↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
163/176

第百二十六章 茶が、冷める

「……チャガ、サメル」


零度が言った。

日本語だった。


***


四月十七日。土曜日。

坂の上の、寺だった。


***


朝の十時に、山門の前で待っていた。


俺と、メレオスだけだった。

母には、寺までは来ないように言った。


「お茶の、支度があるから」

母のほうから、そう言った。


***


坂の下に、黒い車が止まった。


『ブル』が、先に降りた。

後ろの戸を、開けた。


***


降りてきたのは、小さい老人だった。


白い髪が、薄かった。

背広が、少し大きかった。


杖を、ついていた。


***


「……あれが、か」


肩の上で、メレオスが言った。


「縮んだのぉ」


***


坂は、長かった。


零度は、一段ずつ上った。

『ブル』は、手を貸さなかった。


貸せば、断られる人らしかった。


***


山門の前で、零度は止まった。


息が、上がっていた。

俺を、見た。


***


円卓の面の、奥の目だった。

面がないと、普通の、年寄りの目だった。


***


「小沢健司、です」


俺は、頭を下げた。

本名で、名乗った。


『ブル』が、英語で訳した。


***


零度は、長いこと俺を見ていた。


それから、英語で何か言った。

短かった。


***


「……知って、おった、と」


『ブル』が訳した。


「三月の、卓で。椅子を、直したときに」


***


床に、手をついた。

紙一枚と、半分。


あれで、分かったらしかった。


***


「伊左衛門殿も。膝を、つく前に」

「必ず、床を、見たそうで、ござる」


***


墓は、寺の裏の、一番上にあった。


小沢家之墓。

じいちゃんの名前が、新しかった。


***


零度は、杖を『ブル』に渡した。


墓の前に、膝をついた。

両手を、地面についた。


***


雪の日の、畳と、同じ形だった。


メレオスが、何も言わなかった。


***


長かった。


『ブル』は、横を向いていた。

俺も、横を向いた。


***


零度が、何か言った。

英語だった。


『ブル』は、訳さなかった。


訳さなくていい言葉らしかった。


***


最後に、一言だけ。

日本語だった。


「……チャガ、サメル」


***


五十年前に、一度だけ聞いた言葉だった。


それだけを、五十年、覚えていた人だった。


***


零度は、『ブル』の手を借りて立った。


借りた。

今度は、断らなかった。


***


「東経、百三十五度」


零度は、俺を見た。

英語だった。


『ブル』が訳した。


***


「五十年前。この家の、主に」

「約束を、申した」


「呼んだものは。我らが、片づける、と」

「卓は。我が、畳む、と」


***


「……五十年、かかり申した」


『ブル』の声が、低かった。


「畳むには。決を、採らねば、なりませぬ」

「七つの、席の。半分より、多く」


***


「貴殿の、一票が。要り申す」


***


肩の上で、メレオスが俺の耳を引っぱった。


言わなくても、分かっていた。


***


「話は」


俺は言った。


「お茶を、出してから、です」


***


『ブル』が、訳した。


零度は、少し黙った。


それから、笑った。

初めて見る顔だった。


***


「……同じで、ござる、と」


『ブル』が言った。


「この家は。五十年前も。同じで、ござった、と」


***


実家の玄関に、母が立っていた。


エプロンを、外していた。

父も、背広を着ていた。


休みの日なのに、だった。


***


「遠い、ところを。よく、いらっしゃいました」


母は、日本語だった。

零度は、英語で答えた。


***


『ブル』が、訳そうとした。


「分かります」


母が言った。


***


居間に、羊羹が出ていた。


冷蔵庫の、一本だった。

父が切った。崩れなかった。


***


母が、急須を持ってきた。


蓋を開けた。

茶葉が、山盛りだった。


***


「……母さん、それ」


「お義父さんの、淹れ方よ」


母は、黒い茶を注いだ。


***


零度は、湯呑みを両手で持った。


一口、飲んだ。


止まった。


***


それから、全部、飲んだ。


黙って、飲んだ。


***


母が、もう一杯注いだ。

零度は、それも飲んだ。


羊羹を、一切れ食べた。


***


「……うまかった、と」


『ブル』が訳した。


「茶も。羊羹も」


***


「そうでしょう」


母は言った。


「次は、いつ、いらっしゃるの」


***


零度は、答えなかった。

答えられない顔だった。


九十を、越えた人だった。


***


「……次の、卓で」


俺は言った。


「うん」


一回だった。


***


『ブル』が、訳した。


零度は、湯呑みを置いた。

俺に、頭を下げた。


それから、俺の肩のほうに。


***


もう一度、頭を下げた。


***


「……見えとるな」


メレオスが、小さく言った。


「五十年前も。見とった」


***


零度は、何も言わなかった。


ただ、肩の上のほうへ、少しだけ笑った。


***


帰りぎわ、玄関で、『ブル』のスマホが鳴った。


『ブル』は、画面を見た。

長いこと、見ていた。


***


「……西経、七十五度が」


『ブル』は言った。


「卓を、離れ申した」


***


零度は、靴を履いていた。


手が、止まらなかった。

知っていた顔だった。


***


「茶を、飲まなかった、席で、ござる」


『ブル』が言った。


一つだけ手つかずだったカップを、思い出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。