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第百二十四章 八人目

「判子は、一つで、足りる」


赤城さんが言った。


「足りません」


加藤さんが言った。


***


四月八日。木曜日。

0課の朝だった。


赤城さんは、書類の束を机に置いた。

鷲尾さんの束より、厚かった。


***


「『ジョン』を。この課に、入れる」


***


『ジョン』は、自分の机にいた。

半年、座ってきた机だった。


連絡係の、机だった。

0課の机では、なかった。


***


「……俺か」


「お前だ」


***


0課は、前から八人で数えていた。

忘年会のお膳も、八人で数えた。


数えていたのは、俺たちだけだった。

書類の上では、七人だった。


***


「外国籍の、方は」


加藤さんが言った。

手帳を、開いていなかった。


「警察官には、なれません」


***


「警察官には、しない」


「では、何に」


「嘱託だ」


***


「職名は」


赤城さんは、黙った。

用意していなかったらしかった。


***


「……通訳」


***


「俺は、通訳か」


『ジョン』が言った。


「この課で、日本語が、一番、下手な、通訳だ」


「英語は、一番だ」


「……それは、そうだ」


***


「判子は」


加藤さんが言った。


「警察庁、一か所。法務省、二か所。外務省、一か所」

「人事院、一か所。総務の、窓口、一か所」

「課長、一か所」


「七か所です」


***


赤城さんは、束を一枚ずつめくった。


判子が、押してあった。

六か所、押してあった。


***


「……いつ」


「きのうだ」


***


番号札は、取らなかったらしかった。


窓口の前に、座ったらしかった。

閉まるまで、動かなかったらしかった。


六か所で、六回、それをやったらしかった。


***


「ごり押しで、ございますね」


共さんが言った。

褒めている声だった。


***


「残りは。一か所だ」


赤城さんは、束を課長の前に置いた。


***


課長は、束を見た。


「……うん、うん」


***


全員が、待った。


二回のときは、考えている。

考えているのは、晩ごはんだった。


***


赤城さんも、待った。

大臣が、課長の晩ごはんを待っていた。


***


「……きょうは、肉じゃがだね」


課長は言った。


「うん」


一回だった。


判子を、押した。


***


七か所だった。


***


「本名を」


加藤さんが、紙を一枚出した。


「この欄に。書類の、上だけです」


***


『ジョン』は、ペンを取った。

長い名前を、書いた。


俺は、見なかった。

見ないほうがいいやつだった。


***


加藤さんは、紙を読んだ。

ファイルに、挟んだ。


「書類の上では。こちらの、お名前です」

「この課では」


「『ジョン』さんです」


***


「給料は」


『ジョン』が聞いた。

小さい声だった。


***


三月の九日から、どこにもいない男だった。

カードが三枚、止まった男だった。


***


「出ます」


加藤さんは言った。


「二十五日です」

「今月は、日割りです」


***


『ジョン』は、長いこと黙っていた。


「……出るのか」


「出ます。一円まで」


***


「よかったのぉ」


肩の上で、メレオスが言った。


「わしは、出んぞ」


「お前は、いないからな」


「おらんでも。飯は、食える」


***


『ギーク』が、画面の向こうで手を挙げた。


「名簿、入りました」

「今、入りました。八人目です」


***


「歓迎会は」


『レスラー』が言った。


「半年前に、やりました」


加藤さんが言った。


「経費では、落ちません」


***


赤城さんが、上着の内ポケットに手を入れた。

革の、重たそうな財布だった。


***


「いい」


『ジョン』が言った。


「俺が、払う」

「二十五日に、出る」


***


「割り勘だ」


「一円まで、ですか」


「一円まで、だ」


***


それから、少し考えて、言った。


「……大臣の、ぶんは。俺が、持つ」


***


赤城さんは、財布をしまった。


「……そうか」


それだけだった。

ごり押しした人は、押し返されると、弱かった。


***


夕方、『ジョン』の机に、名札が置かれた。


加藤さんの字だった。

『0課 『ジョン』』


かぎかっこが、二重になっていた。

誰も、直さなかった。


***


夜。実家の居間だった。


『ジョン』は、座布団の上で正座していた。

半年で、初めてだった。


***


「先に、言う」


うちの決まりだった。

覚えたらしかった。


「引っ越す」


***


母は、湯呑みを置いた。


先に動いたのは、エミリーだった。


***


台所から、走ってきた。

母のエプロンを、つかんだ。


両手だった。


***


「やだ」


日本語だった。

学校で、二つ目に覚えた言葉らしかった。


***


『ジョン』が、英語で何か言った。

エミリーは、首を横に振った。


エプロンが、引っぱられた。


***


来てからひと月、エミリーは母の後ろにいた。


台所でも、物干しでも、スーパーでも。

カレーの味見は、毎回エミリーの係だった。


***


「やだ。ここが、いい」


三つ目の、日本語だった。


***


母は、エプロンを外さなかった。

エミリーの頭に、手を置いた。


「どこに、引っ越すの」


『ジョン』に、聞いていた。


「……まだ、決めて、ない」


***


母は、エミリーをくっつけたまま、台所へ行った。

紙を一枚、持って戻ってきた。


不動産屋の、チラシだった。

赤い丸が、一つ付いていた。


***


「ここ」


「……いつ」


「先週よ」

「赤城さんが、電話で。給料が、出ますって」


***


俺たちが聞いたのは、けさだった。

大臣は、先に母に言っていた。


***


母は、しゃがんだ。

エミリーと、目の高さが同じになった。


チラシの地図を、指でなぞった。

赤い丸から、この家まで。


***


「歩いて、五分」


エミリーは、地図を見ていた。

分かっていない顔だった。


***


父が、英語で言った。

一言だった。


エミリーの手が、少しゆるんだ。


***


「……まいにち」


エミリーが言った。


「まいにち、きて、いい?」


***


「毎日よ」


母は言った。


「お味噌汁が、冷めない距離よ」


***


エミリーは、エプロンを離した。


それから、もう一度つかんだ。

今度は、片手だった。


***


「保証人は、俺だ」


父が言った。

新聞は、読んでいなかった。


***


ケイトさんが、チラシを見た。


「説明を」


父が、英語で説明した。

間取りと、家賃と、味噌汁の話だった。


味噌汁のところで、少し長くかかった。


***


ケイトさんは、手帳を出した。

最後のページの、『TBD』の行だった。


ペンを、持った。


***


「ごはんは。まだ、ここで、食べるのよ」


母が言った。

見ないで、言った。


***


ケイトさんは、ペンを置いた。


何も、書かなかった。

手帳を、閉じた。


***


「かみちゃんは」


エミリーが、俺の肩を見た。


***


「わしは。健司の、守護神じゃ」


メレオスが言った。


エミリーの顔が、下を向いた。


***


「……夕飯どきは。こっちに、来る」


エミリーの顔が、上を向いた。


「毎日じゃ」


***


「お前、それ。俺の、夕飯は」


「健司も、来れば、ええ」


***


引っ越し先は、実家から、歩いて五分だった。


味噌汁は、冷めなかった。


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