第百二十五章 黒い、茶
「次のぶんの、練習よ」
母が言った。
羊羹の話だった。
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四月十一日。日曜日。
実家の、夕飯のあとだった。
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居間が、狭かった。
父と母と、由紀と俺。
『ジョン』とケイトさんと、エミリー。
共さんと、メレオス。
五分の距離は、夕飯どきにはゼロになった。
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駅前の、和菓子屋の包みだった。
母が、包丁を持った。
父が、横から見ていた。
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「もう少し、薄く」
「崩れないって、言ったのは誰」
「……崩れないかを、見てる」
父は、見ているだけの人だった。
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切れた。
崩れなかった。
父は、少し満足そうだった。
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一切れ目に、手が二つ伸びた。
エミリーと、メレオスだった。
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「わしが、先じゃ」
「かみちゃん、きのうも、さき」
日本語が、増えていた。
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母が、一切れ目を半分に切った。
それで、終わった。
二人とも、文句を言わなかった。
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メレオスが、羊羹をかじった。
止まった。
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「……かみちゃん?」
エミリーが、顔をのぞきこんだ。
メレオスは、羊羹を持ったまま、天井を見ていた。
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「……思い出した」
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「雪じゃった」
メレオスは言った。
「昭和の、四十六年。一月の、はじめじゃ」
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冬至の山の、ひと月あとだった。
共さんが、いなくなったひと月あとだった。
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「門の、前に。男が、立っとった」
「外国の、男じゃ。四十くらいの」
「背広の、肩に。雪が、積もっとった」
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「ずっと、立っとった」
「呼び鈴も、押さんで」
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「伊左衛門が、気づいた」
「何も、聞かんかった」
「戸を、開けて。上げた」
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「それから。茶を、淹れた」
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「……いつもの」
共さんが言った。
「いつもので、ございますか」
「いつものじゃ。茶葉、山盛りの」
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「伊左衛門さんの、お茶は」
共さんは、湯呑みを見ていた。
「黒う、ございました」
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母が、小さくうなずいた。
母も、飲んだことがあるらしかった。
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「男は。黙って、飲んだ」
「全部、飲んだ」
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「それから。長いこと、喋った」
「何て」
「分からん」
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「英語じゃった。わしは、まだ、こっちの言葉も、ろくに知らんころじゃ」
時代劇を見はじめる前の、神様だった。
「伊左衛門も、分からん。顔で、分かった」
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「でも。伊左衛門は、最後まで、聞いとった」
「分からんのに」
「分からんのに、じゃ」
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「男は、畳に。手を、ついた」
メレオスは、自分の両手を、膝の前に置いてみせた。
「こう、じゃ。長いこと」
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「伊左衛門は、何も、言わんかった」
「最後に、一言だけ」
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「……茶が、冷める」
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居間が、静かになった。
エミリーだけが、羊羹の半分を食べていた。
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「それで」
「帰った。雪の中を」
「名前は」
「名乗らんかった。伊左衛門も、聞かんかった」
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「わしは。襖の、陰に、おった」
メレオスは、少し首を傾げた。
「男が、一度。こっちを、見た」
「……気が、する」
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「詫びに、来たのか」
『ジョン』が言った。
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「黙って、全部、飲むのは」
「詫びる、ほうの、飲み方だ」
アメリカの、飲み方の話らしかった。
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ケイトさんが、『ジョン』を見た。
「説明を」
『ジョン』が、英語で訳した。
ケイトさんは、うなずいた。
それ以上、何も聞かなかった。
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「その人」
母が言った。
「お茶、全部、飲んだのね」
「全部じゃ。黒いのを」
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「じゃあ。同じ人ね」
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「……母さん、それ、理屈が」
「黒いのを、全部飲む外国の人なんて。そう、何人もいないわよ」
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理屈では、なかった。
でも、誰も言い返さなかった。
円卓で、お茶を最初に飲んだのは、零度だった。
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「百四十年で、初めて、って」
由紀が言った。
「あの卓で、ってことでしょ」
「……うん」
「じゃあ、一回目は。うちだったんだ」
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スマホが、鳴った。
『ブル』だった。
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「御免」
「零度が。日本へ、参り申す」
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「……いつ」
「来週で、ござる」
『ブル』の声が、少しだけ低かった。
「墓に。参りたい、そうで、ござる」
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電話を、切った。
全員が、こっちを見ていた。
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母は、何も言わずに立った。
羊羹を、もう一本、冷蔵庫にしまった。
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「次のぶんよ」




