第百二十四章 八人目
「判子は、一つで、足りる」
赤城さんが言った。
「足りません」
加藤さんが言った。
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四月八日。木曜日。
0課の朝だった。
赤城さんは、書類の束を机に置いた。
鷲尾さんの束より、厚かった。
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「『ジョン』を。この課に、入れる」
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『ジョン』は、自分の机にいた。
半年、座ってきた机だった。
連絡係の、机だった。
0課の机では、なかった。
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「……俺か」
「お前だ」
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0課は、前から八人で数えていた。
忘年会のお膳も、八人で数えた。
数えていたのは、俺たちだけだった。
書類の上では、七人だった。
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「外国籍の、方は」
加藤さんが言った。
手帳を、開いていなかった。
「警察官には、なれません」
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「警察官には、しない」
「では、何に」
「嘱託だ」
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「職名は」
赤城さんは、黙った。
用意していなかったらしかった。
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「……通訳」
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「俺は、通訳か」
『ジョン』が言った。
「この課で、日本語が、一番、下手な、通訳だ」
「英語は、一番だ」
「……それは、そうだ」
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「判子は」
加藤さんが言った。
「警察庁、一か所。法務省、二か所。外務省、一か所」
「人事院、一か所。総務の、窓口、一か所」
「課長、一か所」
「七か所です」
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赤城さんは、束を一枚ずつめくった。
判子が、押してあった。
六か所、押してあった。
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「……いつ」
「きのうだ」
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番号札は、取らなかったらしかった。
窓口の前に、座ったらしかった。
閉まるまで、動かなかったらしかった。
六か所で、六回、それをやったらしかった。
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「ごり押しで、ございますね」
共さんが言った。
褒めている声だった。
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「残りは。一か所だ」
赤城さんは、束を課長の前に置いた。
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課長は、束を見た。
「……うん、うん」
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全員が、待った。
二回のときは、考えている。
考えているのは、晩ごはんだった。
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赤城さんも、待った。
大臣が、課長の晩ごはんを待っていた。
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「……きょうは、肉じゃがだね」
課長は言った。
「うん」
一回だった。
判子を、押した。
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七か所だった。
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「本名を」
加藤さんが、紙を一枚出した。
「この欄に。書類の、上だけです」
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『ジョン』は、ペンを取った。
長い名前を、書いた。
俺は、見なかった。
見ないほうがいいやつだった。
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加藤さんは、紙を読んだ。
ファイルに、挟んだ。
「書類の上では。こちらの、お名前です」
「この課では」
「『ジョン』さんです」
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「給料は」
『ジョン』が聞いた。
小さい声だった。
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三月の九日から、どこにもいない男だった。
カードが三枚、止まった男だった。
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「出ます」
加藤さんは言った。
「二十五日です」
「今月は、日割りです」
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『ジョン』は、長いこと黙っていた。
「……出るのか」
「出ます。一円まで」
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「よかったのぉ」
肩の上で、メレオスが言った。
「わしは、出んぞ」
「お前は、いないからな」
「おらんでも。飯は、食える」
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『ギーク』が、画面の向こうで手を挙げた。
「名簿、入りました」
「今、入りました。八人目です」
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「歓迎会は」
『レスラー』が言った。
「半年前に、やりました」
加藤さんが言った。
「経費では、落ちません」
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赤城さんが、上着の内ポケットに手を入れた。
革の、重たそうな財布だった。
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「いい」
『ジョン』が言った。
「俺が、払う」
「二十五日に、出る」
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「割り勘だ」
「一円まで、ですか」
「一円まで、だ」
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それから、少し考えて、言った。
「……大臣の、ぶんは。俺が、持つ」
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赤城さんは、財布をしまった。
「……そうか」
それだけだった。
ごり押しした人は、押し返されると、弱かった。
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夕方、『ジョン』の机に、名札が置かれた。
加藤さんの字だった。
『0課 『ジョン』』
かぎかっこが、二重になっていた。
誰も、直さなかった。
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夜。実家の居間だった。
『ジョン』は、座布団の上で正座していた。
半年で、初めてだった。
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「先に、言う」
うちの決まりだった。
覚えたらしかった。
「引っ越す」
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母は、湯呑みを置いた。
先に動いたのは、エミリーだった。
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台所から、走ってきた。
母のエプロンを、つかんだ。
両手だった。
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「やだ」
日本語だった。
学校で、二つ目に覚えた言葉らしかった。
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『ジョン』が、英語で何か言った。
エミリーは、首を横に振った。
エプロンが、引っぱられた。
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来てからひと月、エミリーは母の後ろにいた。
台所でも、物干しでも、スーパーでも。
カレーの味見は、毎回エミリーの係だった。
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「やだ。ここが、いい」
三つ目の、日本語だった。
***
母は、エプロンを外さなかった。
エミリーの頭に、手を置いた。
「どこに、引っ越すの」
『ジョン』に、聞いていた。
「……まだ、決めて、ない」
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母は、エミリーをくっつけたまま、台所へ行った。
紙を一枚、持って戻ってきた。
不動産屋の、チラシだった。
赤い丸が、一つ付いていた。
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「ここ」
「……いつ」
「先週よ」
「赤城さんが、電話で。給料が、出ますって」
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俺たちが聞いたのは、けさだった。
大臣は、先に母に言っていた。
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母は、しゃがんだ。
エミリーと、目の高さが同じになった。
チラシの地図を、指でなぞった。
赤い丸から、この家まで。
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「歩いて、五分」
エミリーは、地図を見ていた。
分かっていない顔だった。
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父が、英語で言った。
一言だった。
エミリーの手が、少しゆるんだ。
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「……まいにち」
エミリーが言った。
「まいにち、きて、いい?」
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「毎日よ」
母は言った。
「お味噌汁が、冷めない距離よ」
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エミリーは、エプロンを離した。
それから、もう一度つかんだ。
今度は、片手だった。
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「保証人は、俺だ」
父が言った。
新聞は、読んでいなかった。
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ケイトさんが、チラシを見た。
「説明を」
父が、英語で説明した。
間取りと、家賃と、味噌汁の話だった。
味噌汁のところで、少し長くかかった。
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ケイトさんは、手帳を出した。
最後のページの、『TBD』の行だった。
ペンを、持った。
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「ごはんは。まだ、ここで、食べるのよ」
母が言った。
見ないで、言った。
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ケイトさんは、ペンを置いた。
何も、書かなかった。
手帳を、閉じた。
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「かみちゃんは」
エミリーが、俺の肩を見た。
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「わしは。健司の、守護神じゃ」
メレオスが言った。
エミリーの顔が、下を向いた。
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「……夕飯どきは。こっちに、来る」
エミリーの顔が、上を向いた。
「毎日じゃ」
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「お前、それ。俺の、夕飯は」
「健司も、来れば、ええ」
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引っ越し先は、実家から、歩いて五分だった。
味噌汁は、冷めなかった。




