「仕事じゃ、ないので」
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護衛の、はずだった。
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「昼は、どうでした」
「『レスラー』さんの、膝が」
共さんが言った。
台所で、急須に湯を注いでいた。
「卓袱台に。三回、当たりました」
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六畳は、『レスラー』には狭かった。
一番大きい湯呑みで、出したらしかった。
それでも、手の中では、小さかったらしかった。
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共さんは、目を閉じて、三分数えた。
それから、注いだ。
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羊羹を、切った。
定規は、使わなかった。
全部、同じ厚さだった。
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『ホラー』は、ときどき、共さんの後ろを見た。
それから、窓の外を見た。
「……誰も、いません」
「ありがとう、存じます」
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話は、ほとんどなかった。
お茶を飲む音と、時計の音だけだった。
誰も、困っていなかった。
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「この二人、ずっと、これか」
俺は、小声で言った。
「ずっと、これじゃ」
メレオスが、羊羹を食べながら言った。
「ええ、相手じゃ」
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十時を、過ぎた。
共さんが、立った。
台所の横の、小さい鏡の前に行った。
寝る前に、髪をとかす人らしかった。
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櫛が、止まった。
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共さんは、鏡を見ていた。
長いこと、見ていた。
それから、指で、一本つまんだ。
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抜いた。
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白かった。
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部屋が、静かになった。
時計の音だけになった。
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共さんは、その一本を、明かりにかざした。
「……五十六年、ぶりで、ございます」
声は、いつもと同じだった。
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「……出たのぉ」
メレオスが言った。
羊羹を、置いていた。
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あれが、いたあいだ。
共さんは、年を取らなかった。
取らせて、もらえなかった。
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あれが、抜けて。
二か月と少し、だった。
止まっていた時計が、動き出していた。
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共さんは、手帳を出した。
一枚目の写真が、挟まっていた。
首が、十一度、傾いた写真だった。
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その隣に、白い一本を挟んだ。
手帳を、閉じた。
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「小沢さん」
「はい」
「皆さまには。まだ」
共さんは、手帳を胸のポケットにしまった。
「次の、卓まで」
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円卓の、解散の決の、ことだった。
百四十年、探してきたものの答えが、手帳の中にあった。
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「……うん」
一回だった。
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『ホラー』が、共さんの後ろを見ていた。
いつもより、長かった。
「……誰も、いません」
それから、少しだけ付け足した。
「共さん、だけです」
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帰り道、スマホが震えた。
『ギーク』だった。
『今夜も、来てます』
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向こうは、まだ知らなかった。
探しているものが、もう、ないことを。




