第百二十六章 茶が、冷める
「……チャガ、サメル」
零度が言った。
日本語だった。
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四月十七日。土曜日。
坂の上の、寺だった。
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朝の十時に、山門の前で待っていた。
俺と、メレオスだけだった。
母には、寺までは来ないように言った。
「お茶の、支度があるから」
母のほうから、そう言った。
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坂の下に、黒い車が止まった。
『ブル』が、先に降りた。
後ろの戸を、開けた。
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降りてきたのは、小さい老人だった。
白い髪が、薄かった。
背広が、少し大きかった。
杖を、ついていた。
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「……あれが、か」
肩の上で、メレオスが言った。
「縮んだのぉ」
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坂は、長かった。
零度は、一段ずつ上った。
『ブル』は、手を貸さなかった。
貸せば、断られる人らしかった。
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山門の前で、零度は止まった。
息が、上がっていた。
俺を、見た。
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円卓の面の、奥の目だった。
面がないと、普通の、年寄りの目だった。
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「小沢健司、です」
俺は、頭を下げた。
本名で、名乗った。
『ブル』が、英語で訳した。
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零度は、長いこと俺を見ていた。
それから、英語で何か言った。
短かった。
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「……知って、おった、と」
『ブル』が訳した。
「三月の、卓で。椅子を、直したときに」
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床に、手をついた。
紙一枚と、半分。
あれで、分かったらしかった。
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「伊左衛門殿も。膝を、つく前に」
「必ず、床を、見たそうで、ござる」
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墓は、寺の裏の、一番上にあった。
小沢家之墓。
じいちゃんの名前が、新しかった。
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零度は、杖を『ブル』に渡した。
墓の前に、膝をついた。
両手を、地面についた。
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雪の日の、畳と、同じ形だった。
メレオスが、何も言わなかった。
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長かった。
『ブル』は、横を向いていた。
俺も、横を向いた。
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零度が、何か言った。
英語だった。
『ブル』は、訳さなかった。
訳さなくていい言葉らしかった。
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最後に、一言だけ。
日本語だった。
「……チャガ、サメル」
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五十年前に、一度だけ聞いた言葉だった。
それだけを、五十年、覚えていた人だった。
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零度は、『ブル』の手を借りて立った。
借りた。
今度は、断らなかった。
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「東経、百三十五度」
零度は、俺を見た。
英語だった。
『ブル』が訳した。
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「五十年前。この家の、主に」
「約束を、申した」
「呼んだものは。我らが、片づける、と」
「卓は。我が、畳む、と」
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「……五十年、かかり申した」
『ブル』の声が、低かった。
「畳むには。決を、採らねば、なりませぬ」
「七つの、席の。半分より、多く」
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「貴殿の、一票が。要り申す」
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肩の上で、メレオスが俺の耳を引っぱった。
言わなくても、分かっていた。
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「話は」
俺は言った。
「お茶を、出してから、です」
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『ブル』が、訳した。
零度は、少し黙った。
それから、笑った。
初めて見る顔だった。
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「……同じで、ござる、と」
『ブル』が言った。
「この家は。五十年前も。同じで、ござった、と」
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実家の玄関に、母が立っていた。
エプロンを、外していた。
父も、背広を着ていた。
休みの日なのに、だった。
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「遠い、ところを。よく、いらっしゃいました」
母は、日本語だった。
零度は、英語で答えた。
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『ブル』が、訳そうとした。
「分かります」
母が言った。
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居間に、羊羹が出ていた。
冷蔵庫の、一本だった。
父が切った。崩れなかった。
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母が、急須を持ってきた。
蓋を開けた。
茶葉が、山盛りだった。
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「……母さん、それ」
「お義父さんの、淹れ方よ」
母は、黒い茶を注いだ。
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零度は、湯呑みを両手で持った。
一口、飲んだ。
止まった。
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それから、全部、飲んだ。
黙って、飲んだ。
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母が、もう一杯注いだ。
零度は、それも飲んだ。
羊羹を、一切れ食べた。
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「……うまかった、と」
『ブル』が訳した。
「茶も。羊羹も」
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「そうでしょう」
母は言った。
「次は、いつ、いらっしゃるの」
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零度は、答えなかった。
答えられない顔だった。
九十を、越えた人だった。
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「……次の、卓で」
俺は言った。
「うん」
一回だった。
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『ブル』が、訳した。
零度は、湯呑みを置いた。
俺に、頭を下げた。
それから、俺の肩のほうに。
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もう一度、頭を下げた。
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「……見えとるな」
メレオスが、小さく言った。
「五十年前も。見とった」
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零度は、何も言わなかった。
ただ、肩の上のほうへ、少しだけ笑った。
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帰りぎわ、玄関で、『ブル』のスマホが鳴った。
『ブル』は、画面を見た。
長いこと、見ていた。
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「……西経、七十五度が」
『ブル』は言った。
「卓を、離れ申した」
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零度は、靴を履いていた。
手が、止まらなかった。
知っていた顔だった。
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「茶を、飲まなかった、席で、ござる」
『ブル』が言った。
一つだけ手つかずだったカップを、思い出した。




